2:06 GOサイン
今日は四月二五日。ホムンクルスが稼働開始してからちょうど半年。そして、環境運用試験の最終日だ。
なにか重大なトラブルがあれば解消するまで延長もありえたけど、幸いなことに、そこまで大きな問題は起きていない。
ラクシャマナン先生のとこでいつもの検診を受けた後、同じ建物にある会議室に担当者らで集まった。今日はフォレスト司令もハイラスで来てるけれど、デュボア副司令は都合で月面基地から離れられないため、
集まった面々を見渡して、司令が口を開いた。
「まだまだ万全とはいかないが、求められる絶対に必要な水準は一先ずクリアできたと見ていいだろう。環境評価ミッションはこれで終了としよう。半年間、皆よくやってくれた。諸君らの働きで、我々はようやく一歩進めることができる」
ミッションコンプリート宣言だ。ヒャッホーってな歓声はないけれど、とりあえず一つの山を越えたことで、誰ともなく安堵のため息が漏れた。
「では、いよいよ合成に着手して良いのじゃな?」
医療部長であり、新人類合成の責任者であるラクシャマナン先生が問う。
「ああ、ラクシャマナン、予定通り進めてくれ」
「了解じゃ」
ようやく。ようやくだ。ついに、新人類の合成にGOサインが出た。
わたしらの本来の目標は新人類を育てることだけど、今までその前準備の段階でずっと足踏みしてたからねえ。
新生児として生まれてくる新人類を無闇やたらと死なせたくはないってのが大前提にあるんで、原始時代のサバイバル生活になるようではダメなのだ。
さらに、開拓団の最終目標は『新人類に現代文明を引き継ぐ』というものであって、文明を一からやり直すことじゃない。そのために、最初から可能な限り現代の生活水準に近い環境を用意する方針になってる。
まあ、まだまだ足りないところはいっぱいあるけどね。
「ミス・サトウ。ご苦労だった。君には一番負荷が掛かっていただろう」
「い、いいえ。大変ちゃ大変でしたけど、なんだかんだで生きるか死ぬかってほどの危機とかはなかったですし」
司令はわたしもねぎらってくれた。
実際いろいろ不便はあったけど、無理ゲーというほどでもなかったしね。少なくとも、ひもじくて木の根っこをかじったりとか、泥水をすすったりとか、寒さで凍え死ぬようなことはなかった。
ファッション性は皆無だけど着るものはちゃんとあり、食べ物も味とバリエーションはともかく栄養はきちんと取れていたし、内装はほとんどないけど風呂付きでそこそこ寝心地のいいベッドも完備されてた。
衣食住については、なんとか文明的な生活になってると言えると思う。
不便なところも、工夫次第でどうにかなることも多かった。
「今後も君にはホムンクルスで活動を続けてもらいたいのだが、大丈夫かね?」
「あ、はい、それはだいじょぶです。やります」
「では、よろしく頼む」
特に問題もないし、ほとんど二つ返事で引き受けた。
そして、副司令からは今後の活動についてお話があった。
『……合成に使う遺伝子の候補十六人分はすでに選定が終わっていますので、ドクタ・ラクシャマナンにはそのまま作業を開始していただきます。
あと、二週間後にはホムンクルスの二号機三号機も稼働を開始します。事業部第九班の面々には彼女たちにここでの生活の仕方などを教えてもらい、新生活のサポートをお願いします』
「りょうかいです」
前に聞いた話だと、二号機三号機も女性が載ることになってるそうだ。生まれてくる子供たちに最初に接するのは、女性のほうが向いてるだろうという判断だった。
以前の地球でなら、こういう話題になると、やれ性差別だの、やれ女性の地位がどうのという話で紛糾することもままあったけれども、
例によって、未だに合理性よりも、以前の地球におけるリベラルという名の権利主義に強くこだわるマイヤール部長がなんかぶちぶち言ってたけど、スルーされたとか。
『……今までは足りないところばかりで、優先順位をつけるにも難儀していましたが、ここで改めて一度、優先度の再評価を行いたいと思います。そのうえで、どう補っていくかが主眼となります。ミス・サトウ、とりあえず何か希望があればどうぞ』
「えーと、そうですね、とりあえず同じメニューが続くのは精神的にけっこう厳しいんで、食材と調味料はもっといろいろなのが欲しいかと。あと、こないだの醤油モドキはぜったい欲しいです」
先週、麹の代わりに魔法で大豆を分解して、成分を調整した『擬似醤油』というのが試験的に造られた。色はやや黄色がかった透明で、風味も本物の醤油に比べてしまうとだいぶ落ちるものの、一応醤油っぽい味にはなっていた。あれはぜひとも量産してほしいところ。あるとないとじゃ大違いだ。
