第4章 冬

第42話 戦いを前にして

 椎谷の里は長い冬を迎えようとしていた。山々の木々は紅く染まって落葉し、もの寂しい景色と変わりつつあった。里も人の気配が全く消え、静まり返った家々にただ乾いた風の音が鳴り響くだけだった。それはこれから行われるであろう戦いに備えて、多くの者がこの土地を離れて行ったからなのだ。


 あれから万代に動きはない。百雲斎は忍びの心得のある地侍に周囲の状況について探らせていた。何もない土地とはいえ、万代宗長は江嶽の国すべてを支配しようとするに違いないし、ここには東堂の御屋形様の忘れ形見の葵姫がいる。きっとこの地に攻め寄せてくると考えていた。

 だが雪が降ればこの土地は凍てつく寒さとなり、兵は動かせない。砦を攻めていても陣を引き払って退かねばならない。だからと言って春を待っていてはこの状況が変わるかもしれない。隣の箕納の国の盟主、土山秀龍は東堂家と懇意にしており、かつて麻山城にも援軍を送ってきたほどだ。だが万代家とは昔から反目していた。だから春になれば江嶽の国に攻めてくるかもしれない。そうなれば山嶽など構っておれなくなる。


(この冬、いや雪が降るまでが勝負だ。そこまで持ちこたえればこちらにも勝機がある。)


 百雲斎はそう考えていた。里の地侍はすべて梟砦に集めた。兵糧もしばらく戦い続けられるだけの多くを用意した。万代との戦に敗れてここまで落ち延びた者たちはすべて砦に収容された。その数は多くなかったが、来るべき万代の軍勢との戦いには必要な者たちだった。


 砦の守将は西藤三太夫だが、彼だけではこの雑多な兵たちをまとめきれない。だから亡き御屋形様の一人娘である葵姫が上に立った。彼女はこの砦に来て変わった。以前はただのか弱いお姫様だったのが、今や東堂幸信の後を継ぐ「御屋形様」である。今日も評定の場の上座に座っている。そこに地侍からの報告が上がってくる。


「万代は兵を集めております。その数は・・・」


 それを葵姫はうなずいて聞いていた。その姿は在りし日の東堂幸信を彷彿させた。


(やはり血は逆らえぬ・・・)


 百雲斎はそう感じていた。それはその評定にいる者すべて思っているのかもしれない。




 梟砦は山嶽の奥、椎谷の里と比較的近い位置にあった。そこは以前から里の者が外敵から身を守る最後の拠点だった。かつて多くの者がその砦に籠り、命が助かったことがある。

 その砦に通じる道は複雑に入り組み、険しく狭いため一度に多くの者が行き来することができない。砦の門や扉はまるで城のもののように厳重に作られており、攻撃したり侵入しようとした者をことごとく拒んできた。そして砦の中心には高い櫓がそびえたっており、この周囲をぐるりと見渡すことができた。


 葵姫はその櫓に陣取っていた。ここから全体の指揮を執るのである。傍らには西藤三太夫や百雲斎や重蔵がいた。彼らが葵姫を支えるのである。

 冬の来る前に土塀を高くし、空堀を掘り、刀や矢などの武器を蓄えた。もちろん兵の鍛錬も行った。こうして迎え撃つ準備は整えられた。後は敵が攻めてくるのを待っているだけである。砦に籠る者たちは皆こう思っていた。


「万代の軍勢が幾万攻めてこようとここは落とさせぬ!」


 彼らの士気はこの上なく高かった。



 一方、万代の軍勢の出立は遅れていた。どの重臣も山嶽の地に攻め込むのを尻込みしていた。険しい山道で荷駄での兵糧の輸送も限られる地で厄介な砦攻めなど、労多くして功少ないのはわかっていた。そんな思いまでして山嶽の地など・・・放っておけばひとりでに万代家になびくだろうと思っていた。

