宙夜逆転

野原想

宙夜逆転

『櫓の上にはね、神様がいるのよ?』

あの日、キラキラ光る淡い夜は消えた。


小さな金魚鉢の中で金魚が跳ねた。こいつは長生きだ。他の金魚が死んでいく中でも、こいつだけはずっと元気に泳ぎ回ってた。少し気味が悪いけど、まぁたかが金魚だし。なんてことを思いながら今日も家を出る。重苦しい自転車を漕ぎながらあちこちの家の風鈴の音を通り過ぎていく。二十分ほど漕いだところでギラギラと陽に照らされた校舎が見えてくる。自転車から降りて駐輪場の方へと歩いていると後ろからポンと肩を叩かれた。

「よっ、ちゃんと来たんだ」

「当たり前。お前こそ、サボると思ってた」

鈴木とは小学校から一緒のいわゆる腐れ縁というやつ。そして今は数少ない補講仲間でもある。こいつと話す内容はいつもどうでもいいことで、数分後には互いに覚えていないようなことばかり。二人で教室までの廊下を歩く。一瞬無音の間があったがそんなことは気にしない。教室の扉を開けると風澄(カゼスミ)が一人で端の席に座っていた。病気があるとかなんとかであんまり学校にも来てないからそのせいでの補講なんだろうとすぐに分かった。鈴木に手招かれるまま彼女から遠い席に腰を下ろした。数度しか顔を見たことがない彼女の名前がすぐに思い出せたのは、長い黒髪と柔らかい一重の目を強烈に覚えていたからだろう。四月の自己紹介の時に一度だけ聞いたあの声も、ガラッ「よーし、んじゃ補講始めるぞー、三人皆揃ってるなー」俺の意識はドアの音と共に入ってきた女教師の声に持っていかれた。


「よーし、んじゃ今日ここまでなー次もちゃんと来いよー」

声と共にチャイムが鳴る。心なしかいつもより乾いたように聞こえるそれも、夏休み前の授業後の騒がしさがないこの空間も案外嫌いではない。

「な、今日の祭り行く?」

「んーどうしよ」

「この辺田舎なのに祭りはちゃんとしてるよな」

「だな、まぁ気が向いたら行く」


学校のすぐ横に家がある鈴木と別れて自転車を押しながら門を出る。額の汗を拭ってコンクリートから照り返ってくる暑さにうんざりする。早く帰ってゲームでもしようと自転車に跨った時、後ろからくいっと制服を引っ張られた。驚いて自転車から降りて振り向くと風澄が一本のペンを持って立っていた。明らかに自分のものであるそれを数秒眺めてからやっと声を出した。

「あ、忘れ物、持ってきてくれたんだ。ありがと」

彼女からペンを受け取り、スカスカのリュックに突っ込みながら言う。

「風澄さん家どの辺?」

彼女は少し考え込むようにしてから顔を上げて言った。

「虎川精肉店のすぐそば」

「まじ?めっちゃ近いじゃん、やじゃなければ自転車の後ろ乗ってく?」

彼女はまた少し考えるように俯いたが「うん」と小さな声で言った。

自分のリュックを置いてその上に風澄を座らせた。

「大丈夫?痛くない?」

こくりと頷く彼女を見て自転車を漕ぎ出した。行きと同じ様に耳に入ってくる風鈴の音を聞きながらさっき聴いた風澄の声を思い出す。あの少しざらっとした猫の舌みたいな声が、ずっと耳にこびり付いていた。四月に彼女の声を初めて聴いた時も今も、風澄の声が……。

ぼんやりと考えていたら『虎川精肉店』の看板が見えてきた。店のすぐそばで自転車を止めて風澄を降ろした。自転車から降りた風澄は思い出したように制服のポケットから何かを取り出して渡してきた。