開拓団のデータベースには麹菌などの遺伝子情報もあるものの、安全性とか環境への影響とかのチェックなどが済んでなくて、合成は保留になってる。他に優先度高いものがいろいろあるからねえ。なお、納豆菌は生態系にヤバそうなんで、禁忌として永久封印。
菌類については、ニューホーツの在来種にも発酵に使える種類は恐らくいるだろうと考えられてるけれど、探す手間と時間を考えるとちょっと簡単には手は出せない。ゾンビ菌みたいなのもいるし。
まあ、仮に麹が用意されても、醤油造りの経験者なんていないので、資料を見ながら試行錯誤していくことになるだろうけどね。醤油への道のりは果てしなく遠い。
「あー、その辺は今後の課題だな。確約はできないが、できるだけ要望をかなえられるよう、調整はしてみよう」
司令が苦笑しつつ答えた。
*
わたしたちがニューホーツにやってきて早五年。ようやく土台が整った、という感じかねえ。
五年でこれというのが早いか遅いかといえば、わたしは意外と早かったんじゃないかと思う。よくあるラノベのチート開拓モノなんかだと、ほんの数日~数ヶ月で環境を整えてしまうのとかザラなんで、それらと比べてしまうとナメクジ並みにものすごく遅いんだけど。
わたしたちには現代の科学知識があり、ドローンを始めとして高度な機械がすでにあり、さらにはモノ造りに向いた便利な魔法なんてものまである。
しかし、それらがあってもなお、現実に
魔法で化学変化をさせる場合も、呪文唱えてポンってわけにはいかない。元となる物質と目的の物質、それぞれの正確な分子構造を魔導回路に設定しておく必要がある。水くらいならシンプルでいいけど、有機物になるとかなり設定が複雑になってくる。
また、生成物、反応で余った副産物をどう取り扱うかも、事前に対処方法を用意しておかないといけない。
単純なモノであれば、古典的な化学反応のほうが手っ取り早くて、量産向きな場合もあったりする。何をどれくらい造るかにもよるんで、その都度勘案して決めてる。
最先端のドローンや各種工作機械は、わたしたちにとって最大の強みではある。それらがなかったら、そもそも開拓しようなんて話にはならなかっただろうしね。ある意味、ドローンは最大のチートと言える。
もっとも、ドローンを造れるようになるまでには、ものすごい苦労があったそうだけど。
地球からの遠隔操作しか加工手段がなかった最初期の頃には、惑星規模の超大質量を大雑把にまとめるのは簡単でも、精密で微細な機械を組み上げるのが難しかったらしい。
そこで、最初に超低出力・超低速度の極めて単純で巨大な自動機械をどうにか組み上げ、それを親として、より精密で高性能な子機・孫機を造らせ、それらを
言ってみれば、超長期間の
とはいえ、ドローンがあれば万事解決、というわけにはいかなかった。
たしかに、月面基地のサーバーには、地球から持ってきた人類の叡智とも言うべき膨大な知識が納められている。老舗の百科事典や、某フリーオンライン百科事典の各国語版全データを始めとして、各種論文、電子書籍、特許情報、企業や団体の公開・非公開のデータから個人のブログに至るまで、およそ技術に関連する情報であればほとんど手当たり次第と言っていいくらいに、極めて多岐に渡ってる。
でも、そうした知識を、何も考えずにそのまんま形にできるケースというのは案外少ない。設計図が丸々あればその通りに造ればいいんだろうけども、そういうのはごく稀だ。大抵は様々な知識を方々から拾ってきて、自分たちで頭を使って組み合わせないと実用レベルにならないのだ。
地球で各企業が提供してきた製品というのは、たとえ理屈はシンプルなものであっても、製品化にあたっては様々な工夫がなされてるものだ。部品の形状だとか、ちょっとした取り付け位置だとか、配合比率だとか。何気ないところに長年培った技術が使われていて、特許以外だとそういう部分はなかなか知識として表に出てきにくかったりする。
そういうのと同等のものを、わたしらは全部手作りしなきゃなんない。
蓄えられた知識も膨大すぎた。全部把握できる人間なんているはずもない。
最先端の科学知識全部が必要なわけじゃないけども、それでもわたしたちだけで一通りこなそうとすると、必要な知識はものすごく広範になる。
機械学習型のAIが知識を整理してくれてるけれど、それが有効なのは知りたいことがわかっている時だけだ。何を知らないのかがわかっていない段階だと、あんまり参考にはならなかったりする。
