私の不登校日記

粋羽菜子

私の不登校日記

中学一年生。

中学受験をして、憧れだった中高一貫に入学する日がやってくる。

友達もまだいないし、勉強は難しくなるし、不安なことが沢山あるけど、同じくらい期待もしてる。

どんな友達と会えるかな、どんな思い出が出来るかな。

私の未来はきっと楽しいことで溢れてる。

学校の窓に張り出された組み分けの紙には、同じ塾で学んだ子の名前もちらほら居て少し安心する。

教室に着いたら、座席表を見て素早く自分の席と周りの席の子の名前を確認する。

自分の席に腰を下ろすと、周りの子に話しかける機会を伺う。教室は元々の知り合い以外の子と話す人はあまり居なくて、少し緊張した空気と、入学式の浮ついた空気が入り交じっている。

しばらくすると担任の先生がやってきて入学式に連れていかれる。溌剌とした先生だったので、これから楽しくなりそうで安心だ。

ただ、あまり周りの子と話さないうちに入学式本番を迎えてしまった。少し残念。

入学式は先輩達の合唱で私たち新入生を歓迎してくれて嬉しかった。合唱の強豪校であるこの学校は、合唱部以外の一般の生徒も合唱が上手で驚いた。教会の聖歌隊さながらの合唱だった。この学校がカトリックの学校で聖歌ばかり歌っていたので聖歌隊というのもあながち間違いでは無い。

あとはボーッとしていたら、入学式は終了。初日は特に何も出来ずに帰宅だ。

入学式からしばらく経つと徐々に仲が良い友達同士のグループが出来上がっていく。私も上手く波に乗って、六人からなる仲良しグループの一員になった。

グループで分かれるように言われると、直ぐにこのグループにさっと分かれる。ちょっとずつメンバーの趣味や誕生日を聞き出したりして、誕生日にはプレゼントを送り合う仲になった。

ディズニーランドにも行ったりして、楽しい思い出を沢山作って中学一年生は終了した。

中学二年生。

はじめての後輩ができるとあって、始業式からみんなの浮ついた空気が止まらない。

対して体格も変わらないのに、ちっちゃいね、華奢だね、なんて囁きあう。

去年、私が感動した入学式の合唱も今年は歌う側になった。何だか少し誇らしい。

そんなこともあったけど、二年生として初めに当たる高い壁はクラス替えだ。

一年生の時に作った仲良しグループがバラバラになる。

我が校は一学年4クラスの少人数制。六人である我々の仲良しグループだったら、一人ぐらい同じクラスになってもいいはずだ。

これは重大な問題で、始業式の朝は緊張と興奮が冷めやらぬまま学校に向かった。

結果、私は仲良しグループの中で少し地味めな存在感を放つ子と同じクラスになることに成功した。

私が一緒のクラスになりたかった子とは違う子だったけれど、とにかく仲良しグループの一員と同じクラスになれて一安心だ。

それに、クラスが別れた時はどうなるかと思ったものの、意外と仲良しグループ六人で一緒に行動する機会はあった。

ついでに言うなれば、地味めな彼女の部活の友達などとも友達になることに成功した。

しばらくして、人間関係のごちゃごちゃが落ち着いてくる。

仲良しグループでは、お互いをあだ名で呼び合うことが流行っていた。

そんなある日、事件は起こった。

仲良しグループの一人、落合さんに頭文字をとって「おっちゃん」というあだ名がつけられた。ただ、おっちゃんというのはおじさんの砕けた言い方でもあるので、落合さんはこの「おっちゃん」呼びを嫌がった。

