第35話 幸信の最期
東堂幸信はわずかな手勢とともに逃げていた。近習の塩野十兵衛以下、馬に乗ったものは数人、後は徒歩である。兜はとうに打ち捨てられ、鎧は傷だらけ、それぞれが手傷を負っており、度重なる斬り合いにすっかり疲れ果てていた。しかし幸信を守ろうとする忠義の心はしっかりと持ち続けていた。自らの命に代えても御屋形様を守ると・・・。
いつの頃からか、雨が降り始め、それは次第に激しくなっていた。馬の足も人の足も泥に足をとられてなかなか前に進めない。幸信は振り返った。戦場からはかなり離れた。敵の追っ手も来ない。ひとまずは逃げ切れたかと少しほっと息をついた。だがこの後のことを考えると頭が痛かった。
引き連れていった軍勢は万代宗長の策略の元に挟み撃ちにされて全滅しているだろう。そして麻山城もわずかな守備隊しか残しておかなかったため、万代の軍勢に攻められて落城しているに違いない。そうなると山嶽に逃げ込むしかなかった。そこに行けば椎谷の里に落ち延びることもできる。
「まだ負けぬ。この命がある限り、必ず復活して麻山城を、いやこの江嶽の国を取り戻す!」
幸信は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。椎谷の里の近くには梟砦もある。そこにわずかだが兵もいる。そして椎谷の里には頼もしい地侍の集団もいる。万代に真っ向から立ち向かえるわけではないが、攻め手をはね返して力を蓄えることもできよう・・・そしてそこには愛する娘である葵姫がいる。彼女に会えば萎えた気力が元に戻ろう・・・幸信は希望を捨ててなかった。
しばらくすると一団の兵に遭遇した。見つからぬように隠れようとしたがその旗印には見覚えがあった。
「あれは確か、実光・・・」
それは国衆の一人、山岡実光の兵だった。実光は先頃まで東堂に味方した数少ない者だった。麻山城の包囲が解かれ、田畑仕事のために自らの領地に帰ったはずだった。幸信の危機に兵を連れて来てくれたというのか・・・。幸信は少ない手勢とともに彼の前に出て行った。
「助けに来てくれたのか。礼を言うぞ。」
幸信は言った。だが実光はニヤニヤしたまま何も言わなかった。それは不遜な態度にも見えた。
「どうした? 実光。」
嫌な予感を覚えた幸信はさらに声をかけた。実光はただ黙って右手を上げた。すると実光の兵たちが動いて幸信やその手勢を包囲した。
「何の真似だ! 実光!」
「ここで首をいただく。それで万代宗長様から恩賞をいただこうというのだ!」
「なに!」
実光は裏切ったのだ。惨敗した幸信を見限り、万代に仕えようとしているのだ。幸信の首を手土産にして。
「それ!」
実光が声をかけるとその兵たちが幸信たちに向かって来た。
「守れ! 御屋形様を守れ!」
敵は多勢に味方は無勢、だが幸信たちは生き延びようと刀や槍を振り回して、すがりつく敵の手を払いのけた。刀や槍が交差し、血が流れ、怒声が飛んだ。その騒々しい音が入り乱れて響き渡り、周囲の山々にこだました。
しばらくの間、幸信主従は必死の抵抗をしたものの、一人また一人と討たれていった。このままでは全滅は必死だった。だがその奮闘のおかげで、敵の包囲にほころびが生じてきた。それを塩野十兵衛が見逃さず、さっと幸信に寄って声をかけた。
「御屋形様! 今です。すぐお逃げください! ここは我らが防ぎます。」
「わかった。しかしお前たちも逃げるのだ。皆、椎谷の里に向かえ! よいな! 後ろを振り返るな!」
幸信はそう言うと馬をざっと走らせた。その後を十兵衛をはじめ、幸信の手勢が続いた。彼らは一目散に駆けて行く・・・。それを見て実光が大声を上げた。
「逃すな! 討ち取れ! 東堂幸信を討ち取れ!」
実光の兵が追っていった。降りしきる大雨の中、幸信たちは必死に馬を走らせた。だがそのためにお互いに姿を見失い、バラバラになってしまった。気が付くと幸信の周りにはもう誰もいなかった。だが止まって探してはいられない。振り返ると、後ろから実光の兵が束になって追いかけてきているのだ。それを見て幸信は焦りながらさらに馬を走らせようとした。だがその時だった。
「ヒヒヒーン!」
馬が急に足元の泥に足をとられてその場に転んだ。それで幸信は泥の中に放り出された。顔を泥に突っ込み、全身泥まみれの哀れな姿になった。それでも何とか逃げようと泥の中を這いずり回っていた。だがその前に馬に乗った実光が立ちはだかっていた。実光は蔑む眼差しで幸信を見ている。それに激高した幸信はすっくと立ちあがって実光を睨み返した。
「おのれ! 実光!」
「無様ですな。御屋形様。」
実光はすっと馬を降りた。そして泥まみれの幸信につかみかかり、その後ろから羽交い絞めにしてそのまま泥の中にうつ伏させた。
「ご覚悟を!」
実光はそう言うと抜いた短刀を幸信の首に当て、一気にそのまま斬り落とした。
「葵・・・」
それが幸信の最期の言葉だった。こうして東堂幸信は討ち取られてしまった。
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