ふしぎ旅行代理店 ディテクティブ・ダイアリー

@spaceblue

Diary

 1982年12月15日




 俺が日記をつけるのは何年ぶりだろう。今日は俺にとって忘れられない日だ。なぜなら、俺の探偵としての人生が終わったからだ。




 たいていのガキは世の酸いも甘いも知らずにいる頃に、探偵という職業に憧れる。かくいう俺もその一人だった。アメリカでは探偵は尊敬される職業だ。市民のために働き、汚職ばかりする警察とは違い、弱きを守るための盾として、長くアメリカの治安維持の役目を務めてきた。証言は裁判でも採用され、拳銃の携帯許可もある。海を渡った先の日本では、探偵の仕事は浮気調査とされているらしい。俺たちは違う。アメリカの隠れた保安官なのだ。

 とはいえ、この最後の仕事を引き受けるまでの一か月間は、俺はひもじいものだった。

 俺が専門的に扱っていたのは、企業犯罪。悪徳企業の罪を暴くことだった。だが、あいにく、それが原因で恨みも買ってしまい、俺は警戒され、まともに依頼が来なくなった。冷蔵庫も預金口座もカラだ。

 そんな腹をすかせた昼下がりの頃だ。あの電話がかかってきた。おれは電話を取った。

「もしもし」

「ミスター・アッシュだね?仕事を頼みたい」

「浮気調査なら他をあたってくれ」

「依頼したいのは、君の得意分野だ。ある旅行代理店の調査を頼みたい。その旅行会社は情報がほとんど公開されておらず、経営者も不明の多国籍企業だ」

 俺は話を聞いて思わず安堵した。

「どうやらフードバンクの世話にならずに済みそうだ。わかった。引き受けよう。で、おたくはどういう人間で?」

「残念だが、それは言えない」

「おい、待てよ。依頼人の素性が分からない話は引き受けない。悪いが他をあたってくれ」

 まったく、一杯食わされた。電話を切ろうとしたが、

「電話を切る前に、君の事務所のポストを見たまえ」

 何を言っているのか。苛立たしく、受話器を置いた俺は事務所の扉のポストを見た。封筒が入っており、開けてみると小切手が入っていた。額を見て驚いた。五十万ドル。俺はすぐにデスクに戻り、受話器をひったくるようにして、耳に当てた。

「わかったかね?依頼を引き受けてくれるかな?」


 正直言って、これがやばい仕事だという認識は長年の経験でわかった。だが、みっともなく腹を空かせ、みじめに鳴っている俺には選択の余地はなかった。

 まかせろ。企業相手なら、俺は無敵だ。

 調べてみると、素性不明の依頼人の言っていた通り、この〈ふしぎ旅行代理店〉という旅行会社は全く情報が公開されていなかった。

 だが、一応法人登録はされており、納税額も問題なし。粉飾決算もしていない。秘密主義を貫く以外はクリーンな企業だ。少なくとも本社が日本にあることは突き止めた。どうやら世界中に支社を置き、顧客に応じたツアープランを紹介するらしい。

 調査の過程で妙な噂を聞いた。

 俺以外にもこの会社を調査しようとした探偵やジャーナリストがいたのだ。そして全員がろくな報告も上げず、その一件の後、退職していた。

 俺はその一人と会うことができた。




「人間として忠告しておく。あの会社にはかかわるな」

「なぜ?」

「あれは会社じゃない。化け物だ。俺は一体、今までどんなに甘っちょろい世界で生きてきたんだ…。」




 気の毒には思ったが、その時の俺はこの会社の秘密を暴くと決めていた。もう五十万ドルの依頼料なんてどうでもいい。ここまで俺の同業者を追い詰める企業に興味が湧いて、仕方なかったのだ。今思えば、その時点でやめておけば、俺は今でも探偵でいられたかもしれない。

 手がかりが、なかなかつかめなかったが、俺はとうとうニューヨーク支店の住所を手に入れた。だが、思い切って訪問してみても追い返されるだろう。俺はこんな手紙を出すことにした。


〈現代の宝島へのチケットを売る者たちよ。俺はあんたらと会いたい。出会う方法は?〉


 返事なんて期待していなかった。だが、次の日、速達で蜜蝋で封がされた洒落た封筒が届いた。


〈ヒスパニオラ号への乗船を希望されるなら、今日の二十時五分においでを。ニューヨーク支店でお待ちする。〉

 俺はため息をついた。




 そんなわけで、俺はふしぎ旅行代理店のニューヨーク支店に向かった。懐には凶暴な鉄の工作物が収まっている。スミス&ウェッソン Ⅿ36。三十八口径の小型のリボルバー拳銃だ。本気で襲われたら、こんなもの何の役にも立たない。覚悟の上だった。

