6.ハコ、自信喪失中
大沼国定公園の秋、湖が紅葉に染まる。
真っ赤に染まる湖を初めて見たいと、葉子は湖畔の散歩に出かける。
紅葉が終わると、北国はあっという間に初雪を迎える。この湖面が結氷するのは子供の頃に何回か見たことあるが、今年から日常になりそうだった。
大沼、小沼、
その中には鬱蒼とした森林の中に入っていく奥まった道もある。
平日の休業日なので、散策道を歩いていても人もまばら。土日の休日の賑わいも、この日はなく、湖畔を歩いていても水辺の音が響く静けさだった。
森の緑もなくなって、黄や赤に染まる木立が続く。葉ずれの音も、今日は心地よく耳に届く。
そんな秋の穏やかな湖畔を歩いていると、散策道奥にある小さな沼にかかる石橋の上で、カメラを構えている男性を見つけてしまった。
この日もニュートラルな色合いのカットソーにイージーパンツ、ウィンドブレーカーを羽織った秀星だった。石橋の上で、奥まった沼地から、大きな湖のむこうへと開けている紅葉の風情へとカメラを向けている。そのおかげで、石橋まで近づいてきた葉子を見つけたようだった。
「ハコちゃん!」
彼から手を振ってくれる。葉子も頬が緩んで、足早に石橋へと向かう。
「秀星さん。今日も撮影だったんですね」
「もちろん~。この美しい紅葉の季節に撮影しないなんて、なんのために大沼に住んでいるのやらってやつですよ」
『お兄さん』として砕けた姿勢を見せてくれたので、葉子も嬉しくなってそのまま彼の隣へ到着してもそばにいる。
今日は望遠がついている大きなカメラを持っていて、湖面の向こうにそびえ立つ駒ヶ岳へとレンズを向けてファインダーを覗いている。
「ハコちゃんは、お散歩ですか」
「大沼で初めての秋なので、紅葉がどれだけ綺麗なのかなと思って来てみました」
彼がカメラの構えを解いて、黒いバンドを肩に掛け直しカメラを提げる。
「奥まで行ったことあるかな」
「まだ全部の散策道を歩いたことはないです」
「そっか。仕事に慣れるのに大変だったもんね。そうだ……。ちょうどハコちゃんと腹を割って話したいと思っていたことがあってね」
腹を割って? 職場では話せないことだと思わせるような彼の言い方に、葉子は首を傾げる。彼が『こっちにおいで』と歩きだしたその背を追いかけた。
紅葉の木々が湖面に映り、まるで絵画のような趣を見せる奥の沼へと連れてこられた。
湖畔に東屋があり、そこへと彼が入っていく。ベンチに座った秀星が、カメラを静かに置いた。
話したいことがあるというのだからと、葉子も彼と向き合う形でベンチに座る。
葉子の場合はカメラではなく、飲み物を入れたレジ袋をそばに置く。
「話したいってなんですか」
「うん。ハコちゃん、レストランのお手伝いを始めて半年が経ったね」
「はい。出来が悪いなりに、ご指導ありがとうございます」
「よく頑張っているよ。ホールでのサーブもそれなりに出来るようになったしね」
初めて……。給仕長の彼に『出来ている』と言われ、葉子は思わず放心する。
ここがプライベートだから言ってくれた? 仕事場ではすぐには褒めてくれない人だとわかっているからこその感動でもあった。でもすぐに喜んでも『まだまだですよ』と言われたくなくて、葉子は打ち震えながらも、そっとそっと歓喜を抑えている。
仕事の話をしている時は、プライベートでも桐生給仕長は表情に起伏がなくなる。
いまもまさにそんな様相で、決してにこにこのお兄さん顔ではなく神妙な面持ちでいる。
だから葉子は緊張したまま、秀星が話したい核心を待つ。
「それでね。ハコちゃん、オーディションはどうしたの」
その問いに、葉子は硬直する。
「あの、まだ……。決めていなくて……」
「東京に行くぐらいの資金は出来たでしょう。どこか受ける予定があるなら、遠慮なく相談して。早めに言って欲しいんだよね。こちらもアルバイトの補充や応援を頼むツテを確保しておきたいからね」
