9.新しい二文字、その意味は?
「……ちょっと、消しゴム貸してくんない?」
「今、手が離せないから勝手に持っていっていいよ。机に置いてあるから」
私、一ノ瀬あかり……改め永濱あかりは、ドアの外から呼びかける涼太君に対して返事をし、それを受けて、彼は部屋に入ってくる。
親同士が再婚し、涼太君と共に暮らすようになってから一か月ほどが経った。こんな風に「他に誰もいないところで二人きり」という状況自体は初めてではないけれど、やはり、相変わらずドキドキとするものがある。
机の上でペンを走らせている私に向かって、足音が少しずつ近付いてくる。涼太君の方は依然として落ち着いた様子だけれど、心の中ではどう思っているんだろう。それを確かめる手段を、今の私は持ち合わせていない。
「何、やってるんだ?」
消しゴムを取ろうと私の横に立った涼太君が問いかけてくる。その視線の先にあるのは一枚の紙で、「永濱」という名字がいくつも記されている。
「名字を書く練習だよ。『永濱』になったんだから、ちゃんと書けるようにならないと。この『濱』って漢字は、あまり書き慣れていないから」
「……別に、普段は簡単な方でいいと思うけどな」
涼太君は大して興味が無さそうな素振りで消しゴムを手にし、そのまま部屋を後にしてしまった。
彼はああ言うけれど、ここ最近の私の中で、この「永濱」という名字は重要な意味を持つようになったといっても過言じゃない。
私は先月の出来事を思い出す。週刊誌の仮説を信じるならば、涼太君が「永濱」じゃなかったら「名字を巡る騒動」は起こらなかったということになる。彼の手がこの髪に触れることも、二人で次第に数字の謎に迫っていくことも、あんな風に「共同作業」をすることもなかったんだ。その時に感じた胸の高鳴りは、今でも鮮明に思い出せる。
死者や怪我人は出なかったとはいえ(桂木先生はしっかりと受け身を取れたのか、負傷せずに済んだ)、多くの生徒達に恐怖を与え、「体育館の扉が壊された」という物的被害が出た「事件」であることには違いない。不謹慎だということは重々承知している。
そうであっても、この思いは確かなんだ。少なくとも、自分だけは自分を否定せずにいたい。
義理のきょうだいになってから一か月と少し。涼太君との仲はあまり進展していない。さっきのように時折それなりの会話を交わすくらいだ。「一緒に料理をする」みたいな機会はまだ訪れていない。
でも、今のところはこれでいいんだと思う。
涼太君といた時に抱いた感情の高まりを記憶しておいて、それを何度も頭から引っ張り出して
そう思いながら、私は紙の上に再び「永濱」と書いた。もう少し「さんずい」を強調させたほうがいいかな。
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