笹垂行

倉埜羊

一、笹垂行(ささだれゆき)

 架空の列車に乗っている。

 厳密には、列車自体は本物だ。実際にはというところが「架空」なのである。しかし、向かう先がないわけではない。

〈各停・笹垂行ささだれゆき

 停まる駅には停まるし、人を運んでいる。そうなると結局何をもって架空だというのか、考えれば考えるほど見えなくなってしまうから、わたしはあまり深く追及しないことにしている。とはいえ、乗客はそのほとんどが鉄道会社に雇われた偽客さくらである。だから、やはり架空だ。

 わたしはエキストラだ。周りの人間も、ほとんどがそう。ちなみにエキストラという名称は、わたし自身がそう呼んでいるだけのことだ。(それを指摘されてはならない身分であることは大前提として)呼ばれる分には偽客さくらでも構わない。

 エキストラは、列車内でよく見られる光景を再現していなければならない。

 〈笹垂行ささだれゆき〉がわたしの初仕事だった。わたしは、わたしがエキストラだという確信だけを持って飛び乗ったものの、何をすればいいのか実際のところをあまり理解していなかった。何も聞かされていないのだから当然だ。身構えようもなかろう。どうであれ初めというものは誰もがよくは知らないところから始まるのだし、すでに知っていることには価値がない。みようみまねでそれらしい行動を覚える他ないはずだ。

 扉付近に陣取じんどって、とりあえず車内を見渡してみた。走行中だというのに、向かいの扉が半分開いている。ちょっとしたはずみに誰か振り落とされたりしないだろうか。

 外が曇り始めたら、車内の光景からもみるみる色味が失せた。空気も淀んできた。目の前にいる人々などは背後の雲間から漏れ出す太陽光に照らされ、その表情を黒い影に押しならされてしまっている。ものの輪郭という輪郭が変にギラギラとしてまぶしい。さっきから誰も喋らない。

 ふしゅ、と新鮮なようで間抜けな音がした。人生初の赤点を披露した後の食卓に置かれる醤油差し的な間合いだった。近くの座席でサラリーマンがビール缶のプルタブを引いたのだった。ビール缶はレジ袋に包まれたままだった。

「酒を飲んでる人がいる」

 いっそ声に出してみた。

 誰も反応しない。皆が皆、自分の仕事をまっとうしている。それでも、初仕事が失敗に終わったと気づくのに時間はかからなかった。わたしは不自然だ。目の前にあることを口先で再現したところで、何にもならないばかりか、望ましくない形で人の心に残ってしまう。

「なんだか怖いね」

 途中から乗りこんできた女の子が、隣に立つ母親の服のすそを引き引きしきりに訴えている。かわいそうに、怖がらせて申し訳ない、新入りなんだから様子見だけしていればよかった。そんなことを思ったらもうこの仕事が嫌になった。さっさと転職しよう。転職しようと決めたらわたしの使命はなくなってしまった。さっきの母親が子の手を引いて近寄ってきて、どうされたのです、と話しかけてきた。わたしは状況を素直に話した。母親はわたしたちについて来なさいと言ってくれた。

 母子と幾人いくにんかの偽客さくら集団に引っ付いて、終点手前の何とかいう駅で降りた。先ほどまでとは一転、頭上には目もくらような快晴が広がっている。白光りする軽石が敷き詰められた、崖の縁沿いの小道を歩いた。白ツツジの植え込み越しに数列の墓が見えたり隠れたりしていた。直下が墓場だったのだ。墓場の遥か向こうには海があった。海に背を向けると、だだっ広い駐車場だった。

 くだんの母親が「笹垂に廃屋でも買えばよかった」と言った。「廃屋」と言った部分だけが明らかに外国語だった。発音もよく聞き取れなかったが、その音が何を意味するかということは、海外映画の字幕を読むくらい気軽に読み取れた。きっとわたしには馴染なじみのない言葉だったのだろうと思うことにした。

 母子は、母親の故郷へ向かっているところだそうだ。なんでも子供の祖母に当たる人が笹垂に住んでいるらしい。実はわたしは笹垂という地のこともよく知らない。明るくないなりに、どうも北国らしいとのイメージがぼんやりあるだけだ。

 自分が架空の列車のエキストラだと確信する瞬間まで、どうやって生きてきたのか思い出せない。多分、周りにいる人たちと同じような人生を送ってきたのだろう。あまりつまらないものだから、どこかに置き忘れてきてしまったのだ。

 天女の形をした巨大な雲が目の前を通過していく。輝く天女の身にまとわりついた風は、アイロンをしたように静かだった海を逆立て、津波を起こした。海は遠いものだと思っていたのに、白く泡立った波は墓場にまで首を伸ばし、すさまじい勢いで墓石をみ込んでいった。

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