18.神戸のレストランで

 四月初旬。阪神・瀬戸内地方は、こんなに暖かいのかと葉子は驚いている。


「いらっしゃい、葉子さん。待っていたよ。元気かな」


 蒼と一緒に神戸に到着したその日の夜、葉子は矢嶋社長のレストランへと訪れた。


 グランメゾン的なレストランの大きさに、葉子は怖じ気づく。

 そんな葉子のそばにそっと、蒼が並んで寄り添ってくれた。


 矢嶋社長が直々に案内をしているとあって、まわりのスタッフもあれこれ気遣ってくれる。

 それに、どのスタッフも簡単な手話を覚えてくれていて、葉子に問う時も手話を、葉子が返した手話もきちんと通じる。教育が行き届いていて、やはり仕草も佇まいも、誰もが一流だった。


 向かいに座っている蒼には、かわらずにスマートフォンのメッセージで話しかける。


『ここで、秀星さんも、蒼さんも、メートル・ドテルやっていたんだね。すごい!』

「そうだろ、そだろ。俺ってば凄いってやっとわかってくれた。惚れ直したでしょう」

『直した、直した。スーツもかっこいい』

「いやー、……俺は、今日の葉子ちゃんがあんまりにも大人っぽくて素敵なんで、もう、くらくらしてんの、どうしてくれるんだよぅ」


 自分が凜々しくシビアに勤めてきた職場だというのに、全然関係なく、ダラシーノモードになっているので、また葉子は笑っていた。


 あ、これ。葉子の緊張を解くためだな――と、やっと気がつく。


「ほんとに。黒のドレス、似合ってるよ」


 今度は大人の眼差しで言われ、ここでやっと葉子は頬が熱くなり目をそらしてしまった。

 今夜も初めて、頑張って、大人の女に見てもらいたくて、ノーブルでも背伸びをしたドレスを選んできたのに。


 秀星に出会った時は、まだ二十三歳だった。

 こんなドレスなんて着る機会もなければ、余裕もなかった。

 男性と食事に行こうなんて考えたこともない。ましてや……、一緒に旅行しようだなんて。

 この三年。働いて、セルヴーズの修行をして、唄って、秀星さんのことしか見えなくて。ドレスなんて……。恋なんて……。秀星さんがいればそれだけで、あたたかな日々だったから、気にもしなかった。


「葉子ちゃん、お酒弱いだろ。アペリティフは、ちょっと軽めのあまーいの頼んでおくな。カシス系、シトラス系、ピーチ系もあるけど、どれがいいかな」

『カシス』

「了解」


 ワインリストを眺めていると、ギャルソンがオーダー伺いにやってきてくれる。


「彼女に、キールロワイヤルを。クラッシュしたラズベリーを入れてもらえるかな」

「かしこまりました」


 蒼より若いギャルソンが、そこで少し口角をくっと上げてぎゅっと笑いを堪えているように葉子には見えた。元部下だろう彼の様子に、蒼もすぐに気がついた。


「ちょっと。浜田君、矢嶋社長に言っちゃうよ。俺がかっこつけてるのが面白くて、笑いが堪えられなかったってさー」

「申し訳ありませんでした」


『だって。ほんとに、かっこつけてるよね』


 葉子からのメッセージを見た蒼が、すぐさま『なんだと!? ちょっとおかんむり!!』というメッセージを送ってきた。それを彼の後輩に画面が見えてしまったようで、もう吹き出したいのか、さっとテーブルから離れていった。