すべてデジタル化されてる情報なんだから、仮想体の記憶に統合できないのかな、なんて思ったんだけど、さすがにそれは無理と言われてしまった。フォーマットが違いすぎるんだそうで。
開拓団にも専門家はいるんだけど、あんまり数は多くない。また、その人たちも自分の専門以外のことにはけっこう疎かったりする。
例えば建築の専門家でも、鉄筋に使う鋼材やガラスの造り方については大雑把な知識しかない。縫製のプロが紡績機から織機やミシンの構造まで把握してるわけじゃない。農業やってた人でも肥料や農薬の製造は業者まかせで、自前で作って運用した経験のある人は開拓団にはいなかった。
専門の人であっても、商売道具を全部自作できるわけじゃないのだ。ここで求められるのは専門分野に特化したスペシャリストより、広く浅くこなせるゼネラリストかねえ。
全部自分たちでやるとなると、
遠回りしないと辿り着けないことも多々あった。目的地まで一気にワープできるようなチートがあれば楽だったんだろうけども、そんなものはない。
まあ、機械系や電子系の物については技術部に詳しい人が多いので、わりとスムーズにいったけれども、それでも新しいものを造るにはある程度の試行錯誤は欠かせなかった。
あと、技術部に仕事が集中しすぎて、パンク気味だったのもある。何か必要なものがあっても、数ヶ月待たされるような状況も少なくない。それで、わたしのような門外漢でも、簡単なものであれば自分でやり方調べて造らざるを得なかった。
結局のところ、現代の科学技術というのは、
・極めて細分化された膨大な知識
・知識を必要に応じて工夫して組み合わせるノウハウと経験
・大規模な分業による多種多様な製品供給
この三つで成り立っているんだと思う。
たくさんの研究者たちがそれぞれの専門分野を極めていって、技術者たちがノウハウによって形にし、自身で作れない物は別の専門の業者が造って供給する。
いずれも人類が努力を積み上げてきた成果であり、どれか一つ欠けてもダメなんだろう。
今のわたしたちにはノウハウも経験も圧倒的に不足していて、分業できるような産業構造もない。真似しようにも、一朝一夕にいくものじゃない。
そして、たとえ優れた科学技術があっても、どうにも近道できないものもある。
インシピット村を囲う壁の建設や土地の造成、インフラ整備などは規模が大きいために、純粋な作業期間だけでもけっこうかかってる。一部の単純作業は通常AIのドローンを多数動員して人海戦術でやってたりするけども、それでもあまり大きな短縮にはなっていない。
農業はさらにものすごく時間がかかる。試験農場で植えて育てて、収穫して結果を知るまでにたいてい半年近い期間がかかる。果樹だと数年単位だし。
そうなると、わたしたちのやり方が正しいのかどうか、試行錯誤をするにもなかなか根気がいる。何事も一足飛びにはいかないものだ。
時間短縮して農作物を促成栽培するようなチートがあればいいんだけどねえ。地球側からは時間加速できても、わたしらはあくまでニューホーツ側の時間に縛られる。
あるいは、いい具合においしい作物をさっくり育ててくれるチートとか、そんなものがあったらマジで欲しい。
ニューホーツ特有の問題っていうのもある。特に生物系。試験農場が未知の害虫やカビで全滅したこともあった。こういうのは地球の知識だけでは不十分だった。
いやね、連作障害とかお話にはよく聞くけども、具体的にどうなるかっていうのは知らなかったんですヨ。
害虫や病害とかは地球のものとは別種で、駆除方法にも違いがあるんだけども、連作障害を起こす根本の理屈は同じでして、やっぱり発生するんですヨ。これがもう思い出すだけで鳥肌が立つくらいにすごい絵面になってしまいまして。
表皮が爛れるくらいは序の口で、目をこらして見るとわずかに蠢くナニカがびっしりと覆ってたり、ウネウネする線虫やらで、マジで【SAN値直葬】・【閲覧注意】の世界ががががが……。産地だけに。
地球でのあれこれを再現しようにも、一筋縄でいかないのは理解してもらえると思う。
まあ、何が何でもすべて最新技術で揃えなければいけないわけでもない。最初のうちは多少効率が悪くても、とりあえず最低限使えればいいというレベルのものも多いし。
わたしがホムンクルスで活動開始して以降、急速に整備されたところもある。
この環境なら、新人類を迎えることができそう。
まだまだ改善すべき点は多いし、わたしはその実験台になる日々がこれからも続くんだけどね。
でも、ひとつのハードルを越えたことで、わたしたちはほっと胸を撫で下ろしていた。
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