私の苗字も大津で、頭文字が「お」なので私も「おっちゃん」の危機に立たされている。嫌な気持ちはよく分かる。

ただ、仲良しグループのみんなはおっちゃん呼びを嫌がる落合さんの反応を面白がって、声を揃えて「おっちゃん!おっちゃん!」と囃し立てる。

やめようよ、嫌がってるよ。自分の心の中で呟く。ただ、みんなの盛り上がった空気を壊すのが怖くて、みんなと違う行動をとる勇気がなくて、声に出せなかった。

私が密かに途方に暮れていると、たまたま通り掛かったクラスメイトが一言「やめなよ、嫌がってるよ」。

かっこいい、すごい、私は言えなかった、嫌がっているのに見て見ぬふりをしてしまった、自己保身しか考えてなかった、恥ずかしい、悔しい。

声をかけられた途端、案の定一瞬微妙な空気が流れてそれからぽつぽつと落合さんにごめん、と謝る声が聞こえた。落合さんはクラスメイトに感謝していた。

私はその1週間後、はじめて風邪以外で学校を休んだ。

母には、学校で嫌がってるクラスメイトを変なあだ名で呼び続ける子がいて、すごく嫌な気分だから行きたくないと泣きながら言った。

本当は、あの日声をあげられなかった事が心にひっかかっていて、自分に自信が持てなくなっただけだった。

この日を境に、毎日学校に登校することが難しくなった。中学二年生が終わる。

中学三年生。

この年は、1年間の出席日数が欠席日数より少なかった。学校になかなか行けなくて、でも、なんで行きたくないのか分からなかった。

学校を休んでいる分、当然勉強も遅れるし、みんなと同じ時間を共有出来ないから話についていけないこともある。

苦しい。

けど、仲間も出来た。私と同じように毎日学校に通うのが難しく、保健室に入り浸っている友達。3人もいた。私ひとりじゃないんだ。

そう思うと少し救われる気がした。仲間は大きな心の支えだ。

お母さんとも一悶着あった。娘が特にこれといった理由もなく学校に毎日通うのが難しくなってしまったのだ。お母さんの気持ちは分からないが、困惑したし動揺もしただろう。ただ、中学三年生ともなれば思春期真っ只中だ。思春期な私はお母さんに対してかなり酷いことを言っていた。

死ねっていう手紙を送り付けて大満足していた。勝手に傷ついてろばーか。なんてね。

そんなこんなで半年が過ぎた頃、お母さんからカウンセリングに行ってみないかと提案を受ける。

絶対に行きたくない。だって、カウンセリングって病気の人が受けるやつだし。普通の人は受けてない。ちょっと異常な子が受けるやつでしょ?嫌だ。カウンセリングを受けるということは、自分が普通じゃないって認めるようなものだ。

結局、カウンセリングはお母さんだけが行くようになった。

しかし、それから3ヶ月後、私は私が学校に行けない事態に参ってしまって、自分は普通じゃないのかもしれない、なんて思い悩んだ末にお母さんに押し切られるような形でスクールカウンセラーの先生と精神科医の先生にかかることになった。

やっぱり、初めてのカウンセリングは自分が普通から外れてしまうような気がして、嫌な気分だったし、抵抗もあった。でも、色々と根掘り葉掘り聞かれるのかな、何を聞かれるのかな、って身構えていた割に実際話したのは趣味の話だけだった。

自分の好きな話をして、先生に好きな音楽グループをオススメして、それだけ話して帰ってきた。

あれ?何だか拍子抜けだ。しかも先生が聞き上手なものだから、なんなら楽しかった。ずっと鬱屈とした日々を過ごす中で久しぶりに楽しかった。

そういえば、お母さんもカウンセリングに通うようになってから、気分が参ってしまっていたのがスッキリしたようでなんだか私にも優しく接してくれるようになった。

後で聞いてみたら、他の不登校の子の話を聞いたり、不登校の子への接し方を聞いたらしい。

学校に行けないのはうちの娘だけじゃないと知って、ずいぶん安心したようだ。

たくさん心配させたし、たくさん不安にさせてしまった。思春期には傷つけたりしたし、それでも私を支え続けてくれて、本当にいい母を持ったものだと感謝の念が尽きない。

高校一年生。

危なかった。

いくら中高一貫とはいえ、学校に年半分以上来ていないとなると危うく転校を求められる所だった。

我が校は非常にのびのびとした校風で先生の面倒見が鬼のように良い学校だが、そもそも来ない生徒をバックアップするのは当然の事だが難しい様だ。

もう高校生になってしまった。ここからは義務教育じゃない。

国の決まりで1年間の出席日数の三分の一以上休んでしまうと留年になる。

とはいえ、1つ下の学年には私の従兄弟もいて大変気まずいため、留年イコール転校で間違いない。

せっかく受験勉強を頑張って入った学校だったし、既に友達もできている。出来るならばこのまま卒業したいところだ。

お母さんにも、せめて高卒の資格はとって欲しいと言われたし、自分で調べた範囲でも高卒資格が無ければ就職すら危うそうだった。スクールカウンセラーさんも気合いを入れてくれて、各教科の欠席日数が全体の三分の一を超えないように気を配ってくれるようになった。お母さんも自分で出欠席の表を作って私の出席状況をモニタリングしてくれる。

