第61話 卵を落として割ってしまった、くらいの話題

 部屋に備え付けられた電話が鳴った。しばらく現実と眠りの世界が混濁し、動くごとが出来なかった。

 ジリリ。

 私は受話器を取った。

 きっと、私がやりたいのは、彼が言うような複雑なことではなく、こういう当たり前のことだ。

 電話が鳴ったら受話器を取る。

 そういう、自然で他愛のないこと。


牛肉ビーフを食べるために、牛を殺すこと》


 妻の言葉だ。

 詩人として、初めて私の中に残る言葉を残したんじゃないだろうか。

 浅く息をつき、電話に出た。

 ナースの取り次ぎがあったあと、女の声がした。電話の主は、妻の友人だった。彼女こそ、私と妻を引き合わせた女だ。

 彼女は結婚をするまで、スポーツ・キャスターをしていた。気さくで、さばさばとしたものの言い方をする。

『ハァイ、ミスター・赤ら顔ラディ・フェイス

「なんだ。今、妻と一緒なのか?」

『それがねぇ』

「もしかして、またか? 酔っぱらってぶっ倒れてるんじゃあ……?」

 妻と大きな喧嘩をしたことはない。しかし、先ほどのような細かいいさかいは度々ある。

 そうすると大抵、やや大きな買い物をするか(レザー・ジャケットやハイブランドの鞄なんかを買ってくる)酩酊状態になるほどの酒を飲んでくるとパターンが決まっている。

 その憂さ晴らしの相手はこの女なのだ。

『ううん』

 彼女はあっけらかんとしていた。

『なんかねぇ、あの子、車に轢かれちゃったのよ』

 まるで「卵を落として割ってしまった」程度の調子だった。

 だからか、私も深刻な気持ちにはなれなかった。

 彼女の話によると、妻は酔っぱらったままタクシーに乗り込み、ふざけて扉を開け、車道に転がり落ち、そのまま車にぶつかったのだという。

 もしかしたら、二人して私を謀ろうとしているんじゃないかとも考えた。つまらない嘘で私を驚かせるのが、彼女たちの楽しみの一つでもあったのだ。

 妻の友人は、妻が運ばれた病院の場所を教えてくれた。おそらく大事には至らないだろうと言った。

「のろのろ走ってる車に、頭ごっつんしちゃっただけなのよ」と。

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