11.ハコの給仕
その日も先生の予約があり来店予定。
夕方遅く、ディナータイムが始まる時に、安積先生が友人と一緒にやってきた。いつも違う人を連れてくるので、インドア派でも交友関係が広かったことを知る。
「久しぶりですね。葉子さん」
「いらっしゃいませ。矢嶋社長」
同時にその日は、夕方になって神戸から到着した矢嶋社長もテーブルについていた。
これはいつも来られたらすることで、父のフルコースのチェックをするための食事だった。素材の選び方、創造性センス、コストのバランスを確認していく。そしてホールのサービスもチェックされる。
だがこの日の矢嶋社長はお客様の邪魔にならないようにひっそりと気配を殺しているが、目ではメートル・ドテルの篠田を追っていた。
安積先生の予約で蒼がテーブルにつく時間が長いことを気にしている。
きっと責任者である父からも聞かされているのだろう。
矢嶋社長のテーブルにも蒼はつくが、いつも堂々としている余裕が少しなくなり、表情が硬くなることもよくあった。
そして今夜は、葉子が社長につくことが多くなってしまう。
ゆったりと湖畔のフレンチディナーが進んでいく。
外は牡丹雪が静かに舞い降りてきて、社長はそれを見てご満悦だった。
「不思議だよね。牡丹雪を見ると日本酒が欲しくなるんだよ」
「お持ちいたしましょうか。ポワソンと合うと思います。北海道の地酒もおすすめです」
葉子の声かけに、矢嶋社長が嬉しそうに微笑んでくれる。
「いいですね。そのような勧め方。よろしいと思います。では、お言葉に甘えていただいてみようかな」
「かしこまりました」
まだ選ぶ力がないので、このような時は父かソムリエを兼任しているメートル・ドテルの篠田に聞くようにしている。
篠田が安積先生のテーブルから離れられないので、葉子は厨房で調理に集中している父のもとへ出向く。
「シェフ。矢嶋様が雪を見ながら日本酒を飲みたくなると仰るのでおすすめしました。いまから出るポワソンに合う銘柄を教えてください」
ディナー中の厨房は、ホールのゆったりした優雅さとは反して、様々な指示が飛び交い、矢継ぎ早のチェックが行き交う戦場だ。
そんな中、皿に盛り付けをしている父がちらりと葉子を見て呟く。
「篠田はどうした」
「接客中です」
父がチッと舌打ちをした。どうしてそうなっているのかわかっているようだった。
しばらく黙っていた父が、
「葉子ちゃん」
地下のカーブだからなのかそんな呼ばれ方、蝶ネクタイ姿の蒼が階段を降りて追いかけて来てくれた。
「矢嶋様に日本酒をおすすめしました。シェフがこれを」
「いい勧め方してくれたね」
父がなんの銘柄を選んだのか、蒼も確認をしにきたようだった。
「安積様のテーブルは……」
「神楽君に代わってもらっている。葉子ちゃんは今日は接触しないほうがいい」
プライベートとはいえ、ここの従業員と関わって起きていることなので、仕事だから平気な顔でいつもどおりにこなす――とはならない。これもサービスの判断で、余計な接触をしない方針が採られ、葉子はあちらのテーブルの給仕からは外されることになっていた。
「では、これを厨房に持っていて準備してもらって」
「はい。給仕長」
飲食のための準備は厨房の仕事なので、葉子もいそいでカーブから上がる。
準備が整い、ポワソンの皿に間に合いホッとする。
矢嶋社長のテーブルへと、篠田とともに給仕につく。
「篠田。あちらのテーブルと、あちらのテーブル。提供時間が遅い。時間がかかるテーブルでの接客は、うまく切り上げろ。ついでに、私のテーブルへの提供も遅い。私はレストラン関係者だから後回しで良いなどとは思っていない。厨房の料理のいちばん良い時を逃すな。厨房の一皿に込めた誠意を無駄にするな」
「かしこまりました。申し訳ありません」
いつも優しくダンディな笑顔の矢嶋社長。お店のチェックをするときは、鋭い目線を見せつつも、静かに観察するのが矢嶋社長の経営者としての姿だった。なのに、初めて聞いた険しい声色。そんな社長に触れた葉子もひやっとする。特に蒼にとってはいまも雇い主でもあるので、緊張を募らせ強ばった表情を一瞬だけみせた。
それからの蒼のホールへのサービス配分指示のバランスは戻ったが、逆に安積先生が不満そうにしている。遠目に見ている葉子にもありありと伝わってくる。
いまあのテーブルには、葉子抜きで給仕をしているので、ほか二名の若いギャルソンと蒼だけで回し、なおかつ、ほかのお客様のテーブルにも同様につかなければならない。
