第137話 フィーエル、お別れをする

 ウォルスさんが、イルスさまへ攻撃をしかけた瞬間、私はその攻撃を止めたい衝動に駆られた。

 イルスさまの味方をしたいわけじゃなかった。

 私の中では、アルスさまはただ一人。

 それでも私は、イルスさまに死んでほしくなかったんだと、目の前で冷たくなってゆくイルスさまの頭を撫でながら改めて気づいた。


「イルスさま……もっと早く伝えてくだされば、その心の痛みを、私が少しは引き受けることができたかもしれないんですよ……」


 返事が戻ってくることのない問い掛けを、独り言のように呟き、イルスさまの顔の血を拭う。

 こういう状況になるのはわかっていたため、初めから覚悟はしていた。

 それでも、もっと涙が出るのだろうと、なんとなく思っていたけど、なぜか出てこなかった。


「フィーエル、もうお別れは済んだ?」


「……いえ、もう少しだけこのままにさせてください」


「ウォルスは先に行っちゃったから、時間はいくらでもあるけどね。まあ、泣くなら今のうちよ」


 アイネスは素っ気ない返事をするけど、私に背を向けて顔を見ないようにしてくれる。

 それが少し嬉しいような、申し訳ないような気持ちにさせる。


「はい……わかってはいるんですけど、涙が出てこないんです」


「――――そう。ならよかったじゃない。最初から頭の中で区切りはついてたってことでしょ。そこにいるのは、アンタが想ってた相手じゃないってことよ」


「――――――――そうですね」


 私が知ってるようで、知らなかったもう一人のアルスさま……。

 それを知った瞬間から、私の中ではアルスさまでなくなったのかもしれない。

 もしかすると、ウォルスさんと出会ったことで、知らず識らずのうちに、このアルスさまから目を逸していたのかもしれない。


 そう考えるだけで、申し訳ない気持ちで胸が詰まってしまう。

 私は罪深い。

 アルスさまをあそこまで追い込んだのは、きっと私に違いないのだから。


「遺体は残しておかないといけないだろうし、傷む前にアタシの魔法で保存してあげるから、移動はフィーエルがやってちょうだい」


「――――わかりました」


 両手を胸の前で組ませると、アイネスの魔法によってイルスさまの体が特別な水に包まれる。

 宝石のようにキラキラと煌く水属性封緘魔法。

 血塗れのイルスさまの姿を、同時に極限まで綺麗にしてゆく。


「アイネス、ありがとうございます」


「何よ、かしこまっちゃって。こんなの当然のことでしょ!」


 アイネスは、アルスさまと入れ替わったこのイルスさまの存在を、以前から快く思っていなかった。

 アイネスがカーリッツ王国を離れた時のことが思い出すと、今でも胸が締め付けられる。

 それでもここまでしてくれるのは、この世界のアルスさまや、ウォルスさんとの繋がりがあるからに違いない。

 そう思うと、胸がじんわり温かくなってゆくのがわかる。


「イルスさまのご遺体は寝室、それとも王の間、どちらに安置しておくのがいいでしょうか」


「そりゃあ王の間でしょ。ここの連中がどこに行っちゃったのかわかんないけど、戻ってきた時にイルスの寝室を覗くとは思えないし」


「では王の間ですね――――硬い床に寝かせることになるのは心苦しいですが、我慢していただきましょう」


 イルスさまを魔法で浮かせると、私の邪魔をするようにアイネスが割り込んでくる。


「どうかしたんですか?」


「言っとくけど、アタシはアンタを殺そうとしたこいつを許してはないの。中庭に放置していってもいいくらいよ」


「アイネスの言いたいこともわかりますが、死者を丁重に扱うのは当然ですよ」


「その感覚は理解したくないわね」


 アイネスは呆れているとも、少し怒っているとも取れる表情で空高く舞い上がる。


「アイネスはそれでいいと思います。その気持ちだけで、私には十分ですから」


 最後くらいは、しっかり向き合って送り出してあげたい。

 違う世界のもう一人の私が、どんな人物だったのかはわからないけど、これが今の私にできる精一杯の、最後の仕事だから。

 

「それじゃあ、アタシは城門で待ってるから」


 アイネスはそう言って、一人、逆方向へ飛んでゆく。

 きっと私に気を遣って、最後に二人だけの時間をくれたに違いない。

 そうと思うと、胸が熱いもので満たされてゆく。

 何だかんだ言っても、やっぱりアイネスは優しいのだ。


 イルスさまを王の間に運び、ゆっくり最後の別れをしてから部屋を出てゆく。

 振り向かないと決めていたけれど、結局、扉を閉める時に一度だけ振り向いた。


「さようなら、イルスさま……」


 今までなんともなかったのに、目の前が涙で歪んで見えなくなった。

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