第51話 ベースが争いの火種になるのなら、燃やせばいい

 病院の個室で、天井を眺めていた。

 肩にはあの薬が塗られている。相変わらずとんでもない臭いだ。皮をひんむかれたように、肩がヒリヒリとする。

 洗濯物にこびりつくと色が落ちず、Tシャツをもう四枚ゴミ箱行きにした。

 入ってくるナースたちは、もれなく口で呼吸をしている。(口腔の乾燥は虫歯を誘発する。虫歯だらけの天使たち)

 見舞いにやってくる客はほとんどいない。

 来るのは妻だけだ。せいぜい、よき伴侶を演じるための点数稼ぎだろう。

 奇人変人ぶっているわりに、そういうところだけは平凡でうんざりする。昨日なんて、色とりどりのセンバヅルを持ってきた。

 一つ一つの鶴が、いいかげんな首の曲がり方をしていた。

 ずれているのだ、なにもかもが。


 やることもなく、試合中継を録画したビデオ・テープで研究することにした。

 妻も珍しく付き合って見ていた。

 ワンナウトランナー三塁で、打者がライトフライを上げた。ランナーが走りだした。

 浅いフライだったので、ランナーはタッチ・アップに失敗し、ホームでアウトになっていた。

 興味なさそうに、妻は頬づえをついていた。

「タッチアップってなに?」

「今やってたことそのままだよ。ランナーは、野手がフライを捕球してからなら、次の塁に走っていいんだ」

「なんで待たなきゃいけないの? 取る前に走れば?」

「そういうルールなんだよ。そうとしか言えない」

「だいたい、野球って本当に不可解なスポーツね。でかい図体した大人が集まって、ボールを塀の向こうにやれるか、躍起になる。ホームベースを踏むのに必死で、他人にケガをさせかねない体当たりまでする。ベースが争いの種になるなら、燃やしちゃえば?」

 スコアラーがベースを燃やした事件は、面倒なので妻には話さなかった。

 それを話すことは「お前が思いつく程度のことはもう別の誰かがやっているよ」と言うのと同義だ。火に油。

「でもホームベースがなくなったら、別の何かを用意すればいいだけかしら」

「それは違う。私たちはホームベースを与えられ、それを奪い合うんだ」

 反射的に反論していた。妻は肩をいからせ、私の目をじいっと覗きこんだ。

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