第10話信長、大坂を楽しむ
「暑っちいなあ……なんだって
大坂町奉行所にいた芹沢たちと合流した信長と斉藤。すると暑さに耐えかねた芹沢が「時間もあるし船遊びでもしようや」と言い出した。
「船を貸し切って飲み食いしようぜ。挨拶も終わったことだしよ」
「局長の命ならば。永倉くん、島田くん。近くで貸してくれるところがあったはずだ。先に行って手配してくれ」
山南もこのくらいの我が儘は良いだろうと請け負った。彼もまた暑さに弱かったこともある。
隣にずっといる斉藤が顔をしかめたのを、信長は見逃さなかった。だけど彼は何も指摘しない。
しばらくして船が手配された。
大坂の町の中の水堀を回るだけのものだが、船に流れ込んでくる風と水が近いことから陸よりは涼しい。
芹沢は上機嫌になり詩吟などを披露した。
山南たちも船での酒やお茶、肴などを楽しんだ。信長も沖田と語りつつ茶を啜る。
しかしその最中、斉藤の具合が悪くなった。
青い顔をして何かを堪えている。
「どうした斉藤。気分でも悪いのか」
信長がここでようやく話しかけた。
「……昔から酔いやすいんだ」
「船にか? ならば乗らなければよかろう」
まさか土方の命令で信長を監視しているとは言えず「もう平気かと……」と誤魔化した。
「仕方あるまい。斉藤、下りろ。儂が面倒看てやる。沖田、おぬしも手伝え」
「いいですけど。案外面倒見がいいんですね」
信長の行動に他の連中も驚いていた。短い付き合いだが、人を介抱する男とは思えない。
そんなやりとりの中、芹沢が「お前ら下りるなら船遊びはやめだ」と笑って言った。
「局長、いいんですか?」
「平山。十分涼しんだしな。それに斉藤の体調が悪くなったのは俺のせいでもある」
普段の言動からは信じられない
信長は「であるか。意外と隊士思いだ」と感心した。
はっきり言えば、変わり映えのしない風景に早々飽きてしまったのが理由である。芹沢の気まぐれに過ぎなかった。
斉藤の具合が悪化する前に、途中下船となった一行。
彼を
しかしそのとき、前方から巨体の男――力士がやってきた。
細い小道だからか、力士と九人の男たちではどうしても身体がぶつかってしまう。
「おいそこのでかいの。端に寄って道譲れ」
芹沢が横柄に命令した。
もしここで丁重な言葉を使えば力士も大人しく従っただろう。
だが言葉や身なりから田舎侍と判断した力士は、なんでそんな輩に命じられねばならないのかと憤った。
「いやだね。そんなに通りたければ、お前らが端に寄れ」
「……なんだと?」
これには芹沢もかちんときた。
ただでさえ鬱陶しい暑さの中、力士みたいに暑苦しい野郎に生意気な口を利かれなければならないのか。
芹沢は無言で力士の顎を下から打つように殴った。
「あがががが……」
声を上げるどころか、しばらく喋られないぐらいの衝撃を受けた力士は前のめりで倒れる。
芹沢は機嫌悪そうに「行くぞお前ら」と促した。
「ほう。やるではないか」
またも感心する信長。
他の者も慣れた反応で力士を置いてその場を去ってしまった。
その後、茶屋の二階に陣取った信長たちは再び酒や茶を飲み始めた。
船酔いした斉藤は横になっているが、徐々に顔色が良くなる。
信長は「汁粉をくれ」と女将に注文した。
「あんたも甘いもんが好きなのか。嬉しいねえ」
そう語るのは先ほどの力士よりも背が高い大巨漢、島田魁だった。
背丈のわりにつぶらな瞳をしていて、なんとも愛嬌のある顔の持ち主である。
「おぬしもそうなのか。なら食べ比べをしようぞ」
「おっしゃ乗った! 女将さん、鍋ごと持ってきてくれ!」
その様子を見て沖田は「ほどほどにしてくださいよ」と困った顔で言う。
二人なら汁粉が店から無くなるまで食べてしまいそうだったからだ。
