1.葉っぱの子 ハコちゃん

 函館から交通機関でも一時間ほど。

 北海道新幹線の到着駅がある北斗市のそば。北海道 七飯町。

 標高一千メートルの駒ヶ岳の麓には、大沼 小沼 蓴菜じゅんさい沼の湖沼群が広がる大沼国定公園がある。


 夏になると湖面にたくさんの睡蓮が咲いて揺れ、冬は結氷し積雪で真っ白になる中、白鳥が飛来する。


 大自然のパノラマが広がる景観豊かなこの公園の湖畔に、葉子の父『十和田政則シェフ』が、念願の独立でフレンチレストランを営むこととなり、いま実家がそこにある。


 育った場所ではないが、祖父母がすぐそばの北斗市にいたため、子供の頃から何度も訪れたことがあり、葉子にとっても馴染みがある土地ではあった。

 だが葉子が成人してから、父が独立のために札幌から移転したため、大沼で暮らすのは初めてのことだった。




 東京から帰って来てすぐに、父親のレストランで働くことになる。

 オーナーシェフである父から『頼む』とだけ言われ、メートル・ドテル(給仕長)を務める彼が葉子を預かることになった初日。


「えー、シェフのお嬢様ですね。ハコさんですか」


 最初から名前を間違えられた。


「葉っぱの子で、ヨウコです」

「あ、そうだよね、そう読むよね。申し訳ない」


 そんな読み方する人は初めてだよ――と思いつつも、変わったかんじの男性というのが、葉子の第一印象だった。


 だが仕事は一流で、父が『できればずっといてほしいんだよな。あんなレベルの給仕、こんな地方のフレンチでは来てくれない』と認めるほどの男だった。


 確かに。背丈はそんなに高くはないが、視線が鋭くて涼やかに見える大人の男。

 毎日パリッとした白いシャツを着て、皺ひとつない黒ジャケットにスラックス、夜になるとつける黒いボウタイをすると、格段と凜々しいサービスマンの品格を醸し出す。


 この人が都会のフレンチレストランでメートル・ドテルを務めていたということが、素人の葉子から見ても理解できる佇まいだった。


 まだ生き生きと張りのある黒髪だけど、ところどころ白髪も交じっている。もうすぐ四十路かなと感じる枯れぐあいが、なおさらに、二十三歳の葉子には怖い大人の男に見えた。


 そんな桐生給仕長から、いちばん最初の仕事を言いつけられる。


「フレンチレストランのギャルソンが最初にやる仕事は食器拭きです。この『フレンチ十和田』で使われた食器にシルバー、グラス、すべて、十和田さんに拭いてもらいます」


 そんなこと一日中するのかな。葉子は怖じ気づく。

 父のレストランに、いったい何枚の皿やシルバーと呼ばれるカトラリー類があり、営業中にいったい何枚、何組使われて手元にやってくるのか今の葉子には想像もできない。


 子供の頃から父親が料理人である姿を見てきたが、それでもどのような世界かまったくわかってもいないことを、葉子はここで初めて知ることになる。


 第一日目から、葉子は厨房から洗い上がってくる食器拭きを厨房の片隅で、ひたすらやる。

 割らないように、丁寧に。ナイフにフォーク、スプーンなどのカトラリーは、シルバーが曇らないように。これでも、やる気は見せているつもりだった。第一日目だから。


 それが一週間続いて、葉子はいつまで皿拭きをするのかとヤキモキし始めていた。


 父のレストランは小さく、ホールで接客をしているギャルソンは、桐生給仕長と今日シフトに入っているアルバイトの男性で、計二人だけ。手が足りないなら、葉子にも声がかかるのだろうかと思ったが、ホールに呼ばれることはなかった。


 立ちっぱなしで、ただ手を動かしているだけ。お客が少ない日は、皿拭きも割とあっさり終わってしまうこともあり、やることもなく手持ち無沙汰になる。


「ここに立って、見ているように」


 なにもすることがない葉子を知り、桐生給仕長が新たな指示を出す。

 お客様が食事をするホールの片隅、でもお客様の視界から目立たない通路の入り口にいるようにとのことだった。


 それだけしか言われなかったから、そこでじっとしていた。

 アルバイトの男性一人と桐生給仕長が、お客様に料理をお届けする様子をぼんやりと眺めていた。

 でも、どこかで魅入っていた。流れるように美しく、尚且つ、乱れのない動作。指先まで神経を尖らせているのが、遠くからひっそりと眺めている葉子にもわかる。


 彼は涼やかな眼差しで近寄りがたい冷たさを放っているのに、お客様はにこやかに彼に話しかける。遠慮なく、なんでも笑顔で彼に話しかけている。それはどうしてなのか……。葉子にはまだわからなかった。


 お客様の食事が終わり、再び、皿拭きへと戻る。

 ディナーの後の片付けが、葉子の仕事の本番と言ってもいいほどだった。

 これなら開店からではなくて、ディナーが終わる頃から入ってもいいのではないかと思った。

 そのほうが人件費だってかからないじゃないかとさえ。ただ葉子はお金が欲しいので、そこは黙って、勤務時間にいられるだけいるようにしている。


 この夜もただ皿拭きをしていると、店を閉め終えた彼が葉子のそばに来た。

 黒いジャケットを脱いで、ボウタイを外して、白いシャツ姿になると、袖をまくって葉子の隣に並んだ。何事かと思ったら、彼も一緒に皿を拭き始める。


「拭き方が遅いです。お父様のレストランは客席数が少なく回転もゆっくりめなので、これで済んでいますけれどね。都市部のレストランでしたら、毎日数百枚レベル、このスピードだと、第一日目から怒鳴り飛ばされ田舎に帰れと言われるレベルですよ」


