イデア

神宮要

イデア

 殺される。今宵、私は殺される。

 ガタガタと私の全身が震えているのが、嫌でもわかる。それをぎゅっと押し止めるように自らの身体を両腕で抱きしめても、ちっとも震えが止まる気配はない。

 悪戯だと、笑えれば良かった。

 けれど、そうやって一蹴するには『被害』がありすぎたし何より――こんな事を、悪戯という幼稚なレベルでやるものだろうか?

 私の目線のその先、震えの元凶。それは血のように鮮やかな赤で描かれた、一文だけの簡潔な脅迫状。

 ――今夜、あなたを、殺します。


*****


 私は、ネット上に小説を書いている。誰でもない人に向けて、少しでも何か残れば良いと思って、自分なりに勉強をしながら、ただ文章をひたすらに。ちょうど、現代という環境は昔みたいに原稿用紙に下手な文字を書きつける必要なんてなくて、キーボードをかたかたと打てば、きれいな文字で小説が出来上がる。必要なのは自分の身体と、脳内の文章。それからパソコンと、作品を作る環境。欲を言えば座りやすい椅子なんて欲しいけれど、生憎と今は、もともとのピンク色が落ちてきた使い古された座椅子だ。

 この部屋が、私にとっての楽園だ。何も考えずに、好きなことをし続けられる。

ううんと背伸びをして、今まで書いた小説を見返して、ワンクリックで投稿をする。ぽつぽつと閲覧数が増えていき、そして時たま、いいねとハートマークが増えていく。最初は散々な結果だったけれど、書き続けていくうちに、少しずつ反響が増えていき、今ではそれなりの数の人たちに見てもらえるようになった。

 冷蔵庫に向かい、がぱとその口を開かせる。ぶうんという少しの不満そうな音を出しながらも、今まで冷やしてくれていたペットボトルの所在を示してくれる。一人暮らしの女性として、余り褒められたものではない中身だな、と私はぼんやり思いながら、ペットボトルを取り出し、キャップをひねる。冷たいコーラが私の喉をシュワシュワ刺激しながら潤していく。ここ最近はずっと、通販で食料品やペットボトル飲料を買っている。家から出なくても買い物が出来てしまう文明の発展に感謝しながら、のんびりと、他人から見ればきっと怠惰に、私は日々を過ごしている。

 ふと、テーブルに置いたままだったスマホがぶるると震えた。メッセージの着信であることは確実だ。それもほぼ、うんざりする内容だろうという事すらわかってしまう。げんなりしながら持っていたペットボトルを冷蔵庫へ戻し、スマホへと近づく。メッセージの内容が、スマホの液晶に記されている。

『いい加減、ちゃんと働きなさいよ 母より』

 ああやっぱり。既読にする気も起きなくて、スマホの電源ボタンをひとつ押し、忌々しい液晶の光を消してしまう。いつもそうだ。母は今の私がしている事を、余り理解してくれはしないし、文末にいつも「母より」とつけるのを、いつまで経ってもやめない。母のアカウントから送られて来ているのだから、誰から来たメッセージなのか、普通に考えれば一瞬で解るだろうに。


 私は、昔はきちんと働いていた。きちんと、というのがどういったものかという定義はともかく、母からの勧められた勤め先で働き、そして、精神を壊した。仕事が合わなかった、といえばそれまでだが、私はとにかく苦しくて、辛くて、這うようにして母に助けを求めたのだ。

「そんなの、あなたの頑張りが足りないからじゃないの」

 その言葉に愕然として、絶望して、気がついたら一人暮らしをしていた。その時の事を、実は余り覚えていない。それだけ、きつかったのだろうと思う。結局、実家から逃げるように今のワンルームマンションに引きこもり、そして小説を書くという事を覚えたのだ。

