第55話 燃え盛る
葵姫と紅之介はようやく櫓に逃げ込んだ。息を切らせながらも、すぐに紅之介が扉を閉める。その扉に鉄砲の玉が「パババーン!」と当たって音を立てていた。ひとまず鉄砲からは逃げ切れた。だが、
「姫は中だ! 櫓に逃げ込んだぞ!」
という声が聞こえてきていた。もう敵の兵に何重にも包囲され、外には逃げられなくなっている。しばらくの間、紅之介は左手で刀を構えて敵の襲撃に備えたが、扉を壊して敵の兵が入ってくる気配はなかった。紅剣を恐れて敵はこの櫓に踏み込もうとしないのだ。
紅之介の右肩は鉄砲に撃たれて血がぽたぽたとまだ流れている。葵姫は懐のさらしを出して、紅之介の右肩の傷を縛って止血した。
「姫様・・・」
紅之介は葵姫への思いがあふれてきた。その手をしっかり握って葵姫を見つめた。しばらくそのまま静かな時間が流れた。それは久しぶりの2人だけの時間だった。2人の脳裏には様々な思い出が懐かしい情景となって蘇っていた。春に一緒に里を歩いたこと、美しい桜を2人で眺めたこと。景色の素晴らしい小平丘で笑い合って走り回り、空を見ながら一緒に寝そべったこと、初めて抱き合った夏の夜のこと。愛を告白した秋の夜のこと、濡れて冷えた体をお互いに温め合った小屋での出来事・・・それは2人だけの共有した懐かしい思い出であった。そして今、冬の梟砦で追い詰められているものの2人きりでいる。
「ずっとこのまま共にいたい」
「私もです。姫様」
だがそれは叶わぬことだった。もう終わりの時間は近づいてきていた。やがて外から、
「このまま焼き殺せ!」
という声が聞こえた。紅之介はそっと扉から外をうかがった。すると外でパチパチと燃える音がしていた。隙間から白い煙が入ってきている。
「櫓に火をつけたか!」
すぐに煙が櫓の1階に充満してきた。ここにいると煙に巻かれてしまう。
「上に逃げましょう!」
紅之介は葵姫の手を取って3階まで上がった。火はどんどん上へと燃え広がり、2人を追い詰めていった。もう逃げるところはなかった。
紅之介と葵姫は見つめ合って、向かい合いながらそのままゆっくりと座った。火は3階に回り、その揺らぐ炎が2人を照らしていた。
「姫様。申し訳ありませぬ。このようなことになって・・・」
「いいえ。いいのです。最期を紅之介と迎えられて私はうれしいのです。」
葵姫は微笑んで言った。
「姫様・・・」
紅之介が言いかけると、そっと葵姫の手が紅之介の唇に触れた。
「いいえ。葵と呼んでください。」
「わかりました。では私を
お互いはじっと見つめ合った。最後に愛を交すのだ。
「葵!」
「
そして2人は抱き合ってゆっくりと唇を重ねた。紅之介はしっかりと姫を抱きしめた。葵姫も紅之介を抱きしめた。周囲には紅色の火炎が立ち上り、やがてその炎は2人を包んでいった。
兵助は本陣からじっと砦を見上げていた。騒がしい戦いの音はもう聞こえなくなった。雪が舞い散る中、砦の立つ山全体がしんと静まり返ったように感じた。ようやくすべて終わったようだ。暗闇に櫓だけは紅く明るく浮かび上がっているように見えた。そしてしばらくして
「櫓が燃えていくぞ!」
と兵たちの声が聞こえてきた。血のように紅く染まった櫓は、よく見るとどす黒い煙をあげながら火に包まれていた。やがてその火は遠くからでもよく見えるようになった。それは生きているかのように燃え盛り、天を紅く染めていた。
「美しいのう・・・」
兵助はその情景をぼんやり眺めていた。火炎は輝くように紅く、天に向けてまっすぐに伸びていた。それは砦に籠り、死んでいった多くの者たちの魂の炎であり、紅之介と葵姫の2人の愛が昇華した姿でもあった。
◇
朝日が昇る頃、ようやく櫓が燃え落ちた。火が消えて冷えたところに西藤三太夫が兵を数人連れて足を踏み入れた。それは葵姫の亡骸を確認するためだった。しかし兵たちが
「ん?」
三太夫はふと何かを感じた。
「なんだ? これは」
拾い上げてみるとそれは血塗られた真っ赤な刀だった。
「奴の刀か!」
それはかつて見た覚えがあった。確か、神一刀流、紅剣の使い手の二神紅之介のものだった。最後まで葵姫のそばにいて運命を共にしたのかもしれない・・・。
三太夫はそれを投げ捨てた。辺りを見渡すと、寒々とした光景が広がっていた。彼は急に寒気を覚え、体が震えてきた。
「生きてはいまい」
三太夫はそうつぶやくと、腕をさすりながら引き上げていった。
その後、多くの者がいくら探しても、葵姫の亡骸も紅之介の亡骸も見つけることができなかった。やがてそこには雪が降り積もった。それは砦の残骸も戦いの跡もなにもかも覆いつくした。もうしばらくはこの辺りは雪に閉ざされる・・・。
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