「祭りの食べ物券…?」

それはくしゃくしゃになった今夜の祭りで使える食券だった。お礼ということなんだろう。

「いいの?」

その問いに頷く彼女は少し可愛らしく見えた。

「あ、じゃあさ一緒に行こうよ、お祭り」

風澄は驚いたような表情を浮かべてまた小さく頷いた。

「良かった、じゃあ六時半にここ集合で」

そう言って再び自転車にまたがり彼女に少しだけ手を振ってペダルを踏み込んだ。

浮ついた気持ちというのはこういうだろう。あんなに重く感じていたペダルがこんなに軽いなんて。


何千回と見た古い平屋の一軒だって綺麗に見える。玄関先に自転車を止めて適当に寄り掛からせ、戸に手を掛ける。ガラッと音を立てて家に入り靴を脱ぎ捨てる。持っていくときよりぺたんこになったリュックを放って時計をみる。

「三時、」

集合時間まで三時間半。これは昼寝するしかない。近くにあった座布団を引っ張ってきて二つに折り畳む。頭を乗せてもう一度時計に目をやったときにはもうすでにだいぶ眠くなっていた。その眠気に引きずられるように意識が遠のいた。


ここは夢の中。ああ、ここは夢の中だ。だって死んだ母さんが目の前にいる。柔らかい笑顔で笑ってる。毎年祭りに来ると母さんは言う。

『櫓の上にはね?神様がいるのよ?楽しそうに笑う人を見てるの。そしてお祭りが終わったらお空に行って天国にいる人にお祭りの話をするのよ。きっとお父さんにも会ってるわ。』

そうして一緒に金魚すくいをする。金魚はすごく綺麗で母さんがいなくなってからもずっと生きて…ずっと…… パリンッ!急に目の前に現れた金魚鉢が落っこちて割れた。下に放り出された金魚を掬おうと手を伸ばす。


パチリと目が覚めた。映画やアニメのように呼吸が荒れているわけではないが酷く嫌な汗をかいていた。金魚、金魚は。慌てて金魚を見にいくと、金魚鉢が床に落ちて割れていた。

最後の一匹だった金魚は死んでいた。涙は出ない。でも目の奥が、眼球の中が痛くて仕方がなかった。痛い、痛い、怖い、早くに父さんが死んで、次に母さんが死んだ。その後に可愛がって育ててくれたばあちゃんも死んだ。一人になったのは、金魚じゃなかった。

息が苦しくなって頭が回らなかった。恐怖に支配された脳は使い物にならない。

「だ、れか、助け、」

ガラガラッ、目の前で玄関の戸が開いた。歪む視界の中に映ったのは淡い色のワンピース。

「っ!大丈夫?」

「風澄さ、なっで、家、」

「鈴木くんに会って、大丈夫、どうしたの」

辛うじて聞き取れるレベルの言葉に絞り出す声で答えてくれる彼女。手の中の金魚に気付いて近くにあったバケツに水を張って持ってきてくれた。

「もう大丈夫」

もうその金魚が生きていないことは彼女もわかっただろう。金魚をバケツに入れた後で今まで金魚がいたその手を握った。

「大丈夫」

そう繰り返す彼女の手はゆっくり熱を失っていった。握られていた手が温まる頃には彼女の手はすっかり冷え切っていた。


「あの、手、ごめん。バケツも」

彼女は首を横に振る。さっきはとても頑張って声を出してくれたんだろう。

「まだ間に合うよね、祭り。行こう、」

変な使命感のようなものに駆られて彼女の手を引いて家を出る。玄関のすぐそば、雑に立て掛けある自転車を起こし、道路の方へ押していく。そこに、聞き慣れた声が聞こえてきた。パッと顔を上げると、数十メートル程向こうで鈴木が手を振っていた。

「あ、ちょっと待ってて、」

彼女にそう声をかけて自転車に跨り、ぐいとペダルを踏み込んだ。その時横目で見た風澄さんの何となく不安そうな顔が忘れられなくなる予感だけ持ってそれから逃げるように鈴木の方に意識を向けた。あいつと合流したらなんか、この変な気持ちもなくなる気がした。漠然とした不安が消えてふわっと明るい気持ちになれると、思いたかった。縋るように風を切ったその瞬間、横の道から出てきた軽トラとぶつかる。


俺の体は、宙を舞った。

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宙夜逆転 野原想 @soragatogitai

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