第36話 飛び出した葵姫

 雨はますます激しくなるばかりだった。百雲斎は待ちくたびれていた。葵姫は迎えの者が来ないことをうれしく思いながらも、降りやまぬ激しい雨に、


(紅之介は大丈夫かしら。)


と少し心配していた。すると外でけたたましく門を叩く音がして、


「開門!開門! 塩野十兵衛でござる!」


と叫ぶ声が響き渡った。その者は御屋形様の近習だった。急いで門を開けると無残な姿の十兵衛がいた。鎧姿だが兜はなく、血まみれで怪我をして息を切らせており、何とか馬にしがみついている状態だった。


「しっかりされよ!」


地侍たちがすぐに十兵衛を馬から下ろし、肩を貸して広間に連れて行った。その様子から何かとんでもないことが起こったことが想像された。十兵衛は座り込み、差し出された水を一気に飲むと、ほうっと息を吐いた。無我夢中でここまで駆けてきて、まだ茫然としていた。


「一体、どうなされたのか?」


百雲斎の問いかけにやっと我を取り戻したようだった。


「大変なことになり申した・・・」


十兵衛はそこまで言ったものの、何から話してよいものかを思案していた。じれったくなって百雲斎がまた尋ねた。


「何事が起ったのですかな? もしや姫様のお迎えに何かあったのですか?」

「そんなことではござらん。一大事でござる。御屋形様が・・・」


十兵衛はそこで息をついた。その言葉に葵姫は悪い予感を覚えた。父の身に何か・・・急に辺りが暗くなっていく気がしていた。


「父上がどうしたのです!」


葵姫が大きな声を上げた。


「万代めにやられ、山嶽の地に落ち延びようとしました。しかし途中、敵に囲まれました。必死の思いで戦いましたが、気が付けば御屋形様の行方は知れず・・・。もしかして先にここにお着きになっているかと馬を飛ばしてきたのだが・・・。」

「いや、御屋形様はここに来られてはおらぬ。」


百雲斎は首を横に振った。それを聞いて十兵衛はがっくりと肩を落とした。


「そうか・・・では敵の手にかかったのかも・・・」


その十兵衛のつぶやきに葵姫が目の前が真っ暗になった気がした。


「父上が・・・」


葵姫はそれ以上、声が出なかった。


(私が城に帰りたくないと思ったばかりに罰が当たったのであろうか・・・。私のせいだ。私のために父上が・・・)


葵姫は自分を責めた。許されぬ恋に走った天罰なのだろうか・・・と。一方、横にいる百雲斎は事態の推移に驚きながらも冷静だった。


「それより何がどうなったのじゃ。先日の麻山城からの使者の話では万代宗長は城の囲みを解き、退いて行ったと聞いている。」


百雲斎は詳しい状況を知ろうとした。この里の者が知らぬうちに外の世界では大きく動いている・・・それはよくあることだった。


「御屋形様は軍勢を引き連れて、逃げて行った万代勢を追って行かれました。しかしこれが敵の罠。城からおびき寄せるためだったのでございます。我が勢は隘路で挟み撃ちにあい、さんざんに破られました。ほとんど壊滅したと言ってもいいほどに・・・。しかし御屋形様はなんとかその場を逃れ、山嶽の地に向かわれました。もうすぐというところで敵に見つかったのです。敵は大勢で攻めかかってまいりました。我らは必死に戦いましたが、敵に飲み込まれて御屋形様を見失ってしまったのです。」


十兵衛は無念そうに言った。


「では父上が討ち取られたのを見たわけではないのだな?」


葵姫は気を取り直して強い口調で尋ねた。彼女にはまだ希望の光が見えていた。


「はぁ、しかしあの様子からでは・・・」

「いや、父上は生きている。きっと生きてどこかに隠れておられるのじゃ!」


葵姫はそう言って立ち上がった。


「父上を探しに行く!」

「何を言われるのか! 外は危のうございますぞ! 雨も激しいのに敵も攻めてきているかもしれませぬぞ!」

「いや、行く! 私が行かねばならぬのだ!」


百雲斎にはその葵姫の様子は気が動転しているとしか思えなかった。


「姫様。しっかりなされよ! 雨がやめば、こちらから人を出して御屋形様を探しまする。姫様はここでお待ちください。」


百雲斎にそう言われてもやめる気はなかった。彼女は自分が行けば父が助かるような気がしていた。


「必ず父上を連れ帰ってくる!」


葵姫はそのまま大雨の中を飛び出して行った。


「姫様! おやめください!」


百雲斎は叫んだが、葵姫の耳には入らなかった。葵姫はすぐに厩に行き、つないでいる馬にまたがった。


「ハイヤッ!」


と声をかけてそのまま雨の中に出て行った。その勢いに誰も止めることはできなかった。百雲斎も外に出てきて、


「姫様! お戻りを! 外は危のうござる!」


と声をかけたて制止しようとしたが、葵姫は馬を止めなかった。そのまま開いたままの門をくぐって駆けて行ってしまった。


「これはまずい。この雨の中を・・・。誰かおらぬか!」


百雲斎が大声を上げた。その声に屋敷の地侍たちが飛び出してきた。その中には頭の重蔵もいた。


「どうなさいました?」

「姫様がこの雨の中、出て行かれた。御屋形様が戦に敗れてこの地に落ち延びられる途中、山岡実光の裏切りに会って襲われたようだ。行方が分からぬようで姫様が探しに行くと言って出て行ったしまったのじゃ。」

「なんと! そんなことが!」


あまりのことに重蔵は驚きの声を上げた。それは他の地侍も同じだった。


「姫様の身が危ない! 早くお探ししろ! 屋敷に連れ戻すのだ!」


百雲斎は屋敷の地侍たちに命じた。重蔵たちは急いで馬にまたがって、次々と屋敷を出て行った。雨はますます激しく降り続けていた。屋敷では大騒ぎになっていた。葵姫が単身、この激しい雨の中を出て行ったと・・・。それでなくても敵の兵が押し寄せてくるかもしれないというのに。百雲斎は心配で唇をかみながら、降りしきる雨を見ていた。




 葵姫は無我夢中だった。父を探そうと山道を必死に馬を走らせていた。このひどい雨で道を監視する地侍たちはとうに里に引き上げていた。誰もいない暗い道に馬の蹄の音が響き渡っていた。


「父上! 父上!」


葵姫は懸命に呼び続けた。その声は辺りにこだまするも答える者は誰もいない。葵姫はやがて山嶽を越えようとしていた。その先には敵の兵がいるとも知らずに・・・。彼女の身に危機が迫ろうとしていた。

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