 しかし、母の言うことにも一理ある。仕事をしていた当時は実家暮らしで、何一つ不自由が無かったし、特に欲しい物も無かったものだから、給料はすべて貯金していた。だから今の暮らしがある。だけれども、貯金も使えば底が見えてくる。何か家で出来る仕事を、と探しても、外に出られない惨めな自分が嫌になり、すぐに閉じてしまう。いつか直面してしまう現実に、私は、一歩進めずにいる。


 ふと、ぴんぽんと若干覇気のない玄関のチャイムが鳴った。どろどろとした思考が、ふわと霧散する。いけない、また考えすぎてしまっていた。私はゆるく首を振る。どうも私は一旦思考に集中すると、時間も忘れてしまうようで、良い事なのか、悪い事なのか判断出来ずにいる。のろのろと若干錆びついた扉へ向かう。のぞき穴から外を窺うのも慣れてしまった。まあ、それも、二つほどの理由があるのだけれど。

「オイ、いるんだろ」

「……いません」

「いるじゃねーか」

 はあ、と私は特大のため息を吐き出した。『二つほどの理由』、その一がやってきた。元カレ。そう言ってしまえば簡単なのだけれど、これが意外に粘着質というか、何というか。とにかく未だに私の事を諦めきれていないらしい。私も悪いとは思っている。ほんの少しは。でも、これもまた相性の問題で、私は彼の大雑把な性質にうんざりしてしまったのだ。

「なあ、扉開けろよ。話し合おうぜ」

「話し合う事なんてない。いいから、早く帰って」

「話し合う事なんて沢山あるだろ。いきなり別れろなんて言われて納得出来るやつなんているのかよ」

「あなたはいいから今までの行動を省みて欲しいわね。何でもかんでも私ばっかり……」

 いつも、こうだ。いつも、扉越しに言い合いをして、いつも、なあなあで終わって。私たちは、いつまでこんな事を続けるのだろう。何度も涙した。なぜこんなことばかり言われ続けなければならないのだろう。なぜ。

「あのう」

 元カレではない、第三者の男の声がした。のんびりとした、どこか呆けているような声だった。ああ。私は頭を抱えた。『二つほどの理由』、その二だ。

「大丈夫ですかあ」

「ああ? なんだお前」

「落ち着いて。その人は配達の人。荷物、ですよね。そこに置いておいてください」

 扉を隔てた先で起こりそうになる修羅場が簡単に想像出来てしまって、咄嗟に事情を説明する。とはいえ、配達員に、私の元カレが、云々なんて言っていられないので、簡潔に荷物の内容と送り主の内容を聞く。いつもの通販サイトからの荷物だということを確認して、多分いつもの通り、食料品や飲料系だろうと推察した。

「わかりました。そこにいる人にサイン書いてもらえれば、置いていって良いので」

「おいおい、それはまずいだろお前。他人に書かせるなんて」

「他人だと解っているなら早々に立ち去って欲しいわね」

 少しの無言。立ち去る足音と気配。それだけを察して、数瞬おいた後、扉を開けた。

「ごめんなさい、驚かせてしまって」

「いやいや……たまにある事なんで、大丈夫ですよ」

 配達員の人が、笑う。にやにやと。私はその笑みが、とても苦手だ。この人に非が無いのは解っている。それでも、扉から覗かれているだろう生活の跡を見られている気がして、どうにも苦手なのだ。配達員は、笑い続けている。にやにやと。にたにたと。私はその笑みから逃れるように、素早くサインをして、荷物を引き取った。

「いやあ、大変ですねえ……おねえさんも」

 その言葉を背にして、扉はばたりと閉まった。


 私に信じられるのは、小説だけだ。私の書く、拙い文章。頭の中にある何もかもを、吐き出して、まとめて、カタチにする。でも私の中にあるものは、美しいものばかりではない。人間関係や、生活環境は、十分恵まれているとは言えない。だけれども、何かを残したいと思った。せめて、少ないながらも美しいものを、美しい景色を、美しい思い出を、残したいと。そんな風に始めたこの場所に、もう誰も立ち入らせたくはなかった。

