3.シェフの娘『ハコ』


 初対面の日。案の定、彼女『葉子』は初日から浮かぬ暗い顔をしている。

 こんな田舎に仕方なく帰ってきたんだ、父が言うからひとまずここで働くだけなんだという顔。


 白シャツに黒いベスト、黒のスラックス、そして、黒くて長いエプロン『ダブリエ』を身につけた彼女と、開店前のホールで向き合う。


 まだ安定しない春先の天候で、その日は彼女の心情を映すかのように曇天の日だった。

 重く垂れ込める雨が降りそうな黒っぽい雲が駒ヶ岳を隠し、湖面には白波が立っていた。


 どんよりとした大沼を背に、彼女は俯き加減に目線を落としている。

 秀星は、やる気のなさそうな彼女を初めて呼ぶ。


「えー、シェフのお嬢様ですね。ハコさんですか」


 彼女がぎょっとした顔になった。

 普通『ようこ』と読めるだろという顔だった。


「葉っぱの子で、ヨウコです」

「あ、そうだよね、そう読むよね。申し訳ない」


 彼女が秀星の目を見た最初の時だった。

 こっちの世界に踏み込ませ、ここで一緒に働く男がいることをわからせた瞬間。


 履歴書も綺麗な字できちんと書かれている。

 仕事も指示をしたことはきちんとできる。アルバイトでしっかり社会経験をしてきたこともわかる。


 それでも、だった。


「十和田さん、ちょっといいかな」


 なんとなくその時間をやりこなしている彼女を、閉店後の給仕長室へと呼んだのは、彼女が働き始めて二ヶ月経ったころだった。

 そつなく仕事をしているようで、時たまやる気のなさを垣間見せ、あぶなかしい動きをすることがあった。再々細かく注意をしたが、彼女葉子は『いちいち細かいこと威圧的に言うオジサンだな』という空気を醸し出していた。その結果、お客様に迷惑をかけそうになる一歩手前の失態を犯した。


 それでもだ。すべては給仕長である己の責任とわかりつつも、ここで心を鬼にせねばならないと、秀星は決意する。


 十和田シェフにキャリアを認めてもらえ与えてくれた秀星専用の仕事部屋、『給仕長室』。そこに、葉子を呼びつける。

 窓辺には白樺の木立がそばにあり、隙間の向こうには駒ヶ岳と大沼が見える。


「なんでしょうか……給仕長」


 白樺と大沼が見える窓辺に向かっていた秀星は振り返り、その景色を背に葉子に向き合う。

 自覚があるのか。いつにない秀星の険しい視線に怯えている。

 怒りはない。いつかこのようなことを『言わねばならない』と覚悟はしていた。だが、本当は言わずに済めば良かったと思いながら、秀星は静かに口を開く。


「とにかく姿勢が悪いです。立っている姿勢もそうですし、心構えもです」


 彼女はなにも言わなかった。でも心では『やりたい仕事じゃない』と納得していないのは、秀星の眼から見ても明らかだった。


「いつかライブ会場のステージに立っておもいっきり唄いたいのでしょう。その時、お客様に向かってどう唄いたいのか、いまここで説明してください」


 また彼女が眼を見開いて、秀星を見上げた。

 もう二十も越えた大人だろうが、秀星から見ればまだまだ幼さが見え隠れしている女の子だった。


「……来てくださった、お客様に、喜んで帰っていただきたいです……」


 その言い方で、彼女が既に秀星が言いたい核心を捉えていると確認する。もうそれが説明なしに見つけた答えなら、この子はこの先、きちんと生きていける子だと秀星も確信できる。でも、それには『生きていくためには心構えと術が必要だ』と心から欲せねばならない。彼女はまだその段階にきていない。


「わかっていただけましたか。ここは、これまで何十年と修行をしてきた貴女の、お父様の、大事なライブ会場です。貴女がステージで唄う時も、一人きりではできません。貴女を素敵に見せるためのスタッフが何人もいるはずなのです。いまここが『生きていくしかない場所と時間』だとしたら、いまの貴女はステージを支えるスタッフしかやれることはありません。プロになりたいなら『プロ』に敬意を払ってください。『プロ』の仕事に対価をくださるお客様にもです。それが出来ねば、貴女が思う『プロ』にはなれません。いますぐここを辞めてください」