『蒼さんが、このお店でもダラシーノだったってことがよくわかるね。笑わせてあげてよ。知り合いなんだから』

「お言葉ですが。十和田さん。プロなら知り合い来ても笑っちゃダメよ」

『ダラシーノは笑わせてなんぼの男でしょ』

「はぁ~、いいますねえ。最近の十和田さんってば」

『さっきのアペリティフ。おいしそう! やっぱり、かっこつけた男に甘えるのがいちばんだね!!』

「ほーら。ちゃっかりしてるんだからなあ」


 いつの間にか緊張も解け、いつものハコとダラシーノになって楽しんでいる。


 父とは違う趣のスタイリッシュな料理が続いて出てきて、葉子は蒼と笑いながら食事を進めていた。

 そのうちに遠くのテーブルで、クレープフランベをしているメートル・ドテルの男性を見つける。


 葉子はその男性の背中に、秀星と蒼を重ねる。


 このハイクラスのフレンチレストランで、あのように。なにもかも洗練された佇まいで仕事をする男の背中――。


 ひさしぶりに、ちょっぴり涙が出てきて、赤ワインのグラスを傾ける。


「な、かっこいいだろ。俺も散々憧れたよ。とくに秀星先輩はすぐ目の前にいる目標だったからムキになってね」


 葉子がなにを見て目を濡らしているのか、蒼はもうお見通しだった。


『うん、かっこいい。やっぱり好き』


 蒼が納得できないように、赤ワインを飲みながら首を傾げている。


「え、メートル・ドテルが? 秀星先輩が? 俺が??」

『メートル・ドテルに決まってるじゃん!』


 彼がわざととぼけて聞いてきことは葉子にもわかっているから、どちらの男性と決めずに切り返した。

 でも、その後に一時、じっと黙り込んだ間があった。

 葉子もうつむく。ふたりでふざけるものの、そこをどうするのか。それを決める旅行でもあるのだろうなと思っている。

 蒼も。踏み込むか踏み込まないか、まだ躊躇っているのだ。


---☆


 食事が終わると、社長室へと来るようにと案内された。


「葉子さんの楽しそうな笑顔が見られて安心したよ。お料理はどうでしたか」


 手話で『とっても、おいしかったです。そして、勉強になりました』と伝えると、矢嶋社長も学んでくれていたのか、『良かった』と手話で返してくれる。


「篠田。厨房に行って、なにか飲み物を。あ、もうお腹いっぱいかな」

『では。冷たいお茶を』

 社長は簡単な手話しかわからないようで、蒼になにを彼女が伝えたのかという視線を向けている。

 蒼がすぐに答えてくれる。

「わかった。冷たいものだね。社長はいかがいたしますか」

「珈琲をお願いするよ」

「かしこまりました」


 元々の職場。蒼は慣れた様子で社長室を出て、厨房へ向かった。


 立派な社長室の応接ソファーで、社長とふたりきり、向き合う形になっていた。

 これは、蒼はわざと外されたと葉子は悟った。


「声、戻らないんだね。もどかしいね」


 葉子もこっくりと頷く。


「秀星の写真集の編集。お疲れ様でした。ほんとうに、よく頑張りましたね。誰も知らなかった秀星の写真をあそこまで――。元雇い主だった者としても、嬉しく思っているよ。発売が楽しみです。私もサポートしていきますからね」


 ありがとうございますと手話で示して、葉子も頭を下げた。


「お元気そうで良かった。私の店まで来てくれて、ほんとうに嬉しいよ。きっとこれからも、あなたはフレンチの世界で生きていくでしょうから、秀星が働いていたここを、一度は見てもらいたかったからね」


 私も来られて嬉しいです――と、今度は持っているメモ帳で筆談をする。

 笑顔で答えたのに。その目の前で、急に、矢嶋社長が目元を覆って唸り始めた。泣いている?


「……なんで。唄が好きな貴女から声を奪うなんて。どうしてこんなことばかり……」


 そんな社長さんに、葉子はおこがましい思いを抱きながらも、メモ帳にその言葉を記した。


『エゴを押し通したからです。秀星さんとおなじです』


 その文面を見た社長が、非常に驚いた顔に固まっている。


「秀星は命を、貴女は声を? それでもうあなたは満足なのですか。唄は――」


 葉子は一生懸命に、メモ帳に文章を綴る。


『満足です。もう声が出なくても。唄えなくても。秀星さんは、私にたくさんのことを遺してくれました。矢嶋社長も、そのうちのひとつ。ご縁があって良かったです。これからも父の店ともども、よろしくお願いいたします』


 いつも厳格な佇まいを崩さないその人が、まるで父親が泣いた時のような顔に崩れていた。


 どうしよう。今度はなんて言えばいいのかな。

 戸惑っていると、そこに蒼がトレイに飲み物を乗せて戻って来た。


「え、え。なに……、どうされちゃったの、かな?」


 彼女は困惑顔で、社長は泣き顔だしで、今度は蒼が戸惑っている。

 頼まれたお茶を持って戻って来たら、社長さんが涙に濡れているので蒼が驚いている。


「もう、困ったね。アルパチさんには。ハコちゃんには、お父さんみたいになっちゃうんだから」

「うるさい。もうアルパチはバレたから、他の名前を使ってる」


 葉子も、蒼も『ええ!?』と一緒に驚く。


『ええ!? そうなんですか!? またリクエストしてくださっているんですか!?』


 その文面を見た社長が、葉子から目を逸らした。


「もう、社長ったら。ちゃんとご自分でお名前を考えられたってことなんですね」


「今度はリクエスト拾ってくれても、ハコちゃんには、ありがとうと言わないことに決めているんだ。でも、楽しみにしているんだ。あ、唄だけじゃなく。というか、篠田、おまえ、ほんっとに声でかいな。うるさい。それからな。もっとフレンチの紹介コーナーも増やしてくれよ。けっこう評判いいじゃないか。ハコパパシェフコーナーとか、ちょっと羨ましいぞ」