 でも。人は踏み荒らす。単純な興味で。純粋な悪意で。簡単な言葉で。

『これ、イマイチですね』

 デスクに戻ると、パソコンの液晶に映し出されていた、肯定的なコメントの中に、そんな文字を見つけた。拳を握りしめる。解っている。解っている。拙い事は、解っている――それでも。悔しいものは、悔しいのだ。それを糧にしろと、人は言うだろう。私だって、そう思う。そうしてきた筈だった。どうしても、苛々してしまう時が、あるだけで。昔よりは少なくはなっているけれど、割り切れずにいて、そんな自分がひどくもどかしい。もっと、強い人間になりたい。何でもないような顔をして、批判なんて受けても、涼しい顔で受け流して。自分だけの世界を作り続ける、そんな私に。

 気がつくと、握りしめた手のひらが痛くなっている事に気付いた。慌ててその場所を見ると、見事に爪が食い込んでいた。ああ、いけない。爪を切らねばならないな。そんな事を思っていると、また、小説にコメントがついた。

――『あなた、私の作品を覗き見したでしょう』


「なあにそれ。キモい。よくある、言いがかりじゃん」

「ううん……流石に今回のはちょっとね……」

 私の元同期でもあり、高校からの友人、沙都子が言った。よく仕事先でも話をしていたものだったが、逃げるように退職したせいもあり、縁が途切れてしまうと思っていた。だけれど沙都子はこんな私を心配してくれて、時たまこうやって電話をして近況を報告し合っている。沙都子は、優しい。多分私が男だったら真っ先に惚れてしまうくらい、性格も良く、器量も良く、外見だって良い。きっと恵まれている人というのは、こういう人の事を言うんだろうなって、思ってしまうくらいには沙都子の事は好きだ。

「ブロックしてみたら? そういう機能、あるでしょ」

「うん、やってみた。でも……」

 私は、落ち込んでいるのを自覚しながら、パソコンの画面をそろそろと見る。

『ブロックしたでしょ』『見てるんだから』『解ったほうがいい』『全部ムダだよ』『気づかないふりをしないで』『ずっと見てる』――

「……頭が痛いというのはこういう事かと思い知ったわ」

「アカウントを変えてきたって事ね」

「そうなの。しかも、一日に一回か二回、この人の新しいコメントが来るの。多分これ、ブロックしてもまたアカウントを作るんだろうな」

「それはそれは……対処のしようがないわね。放っておくしかないんじゃない」

「そう、なんだけどね……」

 しかし、それにしたっておかしい。もう、最初のコメントから一週間以上経っている。毎日欠かさず中傷や意味深なコメントを残す荒らし。一体私が何をしたと言うんだ。ただ、私は小説を書いていただけだ。自分の作ったものに傷をつけるような真似をする人間を、私は簡単に許せはしない。でも沙都子の言う事も、もっともだ。この人物に返信をしてしまえば、更に炎上してしまうのではないかという恐れもある。いや、きっとそうなるだろう。愉快犯。それが今、私と沙都子の共通の認識だった。

「ところでなんだけどさ」

 ふいに、沙都子が言った。

「そのアカウント、名前、何ていうの?」

 私は、青白く光る液晶を見下ろした。初期設定のままのアイコン。その横に。

「――イデア」

 理想という意味の単語を、口にした。


 イデアからのコメントは、それからも絶えず続いていた。私はというと、もうへとへとで、うんざりで、もやもやとした感情で支配されていたけれど、小説を書く事だけが、私の楽しみだ。だから、イデアを打ち負かそうと色々なサイトで表現の方法を調べ、作品を昇華していく事に努めた。それが反映されたのか、全体的なコメント自体は徐々に増えていった。だが、イデアは相変わらず、良く解らないコメントを残していた。コメントをくれる人の中には、イデアに噛み付くものもいた。けれどそれにイデアは反応せず、ただひたすら、私に対してであろうメッセージを残し続けた。

 私はそれらのメッセージに反応する事をしないようにし続けた。しないように、というよりも、正直に言って見当がつかなかったのだ。私は、第三者目線から見ても、主観的に見ても、有名になった訳ではない。コメントが多くなった、というのはあくまで私の主観であって、他の人はもっと沢山コメントを貰ったり、反応を貰ったり、書籍化したりしている。圧倒的に見ている人間がいれば、荒らしの一人や二人、いてもおかしくは、ない。

 なのになぜ? イデア、あなたは一体何を考えているの?