「も、申しわけ、ありませんでした」

「ひとつの仕事を軽んじる者は、夢など叶えられませんよ」

「はい、承知いたしました……」


 泣かせてしまった。

 でも、父親である十和田シェフが同じことを言っても、彼女には響かなかったと秀星は思う。

 この後、十和田シェフにも『やる気がない娘を任せてすまない。辛い役をさせてしまって』と頭を下げられてしまった。貴方の娘でなくとも同じことを言うし、いままでも部下の教育でしてきたことだと伝えた。


 それから彼女の姿勢が変わった。立ち姿も、心構えも、笑顔も、よくなった。




 やる気を見せ始めた葉子は、どんどん給仕の仕事を覚えていった。

 夏が始まる少し前に、秀星は彼女にホールでのサーブ業務をしてもらうための教育に乗り出す。

 その時に、若い女の子が安価で手に入れるような靴を履いていることに気がつき、彼女への投資だと言って、秀星は履きやすい革靴を買ってあげた。


 その時に一緒に食事をしたせいか、彼女の態度が少し軟化したように思えた。


 別に反抗的だったことなどはなく、『この給仕長、仕事のことになると厳しいことを言うから、怖くてイヤ』という気持ちで、避けられていることは秀星にもわかっていた。

 若い女性に『イヤな上司』と思われることぐらい、まあ、給仕長をしていればあって当たり前のことさ――と秀星も深く考えないようにしていた。

 それが革靴を買って一緒にランチをしてから、彼女が上司としての敬意を見せてくれるようになったというか。秀星も奇妙な心持ちになっている。いままで若い男性も女性も教育してきたが、職場での飲み会以外、若い女性同僚とふたりきりになったことなどなかったものだから、秀星にとっても不思議な感触を覚えたものだった。




「お写真、見せてください」


 彼女が小さな仕事部屋に用事で訪れた時に、そう声をかけてくれた。

 秀星のデスクには、いつもカメラが置いてある。出勤するとき、必ず持ってきている。

 彼女も、秀星が写真を撮り続けていることを、もう知っていた。

 父親から幾分か、秀星のいままでのことや、生き方を聞いたのだろう。


「いいよ」


 デスクの引き出しにしまっている現像済みの写真ファイルの冊子を彼女に手渡す。

 デスクのそばに、小さな椅子をおいてあげると、彼女が向き合うようにそこに座った。


 そこには神戸のルミナリエがあった。


「これが、神戸の。綺麗、素敵……」


 そう言われると嬉しい秀星だったが、ルミナリエは秀星の中では追悼を意味する哀しげな輝きなのだ。

 若い彼女にはただ綺麗に美しく見えるだけで充分……。

 写真を撮ることに関してはエゴを押し通してきた。でも写真の意味を人に押しつけようとは思ってない。


 写真で我が儘を押し通す分、仕事は使命を持って果たしてきた。『社会に貢献する、人のためになることをする』。仕事はそうして対価を得るからだ。写真は我が儘にやってきたい。そのためにもやはり仕事は必要だった。