 そうなのだ。葉子が唄えない穴を埋めるためのダラシーノ企画コーナーで、ついに父が登場してしまったのだ。


『なんと! ハコちゃんパパが登場です! 当店のシェフでございますよ! でも顔出しNGで、手元だけの撮影、そしてインタビューです!』

よう、じゃなくて、ハコがお世話になっております。父親のハコパパです』


 父が父親と言いながらハコパパとぎこちなく自己紹介した時も、コメント欄が大賑わいだった。葉子もびっくりしながらも、母と笑って視聴していた。


『本日のお料理でーす。シェフは地元の食材を活かすというポリシーを持っています。このあたりの牧場、農場、果樹園、酪農家、養鶏所、漁港などなど、こまめに訪問して生産者とのネットワークも構築しているんです。その素材探しには、北星もよく同行していたとのことで、おふたりでおでかけしていたんですよね』

『そうです。そうすることで、北星は生産者の心もお客様に届ける、料理に素材に敬意を払うというものを大事にしていたね。食材探しのドライブでは、彼も必ずカメラを持って、あちこちの風景を撮影していたよ。その一部も写真集には掲載されるので、見てください』


 父の一皿が美しく仕上がっていく動画の再生数も思った以上に記録してくれた。



*写真集を買う前に、どのような思いがあって、北星さんが写真活動をしていたか、また、特別縁故者になったお父さんが北星さんとどのような暮らしをされていたのかわかって良かったです――


 そんなコメントも見られた。


 矢嶋社長もそれを閲覧されていたようで『あー、うちもなにか、店独自の動画チャンネルを開設しようかな!!』と、最近は営業部に企画をさせているらしい。


「では、葉子さん。お気を付けて。またいらしてくださいね。私もまた大沼に伺います。フレンチ十和田のファンですから、楽しみにしています」


『お待ちしております』


 手話付きのお辞儀をして、初めての神戸のレストランを後にする。


「篠田は明日の会議に出てくるように」

「はい。それでは、また明日。失礼いたします」


 社長室を出て行く時の彼等のやりとりに、葉子の心が硬くなる。

 明日、決まっちゃうのかな。蒼が大沼から神戸に帰るのか、継続するのか。葉子に新しい指導役が来るのかもしれない。

 きっと矢嶋社長もわかっている。篠田と葉子は距離が近づきすぎた。男と女の匂いを感じ取っていることだろう。それでは仕事にはならないと、シビアな社長なら判断しそうだと葉子は思っている。




 港町・神戸の夜をふたりで歩く。

 声が出ない葉子と歩くとき、蒼は常に肩を抱いて離れないようにしてくれている。


「明日はいよいよ小豆島だな。は~、たのしみっ」


 歩きスマホは出来ないので、葉子は微笑みと手話で『私も・たのしみ』と返した。


「えーっと。いまのうちに告げておきます。神戸では別室予約が出来たんですが、小豆島は一部屋しか取れませんでした……ごめん。ちいさな宿だから数部屋しかなくて。でも、あのシェフの宿に連れて行くこと譲れなくて――」


『いいよって言ったじゃん』という意味の手話を返した。


「な、なんもしないし!」

『難しく考えないで』


 葉子はここで思い切って――。


『あなたが、好き』


 手話で伝えてみた。


 彼が立ち止まる。片方だけ抱き寄せていた肩を、今度は両肩、抱いてくれる。いつの間にか、彼の腕の中、胸に抱きしめられている。


「俺もだよ。知らないだろ。神戸にいるときからずっとだ」


 会う前から? 驚いて……、葉子は彼の胸の中からそっと見上げた。


「頑張っている葉子を、ずっと見ていた。元気をもらっていた。葉子は、先輩が俺に遺してくれた『応援』で『頑張っていく希望』だった」


 涙が出てきた。


おなじだよ。あなたは、秀星さんが遺してくれた大事な人


 手話で。伝わったかな?

 蒼がただただ抱きしめているだけになったので、葉子には確信ができなかった。


 あの人が撮ったルミナリエの街で。

 あの人が繋いでくれた人といるよ――。

 もうすぐ、わたしたち、離れてしまうかもしれないけれど。


 大丈夫、だよね?


(本日も1話のみ更新です)

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