矢嶋社長に呼ばれたので、葉子はそちらへ伺う。
「雪見の日本酒と北海の素材を活かしたポワソン。おいしかったよ。そして良い気持ちでいただきました。ありがとう。葉子さん」
矢嶋社長ほどの男性からのお褒めの言葉に、鬱屈して淀んでいた心の澱がなくなって、澄んでいくようだった。
「まだまだ未熟ですが嬉しいです。ありがとうございます」
「そうだね。自分で銘柄を選べるようになるといいね」
「勉強いたします」
「楽しみですね。お父さんシェフの料理と娘さんのドリンクセレクトの疎通が取れるようになると、またお客様にとって、メリットのあるお店となるだろうね」
そうなりたいと葉子は思ってしまった。そして新しい目標でもあった。
「最近は、クレープフランベを頑張っているそうだね。今日もあちらのお客様がクレープシュゼットをご予約されているなら、準備は整っているよね。私も、葉子さんに作ってもらおうかな」
「……わたくしが、ですか」
「どれぐらい出来るようになったのか、見せてください」
いきなりのテストをされることになって葉子は焦る。
もちろん、真剣に篠田給仕長に指導してもらってきたのだから、上達はしているのだ。でもまだ、どこかで。『どうせ私が接客でやれるようになるのはずっと先。だって篠田給仕長がいるんだもの』と高をくくっていたのだ。
これも今回の出来事の功名か。安積先生の予約が頻繁に入るようになったので、他のお客様と被らないよう、クレープフランベのワゴン一式、予備として父がもうワンセット増やしていた。
同じように食事を進めていた先生のテーブルでは、すでに蒼がクレープフランベの提供を始めていた。
いつものように仲良しの女性同士で喜ぶ声が聞こえてくる。
ほかのお客様も、蒼の優雅なフランベに魅入っている。
そして葉子も、矢嶋社長の目の前で、初めてひとりで提供を行う。
教えてもらったとおりに。いまできるだけのことを、怖じ気づかずに堂々と――。丸く薄いクレープはすでにパティシエ側で準備してくれワゴン上で待機している。それをフランベするのが給仕の腕の見せ所。特に気をつけるのは最初のシュガーのキャラメリゼ。
矢嶋社長の視線が徐々に鋭く冷たくなって、葉子の手元だけに固定されている。
なんとか白い皿にクレープをのせて、季節のカットフルーツと盛り付けお届けが終わる。
「いただきます」
初めて、お店で食べていただく緊張の瞬間。矢嶋社長の表情はまったく変わらないまま。
「まだまだですね。カラメリゼ。苦みがあります。フランベも活かされていません。リキュールの風味が調和されていません」
わかっていたけれど。未熟さを突きつけられた。
「篠田もそうでしたよ。頑張ってください。また次回、いただきます」
「ありがとうございました」
「秀星が提供するものは、また特に一品でしたね。まさに……。フレンチとして惜しい人材をなくしたと思っています。口惜しい。写真に勝てなかった」
あの社長がその時になって、表情を崩した。また込み上げるものがあったのか、ぐっと堪えるように、そばにあるゴブレットの水をひとくち含んだ。
「私も食べてみたかったです。桐生給仕長のクレープフランベで」
もう叶わぬことだった。知っていれば、秀星さん教えてとねだれたかもしれない。見せてくれたかもしれない。
『いいよ。ハコちゃん。でも、もっとちゃんと給仕ができるようになったら、ハコちゃんがやるんだよ』
久しぶりにに、あの人が生きているような声が聞こえてきてしまった。
それは社長も同じなのか、じっと黙ってクレープを食べている。
最後の珈琲も終わって、本日予約のどのテーブルも終わろうとしている。
矢嶋社長は珈琲をおかわりして、時間が過ぎるのを待とうとしている。
そのおかわりを葉子がテーブルにお届けした時、そこに安積先生がやってきたのでぎょっとした。
だが先生は葉子には目にくれず、あろうことか矢嶋社長に話しかける。
「そちら様もクレープフランベをご予約だったのですね」
「……はい、そうですね」
「あちらのメートル・ドテルさんにしていただいたほうが美味しく食べられたと思いますよ。こちらのテーブルでいただいてしまって、申し訳ありませんでした」
こんな新人にしてもらうような状況にしてしまってごめんなさい――と、もうひとりのお客様に申し訳ないことをしたとわざわざ言いに来たのだ。
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