選ばなかったほうの扉って何色
就活の話が続いていたから就活日記に名前を変えてしまえとでも言われそうだけど、今回はやっとその就活を終えた後の話だ。
何なら卒論も出し終わり卒業式も卒業旅行も済んだ後で、春休みの終わり際のギリッギリに運転免許を取った辺りだったと思う。入社には普通免許が必須アイテムだったから、毎日採用担当から心配の連絡が来ていた。本当に申し訳ない。
入社3日前ともなると「ああもうすぐ金太郎飴みたいなそこらに溢れる社会人になるのか」なんて金太郎飴にも社会人にも失礼なことを考えていたのだけど、まあ有り体に言えばあれだ。
世間を知らない私にとっては将来がどこまでも未知数すぎて、その先の道筋は真っ暗ではないにせよ霞がかかって見えない感じがしていたのだ。
まったく、せっかく大分で魔王と出会い感化され、納得のいく会社に入社を決めたというのに人間のメンタルというものはそう簡単に変わらないものである。
そんな先行き不安ガールだったので、普通の社会人になる前に、何か思い残したことがなかったか慌てて探していたのだと思う。
ちなみにいざ社会に出てみたら上司には初対面で「好きな平成ライダーって誰?」と聞かれて盛大な肩透かしを食らうし、「大雪でどうせ誰も来ねえから雪合戦しようぜ!」と先輩に誘われるがままに会社で雪玉を握ることになるしで、それなりに楽しい社会人生活が待っているのだが、その頃の私は何にも知らない。当たり前だが。
Twitterでほんの少しだけ話題になっていた謎の個人博物館に行こうと思い立ったのは、そんな時だった。何かヤバい博物館があるらしいと食い気味な文章とURLだけがタイムラインに上がってきて、私は一も二もなくその住所への道筋を検索した。
そして社会人生活への不安を胸に電車とバスと徒歩を駆使し、そんな意味不明な場所に迷わず足を踏み入れた。
ロケットニュースの特派員でももうちょっと躊躇ったと思う。でもその時はそれを良しとするメンタルだった。
山奥にひっそりと建つそれは、一見すると廃工場だった。年季の入った灰色の波板に蔦が這い、コンクリートの階段が入口に向かって寄り添っている。
小さな看板を見落としていたら多分通り過ぎていたと思う。それくらい森の廃屋たる風景に同化していた。
深呼吸していざ扉を開き目の前に広がっていた光景に、私は言葉を失った。そこは噂通り、何とも雑多で不思議な空間だった。
数々のオブジェや本棚に囲まれた中心に、それはあった。
想像してみて欲しい。仄暗い工場を改装したような空間に佇む巨大なクマムシの姿を。
部屋の隅にはカフェカウンターがあり、先客の男性2人がクマムシに見下ろされながらコーヒーを嗜んでいた。どんなメンタルだ。
「いらっしゃいませ~」
巨大オブジェに面食らい『逃げる』コマンドが消失して動けなくなった私に、のんびりとした声がかけられた。
目を遣るとカウンターには茶色のメイド服に身を包む若い女性が立っていた。所々袖や裾がほつれていて、森から出て来た感を醸し出している。サバゲーを生き残ってきた歴戦のメイドのようにも見えるが。
「あ、気になりますよね。こちら当館自慢の巨大クマムシちゃんです~。実寸の1万倍あるんですよ」
大きさに、ではなく何故ここに1万倍サイズのクマムシが顕現しなければならないのか、という方が気になって仕方がなかったが、その時私の脳味噌は『富岳』顔負けの超高速演算機能を発揮し、アートにごちゃごちゃ理由を求めるのは無粋だと思い至った。
そうだ。私が足を踏み入れているのは非日常感を詰め込んだ博覧会なのだ。
一瞬で状況に順応してみせた私は、案内されるがままに席に着いた。これでも就活で数々の死線をくぐってきたのだ。そこらの小娘だと舐めないでいただきたい。
メイドにホットコーヒーを注文し終え、落ち着いて周囲に目を凝らしていると、隣の席から声がかかった。
「スラマッパギー」
……ほう?