 新しいコメントに、私は背筋が凍る感覚がした。

『私の頭の中にあるものを、奪わないで それは私のもの』


*****


「いい加減にして!」

 私は一人、部屋の片隅で怒鳴っていた。もう、あれから一ヶ月が経った。あれから、というのは、イデアからの迷惑メッセージが届いてから、という事だ。イデアからは毎日、嫌がらせのメッセージが届いている。いや、もう、これは嫌がらせという度合いではない。ストーカーだ。

『今日のご飯はジャムつきのパンだった』『カーテンかわいい柄だね』『今書いてるのは歴史モノ』――私を完全に見ている。どこからかは解らないが、確実に。私のコメント欄は、少し荒れていた。イデアに、それはやりすぎだと竦めるもの、怒るものが少なくはない。私は毎週のように沙都子に電話で愚痴をこぼしてきたが、もう限界とばかりに怒鳴ってしまったのだ。

「落ち着いて、こんなのハッタリよきっと」

「違うの沙都子。本当なの。この日は本当にジャムをつけて食べたし、カーテンだって……今書いてるのだって、歴史モノで、ここに参考文献まである」

 ここ、と言いながら指し示したのは、パソコンデスクの隣の小さな本棚。そこには、初心者向けの歴史についての本が、数冊収められている。例えば私が小説を書いているのを知っていて、なおかつ歴史の資料がここにあるとくれば、簡単に推察出来るだろう。部屋の中に監視カメラでも仕掛けられているのかと思うくらい、イデアの言っている事は、的を得ている。私は、確信していた。

 ――『イデア』は、私の知っている人間の中にいる。


 私がまず最初に疑ったのは、元カレだった。ストーカーになるとしたら、と考えて真っ先に思い浮かんだのが彼だったのだ。だから、私はまた懲りずにやってきた元カレを、いきなり怒鳴りつけた。仕方のない事だと思いたい。

「あんたでしょ! 変なメッセージを送りつけて!」

「おい、いきなり何だよ! 変なメッセージ? 知らねえってば!」

 しらばっくれる男を、更に問い詰める。

「あんたなら、盗聴器や監視カメラだって、付けられるでしょ!」

「俺が何でそんな事しなきゃいけないんだよ! そもそも、そんな暇、どこにあるんだ? 俺はこの部屋に一度も、一歩も入ってないんだぞ?」

「それは……」

 頭に上がった血が、みるみる下がってきたのが解る。確かに、そうだ。最初にこの家に来た時も、ドアチェーン越しに対応した。それからは、一度もドアを開けてすらいない筈だと気付いたからだ。

「でも……でも、それなら、誰が……」

「おい、大丈夫か? 全く、付き合ってた時もいきなり怒ったりしてたが今回は特に酷いな。警察には行ったのか」

「そんな事なかったわよ……。警察には、行ってない……ネット上だもの、取り合ってくれるかどうか、不安で」

 思えば、別れてから本音で話し合うのは、本当に久しぶりだ。いつも突っぱねて、何でだ、何でも、の繰り返しで。どうして、私たちは、別れてしまったのだろう。いいや、今は不安なだけだ。誰かにいて欲しいから、そんな事を思うだけだ。私は自分に言い聞かせながらも、ただ突っ立っているしか出来ない。ドアを隔てた、たったそれだけの距離なのに、私と彼は、近くて遠い。

「でも他にその……容疑者なんて、いないわよ」

「なんか怪しいやつ、いないのか? 挙動不審だとか」

「挙動不審って言われても……あ」

 ひとり、思い当たる人物がいる。だが、本当に?