そして、私が存分に活用するようになるのが遅刻と早退だ。授業は一コマ45分、そのうち25分出席していれば書類の上では出席扱いになる。そのため、はじめの20分は保健室で休んだり、逆に少し早く出てきて帰ったり、休める時間は休むことにして戦略的に授業を受けていた。これは正に戦いであった。

そして、出席日数の他にもう一つ。

テストである。授業時間が少なくなって休憩時間が増えたのはいいものの、今度は授業を半分しか受けていないので勉学の知識も半分しか入っていない。

困った私を助けてくれたのは、中学一年生の時の仲良しグループからただ一人友達付き合いを続けていた地味めな彼女である。

彼女は本当に優しい子で、私が学校を休んで久しぶりに来た時もいつもと変わらぬ温かさで迎え入れてくれる。彼女がいつもと同じ態度を崩さないから、周りの友達も彼女に合わせていつもと同じ様に接してくれる。

持つべきものは素晴らしき友である。彼女はいつも半分しか授業を受けない私にノートやプリントを貸してくれる。彼女の板書のおかげでテスト赤点をギリギリのところで回避し続ける日々だった。

精神科医の先生の方でも進展があった。近頃はよく悲しい気持ちになるので先生に、悲しいんです、と伝えたらこれが効果てきめんでお薬を出してくれるようになった。

これで少しは良くなるといいけれど。相変わらず学校に行けない理由は分からなかったが、少しづつ不調を乗り越える術を身につけ始めていた。高校一年生が終わっていく。

高校二年生。

新型コロナウイルス。未曾有のパンデミックが地球を襲う年だった。

以前から少しづつパソコンを活用した授業を行っていた我が校は高校一年生以上の生徒が自分のパソコンを所持していた。

そこで、学校に通うことが出来なくなったこともあり、急遽オンライン授業に切り替わる事になった。

渡りに船である。と言うと思った人は不正解だ。

授業はオンデマンド形式で進められる事となり、meetを繋ぐのは朝礼のみ。

こんなことを言うのは良くないかもしれないが、私もはじめはラッキーだと思った。

しかし、オンデマンド授業がはじまってみて初めて判明したことがあった。

なんと、私はオンデマンド授業と超がつくほど相性が悪かった。

対面授業では先生の話に食らいついて必死に板書をとっていればあっという間に授業は終わったが、オンデマンド授業はなかなか時間が流れない様に感じられた。

毎日オンデマンド授業で活力を搾り取られていくうちに、巣ごもりで体力も落ちて気持ちも体もぐったりしていた。

しかし、数ヶ月後、ようやく学校に通えるようになったかと思うと、私の長期休み明けは学校に通いづらくなる、という特性の為になかなか学校に行けない。

そして10月、私は初めて、自らの口から「転校する」という言葉を発した。だが「転校する」と言い終わる前、「る」のあたりから涙が溢れ出してきた。こんなに泣くのは二、三年ぶりかななんて思いつつ号泣する。

悔しかった。必死になって勉強して、やっと入れた学校だ。必死になって通って、ギリギリのところで耐え続けてきた境遇だ。こんな所で転校しては、今までの努力が、今までの苦しみが報われない。

悔しい。やめるのは、悔しかった。自分の本音に気づいて、転校するのはやめた。まだ戦える。だから、もう少しここで頑張りたかった。

そこから、また色んな人に支えてもらって学校に通い始めた。辛かったり、苦しかったり、行きたくなかったり。もちろんそんなことを思いながら通っていたけれど、その度に悔しくて泣いた私を思い出した。