 あの冷たい視線が、葉子の斜め上から突き刺していた。

 一生懸命、丁寧にやっているつもりだ。最低限、せめて割らないように。まだ扱いだって慣れていない。最初からそんな上手く出来るかと、葉子は密かにむくれていた。


 そんな給仕長が、葉子の隣で黙って皿を片手に持ち、白いふきん『トーション』で拭き始める。

 葉子が一枚拭く間に、彼が二枚、三枚と拭き終えていく。

 自分もそれを乗り越えてきたと言わんばかりだった。だが葉子は、彼が皿を拭く手の動きを見て、気がついた。動作が少ない、撫でる回数は最小限、そして隅々まで綺麗に磨くルートを的確に決めて動かしている……。


 彼が二枚、三枚、四枚と拭き終えたところで、葉子も真似てみた。

 一枚、二枚……。まだ遅いかもしれない。


「良く出来ました」


 そんな声が聞こえて、桐生給仕長へと顔を上げると、いつも冷たく硬い表情ばかりだった彼が、にっこりと優しく微笑んでくれていたのだ。

 葉子が自ら気がついて実践したことを褒めてくれたのだろうか?


 だが彼はすぐにいつもの上司の横顔に戻り、葉子が拭き終えたカトラリーを手にして、皿拭きカウンターの空いている場所に並べた。


「フレンチレストランでは、ナイフ、フォーク、スプーンとは呼びません。カトラリーとも呼びますが、だいたいはシルバーと呼びます。ナイフは『クトー』、フォークは『フルシェット』、スプーンは『キュイエール』と呼びます。覚えておいてください。ただしお客様に対しては、お相手がわかりやすいように、ナイフ、フォーク、スプーンと案内してくださって結構です」


 丁寧な口調で淡々と桐生給仕長は説明をしてくれる。

 初めて、なにかを教えてくれたかも――と葉子は給仕長を見上げる。

 彼が少し口元を曲げて、ちょっと照れているように見えたのは気のせい? 接客中よりずっと柔らかい目元を見せてくれている。今夜の彼は怖くはない。


 また彼もトーションと皿を持って拭き始めた。

 まだ葉子と一緒にこの仕事をするつもりらしい。


「なんでこんなことからと思っているでしょう」

「いえ……。どこのお仕事も見習いは下準備からだと思いますので」


 心の中では『ああ、やっぱり下っ端はこんな仕事からなのね』と飽き飽きしていたが、その心を見抜かれないように葉子は努める。


「ちなみに。僕にとって音楽は聴くことしか接点がないのですが、ハコちゃんがいた音楽業界での見習いとは、どのようなことをするものなのですか」


 ん? 『ハコちゃん』と呼ばれたと、葉子は皿を拭きながら眉をひそめる。

 仕事モードを解除したからなのか、給仕長はもう口元も目元も緩めて、淡々と皿を拭いている。


「音楽専門学校時代の友人で応募のオーディションに受かった子もいますけれど、養成所に入ってボイスレッスンをつけてもらいながら、でも、事務所のライブのサポート要員から始まるようです。歌唱力が認められたら、売れっ子シンガーのバックシンガーに採用もありますね。そこでまた事務所指定のオーディションの繰り返しのようです」

「なるほど。そこが、音楽業界の皿拭きなのかもしれませんね」


 こんな会話をして、葉子の心がしぼんでいく。

 葉子自身はまだ、望む音楽業界では下っ端仕事にすらつけていない。先にフレンチレストランで仕事をこなすことになってしまっているからだ。


「僕もですね。別にフレンチでサービスマンを極めようだなんて、思っていませんでしたからね」

「え、そうなのですか……。ですけれど……神戸で給仕長になられていますよね」

「僕にも夢がありましてね。それが人生で第一。ハコちゃんよりずっとオジサンで二十年近くこの業界にいますけれど、この仕事、いつ辞めてもいいぐらいの気持ちでやってきましたよ。夢がありますから」


 なにを言いたいのだろうかと、皿を拭く手が止まってしまった。

 四十を目の前にしているオジサンの言葉が、二十三歳の葉子にはまだ伝わってこない。


「ですけれど。その夢を叶えたくても、生きるのにお金がいるでしょう。いまのハコちゃんのように。僕もそう、夢を支えるためにこの仕事をしてきたのです。そうして生きてきて、いつのまにか二十年ですよ。いつのまにか、給仕長なんてやることになっていました。難しいですね~。心から願う夢はなかなか手に届かず、でも手放せず、諦めたくないから仕事をする。生きていく術を失うわけにはいかないので、仕事もきっちりやる。つまり、そういうことです」


 まだ葉子にはわからず、やや首を傾げていた。

 夢を叶えるなら、夢を優先にするべきなのでは? 仕事は一時凌ぎでしかない。いまの葉子のように。


「またオーディションを受けたいのなら、東京に行くまでの飛行機代や宿泊費も必要でしょう。そのためだと思って、頑張ってください」


そこで彼はやっと、持っていた皿拭き用のトーションを作業台に置いた。

 脱いだジャケットと外したボウタイを手に持ち、葉子に背を向け去って行く。


 いまは耐えてこれをやれということか。

 葉子はそう理解しつつも『私は二十年もここにはいない。チャンスはかならず作る』と心に誓う。


 二十年後、夢も叶わず、好きでもない仕事を極めたオジサンと一緒になりたくないと息巻いて、今夜の食器を懸命に片付ける。

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