「え? おねえさん、ストーカーに遭ってるんですか?」

「ええ、まあ……」

 思い当たった人物、それはいつもの宅配の人間だ。私はイデアの発言のひとつに目を留めたのだ――『ジャムつきのパン』。いつも私の頼む通販で飲食物を配達するこの男なら、伝票に書いてある内容物に粗方目星はつくし、何より、ダンボールに何か仕込む事が可能だったのではないかと思ったのだ。

 けれど、その推理は推理とも呼べない。確かに、内容物は解るだろうけれども、私が小説を書いている事や、その他の情報は、それこそ監視カメラでも無い限りは知る術は無い。それを可能にするであろうダンボールへの細工だが、明らかに、無理だろう。今まで届けられたダンボールを、ゴミに出す際に解体し続けてきたが、不審な点があれば、即座に気付く筈だ。一瞬でも怪しいと思った私が馬鹿だったとしか、言いようがない。

「あの、ところで配達員さん」

「スズキっす」

「え? ああ、鈴木さん……いつも、その……笑顔が素敵ですね」

「本当ですか?」

 配達員――鈴木さんは、ぱっと明るい笑顔を見せた。

「いやあ、配達業も大変で。常に良い笑顔じゃないと、だめなんですよ。すぐ文句付けられちゃうから。これも前指摘してくれたおねえさんのおかげかな」

 じゃあ、ありがとうございましたと、男――鈴木さんは、荷物を置いて颯爽と去っていった。勿論、ダンボールに不審な点など、何一つ無かった。


*****


 いよいよもって手がかりは無くなってしまった。未だにイデアはメッセージを残し続けている。そしてとうとう、彼、もしくは彼女が、最終手段に出てきた。ドアポストに挟まれた、二つ折りの紙。その時点で、私は今までに体感した事のない寒気に襲われた。震える手で、指で、それをつまむ。恐る恐る、ドアから離れていつものデスクに置く。落ち着くまでに、数分か、あるいは数十分かかったかもしれない。とにかく、覚悟が決まった瞬間、それを開いた。

 ――血かと思った。

 それほど赤く紅いインクか何かで書かれたそれは、乱雑な筆跡だった。『今夜あなたを殺します』。これ程簡潔かつ恐怖を与える脅迫文は無いだろう。私の頭は混乱して、一体何をどうすれば良いのか、パニックに陥った。母に相談してみる? いいや、小説を書く事に理解を示していなかったし、何より、母は電子機器が苦手な筈だ。だから昨日だって、『早く結婚して仏間の父さんに手を合わせなさいよ 母より』なんて、相変わらずアカウントも何も解らない、いつもの文末をつけてきたのだし。

 もう、頼れるのは沙都子しかいない。震える手で、スマホを手に取る。ラインのメッセージではもう無理だ。仕事中かもしれない時間だが、ともかく通話ボタンを押す。何度かの呼び出し音の後、やっと繋がった先は、妙にざわついていた。どこか、外出しているのだろうか――仕事中かもしれない時間に?

「どうしたのいきなり――」

「ねえ、沙都子。あなたなの?」

 私は、恐ろしい可能性に行き着いてしまった。私は沙都子になら何でも話した。小説を書いている事も。次に何を書くかも。新しいカーテンを買った事も。いつも好きなジャムを付けて食べる事だって、学生時代からの友人である沙都子なら、容易に解る筈だ。

「何、ちょっといきなり何言ってるの?」

「イデア」

 その言葉に、沙都子は一瞬怯んだようだった。

「ねえ。沙都子が『イデア』なんでしょう? 理想。皮肉よね。私が沙都子を羨んでる事、知ってたんだ」

「ちょっと、どうしたの? 落ち着いてよ」

「だって、沙都子以外に考えられないのよ! イデアの正体が! 沙都子なら何でも解るし、私が小説を書いている場所も、何もかも知ってるでしょう! 私が何をしたっていうの? 沙都子には何でもあるのに! 私を殺したい程何か私がしたっていうの?」

