第2章 夏

第14話 里の散策

 季節は初夏になっていた。椎谷の里は草木が生い茂り、新緑で包まれていた。一面に広がる田にも、日の光を受けて稲がよく伸びて青々としていた。葵姫は屋敷の庭だけではなく、外にも出るようになった。もちろん傍らにはいつも紅之介が控えていた。

 歩きながら葵姫は麻山城にいたころの話をよくした。彼女にとってそれは懐かしく、美しい思い出であった。紅之介はそれをずっと聞き役に回っていた。

 ところが今日は葵姫の方から聞いてきた。


「そう言えば私は紅之介のことは何も知らなかったな。」

「私のことなどよろしゅうございます。姫様のお話をお続けください。」


 紅之介はそう言った。身分の低い自分のことなど姫様がお知りになることはないと思いながら。それに知られたくないこともあった。


「それでもお前のことが聞きたい。」

「私のことなど、つまらぬことでございます。」

「いや、それでも聞きたいのじゃ。父母はどうしておる?」


 葵姫のその問いに紅之介は一瞬、体を止め、そして答えた。


「2人とも3年前に亡くなりました。」

「すまなかった。いらぬことを聞いて・・・寂しかったであろう。」


 葵姫はすまなそうに目を伏せた。


「いえ、頭領様に屋敷に住まわせていただいているので寂しくはありません。つらいことは忘れて捨て去っております。」


 紅之介はそう言った。確かに紅之介があることのために大事なものを捨て去ったのは事実だった。


「そうか。紅之介は強いな。私などはこの里に来たときは寂しくて仕方がなかった。だがもう寂しくはないぞ。こうして紅之介がそばにいてくれるのだからな。」

「恐れ入ります。」


 紅之介はその言葉に対してあっさりと返した。しかし心中はうれしさがこみ上げていた。



 葵姫は椎谷の里に骨を埋める覚悟をしたのかもしれない。この里をよく知るため、家々や田畑などあちこちを巡った。そこには里の者の日々の暮らしがあった。以前は、彼女は里やそこに暮らす者に無関心であった。だが今は里の者に心を開こうと、彼らに声をかけるようになっていた。


「どうじゃ。出来は?」

「ここの田はよくできておるな。」


 一方、里の者にとって葵姫は雲の上の人であり、恐れ多くて容易く話すことはできなかった。だがそのうちに里の者もそんな葵姫に打ち解けて、いろんな話をするようになった。家のこと、この土地のこと、言い伝えなど・・・それを葵姫は面白そうに聞いていた。今日も田んぼで草取りをしている与作に会った。


「精が出るな。」

「へい。今年は稲も育つが、草が伸びるのも早いもんで。」

「ところでトメはどうしておる。足をくじいたと聞いたが。」

「おかげさまですっかり良くなりました。」

「それはよかった。」


 葵姫は里の者すべてと顔見知りになり、里のことをよく知るようになった。里の者も葵姫と接して言葉を交わすうち、彼女に親しみを抱くようになっていた。葵姫と里の者の間に絆ができつつあった。


 里になじんでいく葵姫を見て、紅之介はうれしく思っていた。椎谷の里に来た時のひ弱さは消え、今の葵姫は若さと元気にあふれていた。高貴な姫様としてはどうなのかわからないが、紅之介にとって葵姫はより美しく魅力的に見えた。


「この里にも神社があるらしいな。権兵衛が言っていたが。」

「左様でございます。嶽明神社でございます。かつては山を通る者の安全を守るとかで信仰されていましたが。今では願い事があれば里の者がよくお参りいたします。」

「そうか。行ってみたいのう。」

「ですが向こうの山の上にあり、道が遠く険しいようでございます。」

「何とかならぬか。父上の武運をお祈りしたいのだが・・・」


 紅之介もその神社行ったことがあるが、そこへの道は女人には厳しい。特に姫様となると・・・。


「のう、馬はどうじゃ?」

「馬でございますか。それなら登れるかと思います。しかし馬に姫様を乗せて私が綱を引くとなると、かなり時がかかると思いますが・・・」

「いや、馬で駆けて行くのじゃ。大きな馬があれば2人で乗れよう。それならよいであろう。」


 その言葉に紅之介は驚いた。姫様と自分がいっしょに馬に乗って駆けて行くなど思いもよらなかった。だがそれはさすがに紅之介には恐れ多いことだった。


「それは私には・・・。」


 紅之介は言葉を濁したが、葵姫はもうそう決めたようだった。


「なに。大丈夫じゃ。幼き頃はたまに父上とともに乗って遠駆けをしていたものじゃ。紅之介は馬に乗るのも上手であろう。」

「それはそうでございますが・・・」


 そう言われると紅之介は無下に断れなかった。

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