振り向くと30代くらいの小柄な眼鏡の男性(Aとしよう)がこちらに手を上げて挨拶していた。
ここではインドネシア語が公用語なのかもしれない。が、どう見ても彼は120%日本人男性。余った20%はその身から滲み出るOTAKUオーラだ。コミケとかでよく見かけるアレ。
ここは同じように返すのが作法だろうかと逡巡していると、彼の連れらしいもうひとりの背の高い眼鏡の男性(Bとしておこう)が間に入る。
「あっ、すみません。この人、初対面の方を見かけるとつい『日常』ネタが止まらなくて……」
「スラマッパギー」
「こら、女の子が怯えてるでしょうが!」
身を乗り出し壊れたラジオのように挨拶を繰り出す男性Aを窘める男性B。彼はきっと同じ台詞を繰り返す事を宿命づけられた村人なのかもしれない。と思う事にする。
そうこうしているとメイドがコーヒーカップを運んできた……のだが、カップは通常の造形を成していなかった。
恐らく手作りである白いカップの側面と底からは、何やら髭のような根が生えていた。
数本の根が絶妙なバランスで中身の黒い液体を支えている。
「こちら、絶望という名の苦いコーヒーでございます〜」
なるほど。この空間ではコーヒーですら常識を纏ってはいないようだった。
この調子だと飲み終わったらカップの底にトカゲの干物でも沈んでいるのかもしれない、と私は身構えたが、
「あ、大丈夫ですよ!館長自ら豆から引いた自慢のブラックコーヒーですので、味は確かです!」
心を読んだのか、メイドが手を振って弁明する。その手にはカップと同じくうねうねと根が生えたポットを手にしていた。味は普通なのか。
安堵と共にコーヒーを啜る。
あ、美味しい。名の通り確かにしっかりとした苦味があるが、華やかな香りが鼻を抜ける。
顔を上げるとカウンター奥の館長と思しき眼鏡の男性と目が合った。白髪混じりのボサボサ頭の彼は「私が淹れました」と言わんばかりに微笑んでいる。
2口、3口と啜りつつ、展示物に視線を移す。クマムシ以外にも様々なオブジェが並んでいる。
動物モチーフのものが多いが、生き物と呼んでいいのか分からないものもあった。芸術だ。
その中で一際異彩を放つものがあった。
もちろんクマムシの方が見た目のインパクトでは計り知れないものがあったが、その空間では珍しい人工物らしい人工物だったからだった。
それはコックピットだった。
気になって席を立ち、傍まで行ってみる。座席の目の前には操縦桿を模したコントローラーと、その先にテレビモニターが用意されている。
画面からはひたすら「せっかくだから、俺はこの赤の扉を選ぶぜ!」という男の台詞が連呼されていた。何が何だか分からない。
これも展示のひとつだろうかと見つめていると、いつの間にか隣に男性Bが立っていた。
「あーこれ、ご存知ですか?セガサターンが誇る伝説のクソゲー、デスクリムゾン」
全然知らなかった。私は首を横に振る。
無理もない。セガサターンが出た頃、私に自我は無い。
「これ本当にクソゲーで……このひたすら唱えてる「俺はこの赤の扉を選ぶぜ!」も選ぶ扉も無いし何なら赤くもないっていう意味不明な代物で……シューティングゲームなんですけど意味分かんないくらい照準合わないんですよ。で、万が一クリア出来たら館長がドリンク1杯タダにしてくれるんです」
男性Bはすらすらと説明してくれた。
よりによってそんなクソゲーにこんな立派なコックピットを与えるんじゃない。
プレイを丁重にお断りし、席に戻る。
何となく手持ち無沙汰になって脇の本棚に目を遣ると、古い漫画が詰め込まれていた。そのどれもが劇画調のホラー漫画の単行本だった。
なんかもうすっかり常識人でいる事を諦めた私は、苦いコーヒーを啜りつつその内の1冊に手を伸ばした。楳図かずお全集だった。
ひたすらグロい画を眺め、クマムシに見守られながら根っこの生えたコーヒーカップを傾ける。
奇妙な空間であるはずのそこに流れる静かな時に、私は何故か穏やかな気持ちがしていた。
何故だろう。母親の胎内のような安住の地のような、全てを受け入れてくれるような感覚がしていた。
気づけば2時間ほどもそうしていた。
閉店時間が近くなっていたので、会計を済ませて出ることにした。去り際、店内を振り向くと男性AとBはクマムシの下で会釈してくれ、館長とメイドは手を振ってくれていた。
博物館を出てから帰宅への道すがら、何だか足元がふわふわしていた。うっかりクマムシを連れて帰ってきてやしないかと振り向いたが、そこにはひっそりと森に埋もれる廃屋の背中しか見えなかった。
前を向いて、そっとあの空間を思い返す。
あそこには人間も展示物もメニューも、およそ普通と呼べるものは何もなかった。でもそれでいいと思った。
日常とは隔絶された時が流れる場所がここにあると、その存在を心の隅に留めておくだけで、数日後には普通の人間になる私を許せるような気がしたからだった。
来た道を戻ると、川面に向かって桜が花弁を散らしていた。
きっと春が来るたびに、私はあの苦いコーヒーの香りを思い出すのだろう。
今もあのクマムシに抱かれて、不思議な彼らが待っている気がしてならない。
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