「殺す? 私が、あなたを? ちょっと待って、どういう事?」

「どうもこうもないわ! 脅迫状を送ってきたのもあなたでしょう! 今も聞こえる雑踏――これから、私を……」

「待って、本当に落ち着いて。いいから聞いて。今私が街中にいるのは事実よ。でも、脅迫状、だっけ? それを出したのは私じゃない」

 沙都子は、私をなだめるように、ゆっくりと話していく。けれどもう、私には沙都子の言葉が、信じられない。

「でも現に、脅迫状はここにある。ドアポストに挟まっていた、これが」

「今日見つけたの? なら、なおさら私じゃないわ」

「……どういう事?」

「だって私」

 出張中で、県外に三日前からいるもの。その言葉を聞いて、目の前が真っ暗になった。


 沙都子が言うには、こうだ。一週間前、出張の辞令が出た。三日前、県外の子会社に出張に向かった。電話を受けたのは、ちょうど出張先から戻る途中の時だったと。証拠としてすぐに、その県で有名な建物や、駅名の書かれた看板の写真を送ってもらった。必要ならば、会社に確認して貰っても良いとまで。

 私は、とうとう困り果てた。大切な友人すら、疑ってしまった。怒鳴りつけてしまった。私は、一体どうすれば良いのだろう。今更警察に行っても、どうにかなるものか。そんな事を思案しながら、ふと、液晶の光に目を留めた。

 頑張って、の文字。

 負けないで、の文字。

 最近、イデアによるストーカーじみた荒らしに対して、主に常連さんとなった読者さんがくれた言葉たちが、私の瞳に映る。そうだ。私は、負けてなんかいられない。脅迫状だって、いたずらかもしれない。大体私は、人に恨みを向けられるほど、社会に貢献していないのだ。自虐的な考えでも、今は私の勇気になる。

 そう。私はまだまだ、頑張れる。

 そう、両腕を目の前に持ってきて小さくガッツポーズをして、気付いた。私の手の小指側――もし書きものをしたらインクがつくであろう場所に、赤いインクがついている事を。

「――え?」

 私は、つい最近、赤いインクを、使った覚えなどない。私は原稿用紙に小説を書くタイプではないから、赤いインクで誤字脱字チェックなどをする訳もなく、使ったとして資料に黄色い蛍光ペンを使う程度だ。間違いはない。毎日風呂やシャワーで身体を洗うから昨日や一昨日のものではない。今日使った筈のインクだ。

 私には、そんな記憶はない。

『付き合ってた時もいきなり怒ったりしてた』――元カレの言葉だ。

 私には、そんな記憶はない。

『指摘してくれたおねえさんのおかげかな』――鈴木さんの言葉だ。

 私には、そんな記憶はない。

『あなたを殺します』――イデアの筆跡が、私に似ている。

 私には、そんな記憶はない。書いた記憶なんて、ない。

 心臓がバクバクとうるさい。頭が痛い。思わず両手で頭を抱え、倒れ込むようにして床に寝転んだ。頭の中で声がする。それと同時に、唇が動く。

「私の頭の中にあるものを、奪わないで。それは私のもの」

 口が自由に動かない感覚がする。私の頭の中。それは一体どれのことなのか。幼い頃父を亡くしたこと? 憧れた英雄にはなれなかったこと? 会社で居心地の悪かったこと? それらを全部捨てて、何もかも忘れたふりをして、きれいなように見せてきたこと?

 イデアが――理想わたしが、笑って言う。

「「」」

 私の心は、身体は、もう動かない。この楽園も、私のものではなくなった。動くのはイデアの身体。その腕が、明確な殺意を持って、私の首に伸び、そして――。

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