 写真はエゴ。だから対価が生まれないのだろう。

 それでも秀星はこれを貫いていく。これからも。

 若い彼女には、わからないだろう――。

 それに彼女には、こんなふうになって欲しくないと秀星は思ってしまった。


 それでも、きっと。彼女が思い描く夢は、誰もが掴めるものではないのだ。いつか彼女もその現実を目の当たりにして、飲み込みながら生きていく日がやってくる。

 若くてまだ諦めがつかないころの、自分の生き方をかみ砕けるようになるまでの苦悩。『エゴ』で生きていくことになる、いつか……。


 その時に、夢だけじゃない『生き方』は持っていてほしいと思う。

 秀星にはそれが『ギャルソン』であって、その結果が『メートル・ドテル』だった。


 一冊見終わった彼女が、秀星に冊子を返しながら呟いた。


「ずっと写真をしてきたんですか」

「うん。辞めようと思ったことはないな。いまでも諦めていないよ」

「……どうしてですか」

「撮っているときが、楽しいから。あるいは、心が満たされるから。ハコちゃんもそうでしょう。唄っている時がいちばん楽しいでしょ。それと一緒」

「プロを目指しているんですか」

「まあ、そうなるには歳を取りすぎたかな。でもチャレンジはしているんだ。コンテストとかね。あ、それから、北海道に来てからこれを始めてみたんだ」


 デスクの上にあるスマートフォンの画面を開き、彼女にそのアプリを見せた。


 SNSのアカウント、そこに投稿した写真が並んでいた。

 しかしフォロワーは一桁、フォローも二桁。投稿している写真には、いいねがひとつ、ふたつついているだけ。


 だからなのか、葉子が固まっている。また反応に困っているようだった。


「少ない『いいね』のうちの、ひとつは、まえのレストランで一緒に働いていた後輩なんだ」

「あ、いつもメッセージを送って楽しそうにしている方ですよね」

「そう。『ライカおじさん』ってハコちゃんに言われた時に、『その通りでは』と冷たく切り返してきたヤツね」


 その時のことを思い出して、秀星はついクスクスとした笑みをこぼさずにいられなくなった。


 メートル・ドテルを引き継いだ後輩『篠田』がしてくれる『いいね』と、たまに残してくれるコメントを葉子に見せた。


@ダラシーノ:

くっそー。めっちゃ良い景色!!

先輩もさぞや満足でしょうね~。ばっかやろーー


 相変わらずの『バカ』発言に葉子が面食らっていたが、その下にある秀星のリプライ返信を見て笑った。



@北星秀:

僕、いま、しあわせですからー。メシもうまい!!


@ダラシーノ:

あーそうですか。お好きなだけお写真をどうぞ!

いいね、しまくってやりますよ♥ 今度、蟹、送ってくださーい


@北星秀:

やだ! 食べたいならこっちにおいで


@ダラシーノ:

なんでですのん!! 俺、忙しいんですってば!

送ってくれないなら、いままでのいいね♥没収しちゃいますよぉー!!


@北星秀:

いいよ~♪ 全然平気~♪


@ダラシーノ:

はあ!? はあ!? 俺の純粋なハート返して! 俺、おかんむりなんですけど!!


 たったひとりの、確実な閲覧者は彼だけだった。

 大人の男同士のやりとりに、彼女がずっとくすくすと笑っている。


「ほんとうにいつも楽しそうですね」

「楽しいよ。彼はいいヤツなんだ。なんでも男前、男らしくてね。これも彼の優しさ」


 そこで葉子が急に神妙な顔つきになって、眼を伏せて秀星に問う。


「プロは諦めてないんですね」

「……『写真家』を諦めていない、だよ」


 若い彼女と噛み合わない違和感が、静かな空気の中で軋んだ。

 しかたがないことだと、秀星は多くは返さない。彼女も怖がるように聞いてこない。



---🍃



 その年を越して雪解けとなると、葉子、『ハコ』が朝早くランニングを始め、湖畔で発声練習を始めた。秀星が毎朝写真を撮っている湖畔のそばだった。


 東屋のあるほとりで、空へと音符が飛んでいくようなイメージが浮かぶほどの、金管楽器のような声だったのだ。


「ハコちゃん、凄いね。そんな声が出るんだ!」


 カメラを担いで東屋で彼女を見つけた秀星が声をかけると、彼女が気恥ずかしそうにうつむいた。

 あれ。歌手になりたいんだろ? そんな恥ずかしがるなんて。人前で唄いたいと願っている人間に見えなかったのだ。


 なんとなく。彼女がオーディションに受からなかったことがわかったような気がした。もっとハングリーなライバルにだいぶ押しのけられてきたことだろう。


 なにかを唄ってくれと頼んでも、彼女は唄ってくれなかった。

 でも。毎朝、撮影を終えて散策道を辿って東屋に着くと、彼女が今日の写真を見せて欲しいというので、秀星も嬉しくなってほいほいと見せるのが楽しみになってしまった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る