第29話 軍勢退却

 確かに麻山城の戦況は好転していた。攻めあぐねた様子を見て万代に協力していた国衆の軍が次第に引き始めた。田畑の仕事が忙しくなり人手が必要との理由でそれぞれの所領に帰って行ったのだ。それは本当のことでもあるが、不甲斐ない万代に見切りをつけようとした者も少なくなかった。

 万代宗長は本陣にいて、その状況に焦りを感じ始めていた。


「包囲にほころびが生じております。その間隙を縫って近隣の諸国から兵糧や援軍が到着しております。」


 その様な報告が毎日のように上がってきていた。こちらの兵糧は乏しくなり、近くの村々からの収奪ももう難しくなった。士気は下がる一方である。それに引きかえ、麻山城は兵糧を運び入れ、援軍も到着して士気は高まる一方である。


(東堂幸信がこれほどまで諸国の者に慕われていたとは・・・)


 そこは宗長の考えが甘かった。不利な状況になれば東堂に味方する者などないと思っていた。だがそれは違った。東堂の名門の家柄のためなのか、以前に東堂家から助けを受けたためなのか・・・、いや、万代家が大きくなりすぎて諸国が脅威を感じ始めたためだ。


(このままではらちが開かぬ。しかし仕掛けはもう十分だと思うが・・・)


 そう思った時、武藤三郎が前に来ていた。顔に深い傷跡があり、右目には眼帯をしている。


「三郎。いかがした? その傷は。」

「この三郎。不覚を取りました。」

「ほうっ。」


 宗長は意外だという声を上げた。この隙のない忍びの頭に傷を負わせる者がいるとは。だが宗長が今、最も気になっていたのは麻山城攻略のことだった。


「そちが言っていた『頃合い』はもういいのか?」

「はい。こちらが弱っているのはとっくにつかんでおりましょう。山嶽の者たちの目にもそうみえているはず。」


 三郎は不敵な笑みを見せた。それを見て宗長もニヤリと笑った。


「よかろう。重臣どもを集めよ。戦評定を行う!」


 宗長はお付きの侍にそう言い渡した。




 麻山城の高い櫓からは敵の様子がつぶさに見えた。春に比べ兵の数は減ってきているようだが、まだかなり多い。討って出るのはまだ勝算が立たない。だがその日、万代の陣に動きがあった。城から離れて退却しているのだ。城からの追撃を受けぬように、その兵たちの慌てぶりは無様であった。


「敵が退いておるわ!」


 その光景を見て東堂幸信は手を打って喜んだ。これで麻山城の危機が過ぎ去ったと。


「これで戦は終わりじゃ。者どもご苦労であった。皆の働き、この幸信、忘れぬぞ。よくやってくれた。」


 幸信は周りの者をねぎらい、ともに戦った者たちに礼を言った。そして遠くに落ち延びさせた葵姫のことも気になっていた。


「このことを葵にも知らせねば。心配しておろう。もう少ししたら迎えに行くとな。」


 椎谷の里にも使者を出した。葵姫が戻ってきたら再び平穏な毎日が送れると・・・。

 城内はまるで戦がなくなり平和がもたらされたかのように皆の気分は緩んでいた。だが重臣な中にはこれで満足しないものが少なからずいた。


「これこそ好機! 待っている甲斐がありましたぞ! 追い打ちを掛けましょうぞ!」


 確かに背を向けた敵を討つのは容易い。ここで徹底的に叩いてしまわねば、また万代宗長が態勢を立て直して攻めてくるかもしれない。その声は次第に大きくなり、やがて主流の意見となった。老臣の中には、


「それは危のうござる。罠かもしれぬ。あの万代宗長がただ退却していくとは思えぬ。」


 と意見する者があったが、その声は消されていった。幸信自身はこれ以上の戦を望まなかったが、重臣の多くに押し切られた形で兵を出すことになった。

 追撃に集められた兵は士気が高い。今まで苦しめられてきた万代の軍勢に一太刀浴びせねば気が済まないという者たちばかりである。それに対して退却していく万代の兵の歩みは遅い。物見の兵の報告では、あれからもうかなり日が経っているのにぐずぐずして、まだこちらの領内にいる。しかも逃亡した兵が多いのか、軍勢の兵の数はかなり少なくなっていた。ほぼ宗長直属の兵しか残っていないようであった。


「今度こそ勝てる! 万代宗長の首を取るのだ!」


 幸信はそう確信していた。城から続々と東堂の軍勢が出立していった。この日は遠くに見える五条山が、空に張りつめた雲によってその姿を隠していた。

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