 支店はトランプタワーの十階にあった。トレンチコートに山高帽という俺は明らかに場違いだった。エレベーターに乗り、十階へ。そして降り立った空間は贅を尽くしたものだった。

 シャンデリアに高級な家具、座り心地のよさそうなソファ。テーブルの上には冷えたペリエが置かれている。奥から現れたのは女性の社員だった。

「ようこそ。ミスター・アッシュ。ふしぎ旅行代理店へようこそ。」

 品の良いアジア系の女性はオリエンタルな笑みを浮かべる。

「こちらこそ」

「どうぞこちらへ」

 俺は警戒を解かなかった。この会社は間違いなく、今までの探偵やジャーナリストを破滅に追い込んだ連中の集まりだ。油断すれば、俺でも喰われかねない。

 ソファに腰を下ろし、女性からグラスにペリエを注いでもらった。

 口をつける気はない。毒でも入っていたら大変だからだ。

「単刀直入に申し上げましょう。あなたにわが社の調査を依頼したのは私たちです。」

 何だって?




「わが社では、時に生死の危険すらあるツアープランがお客様に紹介されます。それは仕方がないことです。わが社は薬局のようなもの、お客様の悩みを旅によって解消することを経営方針としているのですから。しかし、時にそれを大げさに宣伝し、スキャンダルにしようとする人間も存在します。あなたの前任者たちのように。」

「つまり、俺のように調査を生業としている人間に定期的に探りを入れていると?」

「探偵が調べられる…。あなたたちにとってはこれ以上の屈辱はないでしょうね。これも将来の危険因子の排除のためなのです。」

 急に怒りが込み上げてきた。つまり俺は最初から監視されていたわけだ。調べる者を排除するためにあえてそうした連中を調べ上げる。そして、この贅を尽くした魔の部屋に誘い込み、自尊心を叩き折る。『宝島』のシルヴァーがヒスパニオラ号の船長に心の隙を突かれておじゃんになったように。

「あなたの怒りは承知の上です。ただ、あなたは間違いなく他の探偵たちやジャーナリストとは違う」

「何が違うっていうんだ」

「仕事をビジネスと割り切るからですよ。あなたは食い扶持さえあれば、それでよかった。他の人間のように好奇心でわが社の秘密を覗くことはしていない」

「俺もあんたらに興味を抱いたんだぞ」

「最初の動機は違ったはずです。空腹を解消したかった。あなたは探偵として生きていける人間です。少なくとも、怒りで我を忘れることはしていない」

 確かにその通りだった。いつの間にか、自分の中からまんまと一杯食わせたこの会社への怒りは消えていた。

 同時に自分の中である種の情熱が消えていくことを感じた。

 俺は探偵として、やってはいけない興味本位の調査をしてしまった。この女性もそれはわかって言っているのだろう。

 もう探偵として、やっていけない。はっきりそれが分かった。

 ふしぎ旅行代理店は世界中に支社を持つという。きっと世界中で俺のような人間を予防し、こう問いかけているのだ。「秘密を暴く者としての心構えがあるか」と。

 俺も見事に探偵の資格がないと諭されたわけだ。

「あなたへの謝礼の追加料金として、もう五十万ドル用意してあります。ぜひお受け取りに…」

「断る」

 女性は憐れむような表情で俺を見た。

「確かに俺は甘っちょろい考えをしていた。その金を受け取ってしまえば、間違いなく俺は探偵を続ける。自分にはまだできると錯覚してな。ここではっきりわかったよ。俺に探偵は務まらない」

「これからどうされるのです」

「自由気ままな隠居生活もいいかもな。俺の世界では限界を感じたら、そこで手を引かなければならない。一瞬の油断が命取りになる」

 女性社員は微笑を浮かべ、

「よろしければ、わが社で働いてみるのは。あなたなら資格があります」

「ごめんだね。この先、何があってもあんたらに関わることはない」

 俺は立ち上がった。

「邪魔したな。俺は帰るよ」

 女性は寂しそうに笑って、

「またのご来店をお待ちしております」そう答えたのだった。


 そういうわけで俺は天職だと思っていた探偵をやめた。これから先はどうしていいのかわからない。あの会社はこれからも俺のような人間に探りを入れるのだろう。ご苦労なことだ。

 俺より、あの会社のツアープランを利用する人間の方が心配だ。確かにあの会社は化け物だ。きっと利用する客はあの会社に試されるのだろう。人生を変える覚悟があるかどうか。怪物の住処の門をくぐった人間は後戻りできない。まあ、考えても仕方ないな。

 俺の探偵としての人生が終わった。それだけは事実だ。

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