 しかし万代宗長は違った。必ず梟砦を攻め落として葵姫の首を取れと厳命した。そこで先の戦で手柄のなかった山田兵助の率いる軍勢が送られることになった。

 兵助は戦働きに後れを取っていたので焦っていた。だからこの話に飛びついた。幸いにも兵の数が充実していて、ケガをしている者も少ない。そしてすぐにでも出立できる。


「我らなら梟砦など一捻りだ。」


 兵助はそう思っていた。

 その軍勢は整然と進み、山嶽の地に入って行った。その様子は道に配した地侍によって梟砦の百雲斎に伝えられた。兵助の動きはすでに筒抜けになっていたのである。それはやがて砦から見える山裾の道に現れた。 


「敵が来たぞ!」


 櫓の上から外を見張っていた者が叫んだ。それを聞いて葵姫たちはすぐに櫓の格子戸から外を覗いた。多くの軍勢がこの梟砦に向かってきていた。その数は二千、いや三千ということころだろうか。旗印はまごうことなく万代家のものだった。その軍勢は砦のある山のふもとに陣を敷いた。

 葵姫が傍らにいる者たちに訊いた。


「準備はよいか?」

「整っておりまする。」


 西藤三太夫が答えた。彼はここにいる東堂家の御家来衆の筆頭で、逃れてきた東堂家の兵をまとめ上げて、砦の表門である一番門を固めていた。


「他の部署も準備はできておりまする。」


 百雲斎は言った。その言葉に葵姫は大きくうなずいた。そして皆に声をかけた。


「弔い合戦じゃ。皆、頼むぞ!」

「おう!」


 櫓をはじめ、砦のあちこちで声が上がった。そしてそれぞれが自分の部署に向かっていった。櫓の中には葵姫一人が残された。人前では気丈にふるまっていたが、心の中では大きな不安を感じていた。


(紅之介がそばにいてくれたら・・・)


 葵姫はふと思った。だが紅之介は二番門の守備についており、葵姫のそばにいることはなかった。葵姫はあの日のことを思い出していた。


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 あの大雨の日、葵姫と紅之介は山小屋でお互いの体を抱きあって温めて過ごした。それは今まで生きていた中で最も幸せな気分にしてくれた。だがそれは永遠に続くはずはなかったし、その日限りにしなければならなかった。父の東堂幸信が亡くなったのを知ったその時、葵姫は決断しなければならなかった。


(私が父の後を継ぐ!)


 そのためには葵姫もお姫様ではなく、東堂家の主君とならなければならなかった。葵姫は紅之介に告げた。


「もうこれで思い残すことはない。これから私は女であることを捨てる。父上のため、皆のため戦うことに決めた。わかってくれるか。」


 葵姫は言った。それは紅之介への別れの言葉でもあった。一方、紅之介は葵姫の気持ちがよく理解できた。やはり姫様には姫様の立場と生き方があると・・・。


「わかっております。あなたは亡き御屋形様の忘れ形見。私も姫様のために力を尽くしまする。」


 紅之介はおおきくうなずいた。その心の中には一抹の寂しさを覚えながらも・・・。


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 葵姫は迫りくる敵の大軍を前に決意を固めていた。


(必ず敵を叩いて、東堂家を復興させる。父上のために・・・)


 葵姫は右手のこぶしを握り締めた。それとともに紅之介のことも頭に浮かんでいた。


(紅之介。無事でいてくれ。私のために・・・。)


 と祈るような気持ちもあった。



 一方、紅之介は遠くに見える櫓の方を見つめていた。そこは砦の裏門である二番門だった。紅之介は一人の兵としてそこの守りについていた。そこは砦の中でも一番門と並んで激戦となる場所には違いない。紅之介はあえてここを志願した。少しでも姫様のお役に立とうと・・・。

 紅之介の頭の中には常に葵姫の姿があった。春に出会い、夏を過ごし、秋に愛し合ったその姿が心の中に刻まれているのだ。


(ここで討ち死にするかもしれない。そうなれば姫様とはもう会えないだろう。だが私の心には姫様の姿がある。だから未練や心残りはなく戦に臨める。)


 紅之介はそう思うと、両手を合わせて砦に向かって祈っていた。


(姫様。どうぞご無事で。この血塗られた紅剣と私の命、すべてあなたにささげます。この身がどうなろうとあなたのためになるのなら本望です。)


 紅之介は葵姫のために命を捨てようと決心していた。

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