そうしたやりとりを一時間ほどした後、にわかに茶屋の外が騒がしくなる。
「うるせえなあ。おい野口。外で何が起きてんだ?」
芹沢が水戸派の野口に命じて二階の窓を開けさせると「壬生浪士組! 出てこい!」と怒鳴り声がする。
隊士たちが外を見ると何十人と力士たちが山のように茶屋を囲んでいた。
その中には芹沢が殴り倒した力士もいる。
「さっきのお礼に来てやったぜ!」
「来いよ! 全員ぶっ飛ばしてやる!」
手に角材を持った大勢の力士。
これは不味いと思った野口が「どうしますか、局長?」とお伺いを立てる。
「ほっとけ。相手にするな。面倒くせえ」
芹沢は無視して酒を飲む。剛胆なことだったが――
「出てこねえのか、臆病者! そんなんで尊皇攘夷ができるのかよ!」
水戸潘出身の芹沢の逆鱗に触る一言だった。
芹沢は盃を放り出して刀を持ち、野口を押し退けて二階から――飛び降りた。
「誰が言ったんだ……ぶっ殺してやる!」
刀を抜いて力士たちに斬りかかろうと迫る。
それを見た水戸派の平山と野口が「筆頭局長が危ねえ!」と同じく二階から飛び降りて加勢する。
「山南さん。加勢するか?」
訊いた永倉は既に刀を持っている。
島田も肩を動かして準備万端だ。
それは芹沢を助けようとしているわけではなく、力士の台詞に彼らも苛立ったからだ。
「仕方ないな。くれぐれも――怪我をしないように」
山南はすうっと立ち上がって、芹沢と同じく二階から飛び降りる。
永倉と島田もそれに続いた。
「ふむ。山南も参戦するとはな」
「ああ見えて試衛館の仲間で一番の剣術好きですから。そうじゃなければ
沖田も刀を持って「行ってきます」とうきうきしながら言う。
「斉藤さんの面倒を看てあげてください」
「であるか。ま、任せておけ」
信長が了承するや否や、彼もまた二階から飛び降りた。
外が騒がしくなる。信長は斉藤に呼びかけた。
「おい、斉藤。もう具合は良いのだろう?」
「……ああ。あんたのおかげでな」
「だったら土方に命じられたことをやるんだな」
心臓を鷲掴みされた感覚を斉藤は覚えた。
ハッとして布団から起き上がる。
信長はにやにや笑いながら「なんだその反応は」と面白がる。
「儂を殺すように言われているのであろう?」
「……誤魔化しは利かないか」
「ああ。殺気をもう少し隠す努力をしろ」
斉藤は「以後気を付ける」とだけ答えた。
信長は窓の外を見た。壬生浪士組たちのほうが優勢だった。
数が少ないのに大したものだと信長は笑った。
「俺を殺さないのか?」
「うつけか? おぬしの腕前なら返り討ちに遭ってしまうわ。それに意味がない」
「い、意味がない? 殺そうとした男を、見逃すのか?」
「殺そうとしただけで殺す? ふひひひ、そんなことしてみろ、儂の寝る暇が無くなるぞ?」
信長は「おお。芹沢もなかなかやるのう」と楽しんでいる。
斉藤は今なら斬れると思った。
しかし、斬ってはならぬとも感じた。
斉藤は人を斬ったことがある。
一心不乱なときもあれば、極めて冷静だったときもある。
しかし――どちらの精神状態でも、信長を斬れるとは思えなかった。
無口で文字を書く才のない斉藤が、この奇妙な感覚を評するのなら。
信長を斬ることは――天が許さない。
神仏をあまり信じていない斉藤が、そう考えるほど――許されざることだった。
「沖田の奴。結局斬らんのか。つまらんのう」
今、楽しく乱闘を見て楽しむ初老の男。
斉藤は彼が何者か判然としない。
ただ、恐ろしさだけを感じる――
「あんたは、誰なんだ?」
斉藤が絞りだした問い。
信長は振り返って、得意そうに言う。
「織田信長だ。それ以上でもそれ以下でもなく、それ以外でもない」
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