悔しいと言って泣いた私自身の思いに答えてあげたくて、必死になって学校に通った。

それと、答えかどうかは分からないけど、ようやく自分が納得できる学校に行きたくない理由を見つけることが出来た。

学校にいる私が嫌いなのだ。学校にいる私は人を傷つけてしまうから、学校にいる私はとっても嫌な奴だから、学校にいる私が嫌いで学校に行きたくない。

そうして、私の高校二年生が終わった。

高校三年生。

最後の一年。長かったような、短かったような六年間が終わる。

高校三年生の幕開けは決して順調とは言えなかった。恐らく、4月は一、二回しか通っていないし、5月に至っては一度も学校に行けていない。

一ヶ月、一度も学校に通うことが出来なかったのでいよいよ本腰を入れた先生がお母さんと私と面談をしたいと申し出てきた。担任の先生、学年主任の先生、お母さん、私の四者面談である。

面談で何を言われるのか、また転校を進められやしないか、内心ビクビクしていたものの表面上は平静を装って面談に望む。

先生がしたのは意外な話だった。

学校の教室に復帰する前に学校内の別室でオンラインで授業を受けないかという提案だ。これには少々事情があって精神的ダメージをおってしまった例の地味めな彼女が関係している。この提案は彼女が精神的ダメージを受けた責任の一端が学校側にもある様な状況だったため、彼女の為に提案された案なのだ。この提案を実行する、しないは大きな違いがあるが、やると決めた後に多少人数が変わるのは大きな支障は出ないらしい。

ただし条件がある。

地味めな彼女には母親が毎日付き添うらしく、私たちも毎日親子で通って欲しいとの事だ。

あくまで彼女の為に提案された案なので基準は彼女らしい。お母さんが大変になる提案だったが、私としてはありがたい提案だった。私がこの提案を受けたいと伝えるとお母さんもすぐに了承してくれた。

お母さんは勤めていたパートをやめて私に付き添ってくれることになった。感謝してもしきれない。

そうして、私たち親子の登校が始まった。

毎日、入れ代わり立ち代わりに先生達がプリントを届けてくれるようになり、本当に頭が上がらない。

私が行きたくない日もとりあえず席にいれば良いから、とお母さんが私を学校まで引っ張っていく。おかげで順調な滑り出しに成功していた。

更に、高校三年生は受験生であるため、十一月で全ての授業を終了として、各自の勉強に専念するスケジュールになっていた。

そう、この話には二つの意味がある。一つは十一月まで通いきれば、私は晴れて我が校の卒業生として名を刻むことが出来るということ。

もう一つは私の進路についてである。

今まで学校に通うことでいっぱいいっぱいだったが、私ももう進路を決めなければならない時期だった。

私とお母さんの間で何度も話し合いがなされた。

その結果、最終的に先生に伝えることになった将来の展望としては、まず卒業してからの一年は精神の治療に専念する、そして次の冬に再び受験勉強に取り組むというものだ。そのための覚悟もしてきていた。

しかし、再び行われた四者面談の場で志望校を聞かれて答えると、なんと三月に志望校の一般受験が行われる事が発覚した。

私が一番受けたかった形式の受験が出来るうえ、学校の授業を終えてからしばらく休める期間もあるということで受験をすることに決めた。

そうして迎えた受験当日、できる限りの事はやったから、緊張は無かった。これ以上できることは無いと言えるまで頑張った。

結果は翌日に発表。

結果、合格。

信じられなかった。喜びより先に驚きがきて、しばらくほうけてしまった。

卒業の日は、色んなことを思い出した。楽しいと同じくらい、もしくはそれ以上に苦しいが多い学校生活だった。

自分でもよくここまで辿り着いたと思う。でも、晴れ晴れした気持ちだった。

きっと転校してしまっていたら一生、通いきれなかったという事実に追い詰められていたと思う。

本当に嬉しかった。私に支えてくれた全ての人に感謝を捧げる。

そうして現在、大学生の私。

はじめの一ヶ月は調子よく通っていたもののガス欠になり、体力の無い私は再び不登校児に逆戻り。大学こそはと思ったのだけれど。でも、私はもう乗り越え方を知っている。誰かに頼ることも知っている。だから、大学も大丈夫だと信じよう。

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私の不登校日記 粋羽菜子 @suwanako

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