葉子は黙り込む……。すっかり忘れていたわけでもなければ、応募先を探していなかったわけじゃない。ただ、もう……。
「ハコちゃん?」
「すみません。いまはどこも決めていません」
葉子の言い方と様子を見て、大人の彼は一目で察してしまったようだった。しかも踏み込んでこない。
「いまは給仕の仕事、頑張ります」
「わかった。でも、オーディションを受ける気になったら、ほんとうに相談して」
『オーディションを受ける気になったら』――。
もうこの言い方で見抜かれていると葉子も確信した。
そう。葉子は給仕の仕事に邁進しているうちに、いつの間にかオーディションを受けるために東京へ行くことに怖じ気づいていたのだ。資金を作っているという目的でがむしゃらに無心で働いていたのに、だ。
『怖い、また選外落選になって大沼に帰ってくるのが怖い』。
やっと仕事に夢中になりはじめた毎日の中に、あの空しい気持ちが忍び込んでくるのは嫌。そんな心持ちになっている。
友人たちからも『葉子、今年のオーディションどうするの』というメッセージが相次いで入ってきていた。葉子からの返信は『実家の仕事の手伝いで忙しい』だった。
まだ諦めていない。でも、大沼に帰ってきた時点で、葉子はある程度の力を抜いてしまっていたのだ。ボイストレーニングだってしていない。声がもう出ないかもしれないという恐怖もあった。そんな自分を知りたくなくて逃げているのかもしれない。
いま給仕の仕事が葉子の心を支えている。少しでも仕事をしていることで『私はなにもできない人間ではない』という自尊心を保っているのだ。だから致し方なく始めた仕事でも、いまは没頭している。そうすることで、歌手として才能を開花できない自分を慰めている。
「ハコちゃん、給仕の仕事に真剣に取り組んでくれるのは嬉しいよ。でも、僕も応援するよ。やめちゃったらそれまでだよ」
「はい、わかっています」
「まあ、僕もそんな繰り返しだけどね」
そんな繰り返し――。
やめたくなったり、でも、諦めがつかなくて、ずっとカメラと向き合っている。だからまだ夢が諦められないなら、唄いたくなる日が戻ってくるよ。秀星がそう言ってくれているのだと葉子は思った。
「僕もコンテストが来年あるから、その準備中」
「それで撮影をしていたのですね」
「まあね……。でも今日はいまいちかな。これ応募したいというショットはないねえ」
「え、そうなんですか」
「ほら、これ。どこかで見たことがあるようなものばかりだろう」
そばにあったカメラを手に取り、デジタルディスプレイに撮影したカットを表示してくれる。葉子へと差し出してくれたカメラを、葉子も怖々と手に取り、手元で眺める。
「綺麗……。少し前に神戸のルミナリエの写真も見せてくれたましたよね。あれもすごく素敵でした。これも、大沼の色合いがくっきり映し出されていて綺麗ですよ」
心底そう思っているから伝えてみたのに。でも彼は浮かぬ笑みを静かに見せただけ。そんな彼に葉子は大事なカメラをそっと返した。
「綺麗、だけじゃだめな世界なんだよね。これなんて、雑誌やカレンダーでよく見る感じだと思わないか」
「そう言われたら、そうかもしれませんけど」
「まあ、そのおかげで。コンテストを主催している雑誌編集部から、北海道の写真のカットが欲しいと言われて、商品として売れることはあるんだ。賞はなかなかもらえないけど、ちょっとしたお小遣い稼ぎにはなっているよ。それで気になるワインを買ったりしてる」
「そうなんですね……。芸術の世界も難しいんですね」
「うん。ハコちゃんの音楽の世界もそうでしょう」
この時に葉子は、音楽と写真で、なんとなく通じている感触を初めて持った。
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