三
「おししょう」
静まりかえった部屋には、魔女と少年のふたり。少年は、おずおずと魔女に話しかける。
「あの女の人が持ってたのって、黒い石だよね……。あれってお兄さんの――」
「言葉を間違えたのさ」
「え?」
魔女が窓を見やり、ぽつりと呟く。すると、こつんと音がした。
「元に戻れなくなる、というのをあいつは、元の姿に戻らなくなると思ったんだ」
また、こつんと音がする。音が聞こえるのは窓だ。
窓の外枠に、いつものように黒い石が置かれていた。
「あたしにとって、お前はもう、人間だったんだよ」
こつんとまた音がして、少年は黒い石を置いた正体を知る。
「一度に薬を飲み過ぎると、人間の姿に戻れなくなると言ったんだ」
窓には、一羽の大きな黒い鳥が止まっていた。
「石を集めようと獣の姿になったきり、戻れなくなったんだね」
黒鳥は、くちばしを使って、置いた石をついと前へ押しやった。
「どれだけ、石をもってこようと、あたしにはどうしようもできないよ」
魔女は、窓枠に立つ黒鳥を見つめ、淡々と言う。
「言ったろう? 契約を破ったお前には、二度と同じものを与えられないんだ」
黒鳥の黒い目は、ひたすらに魔女を見つめる。
「あの女房は、生きてさえいればどんな姿でもいいと言っていたよ」
ぴくりと、黒い頭が揺れる。
「あの子は、その姿のお前にも優しかっただろう?」
黒鳥の宝石のような瞳に、円を描くように光が反射する。
――どうしたの? 怪我でもしたの?
初めて会った時、彼女は怯えた顔をしていた。自身の体半分ほどある大きな黒鳥。恐れないわけがない。だが彼女は、笑顔を作り、差し伸べる手を引かなかった。じくじく痛んでいたはずの黒鳥の翼は、何の痛みも訴えない。
彼女の笑顔に、すべてが癒されていくのを黒鳥は感じていた。
黒い瞳の奥に映る女が、笑顔から不安げな表情に変わる。
「あなた……?」
窓の向こう、黒鳥の前にいるのは――。
「本当にあなたなの……? うそ、だって……」
血の気のない顔で口を押さえ、ふらふらと立つ身重の女。
黒鳥は、勢いよく羽根を羽ばたかせる。
女は、その脚に銀の指輪が
「待って‼︎」
窓に向かって走り叫ぶ。だが、黒鳥は大きな音を立てて飛び立った。
「あなた! あなただわ! 私の……、この子の……!」
開け放った窓から、黒い羽根の舞う空に声を張り上げる。
「お願い! 帰ってきて‼︎」
黒鳥は既に空の上。銀の光をきらりと放って、姿を消した。
「やれやれ、本当に臆病な男だね。話もまだ終わってないのに」
窓から空を眺め、魔女は呆れた顔で笑う。女は、窓枠に手を残し、膝をついて泣いている。その肩に、魔女のしわ深い手が置かれた。
「待たせたね」
女は、泣く声をこらえ、しゃくりあげる。
「契約をしようか」
魔女の言葉に、女は顔を上げる。そして、しっかりとした目で魔女を見つめ、ゆっくり立ち上がると力強く頷いた。涙があたりに弾け飛ぶ。握りしめた拳に落ちた涙の粒が、銀色の輪をするりと撫でた。
※
ある晴れ渡った日、空には鳥が二羽飛んでいた。
前庭を耕す手を止めて、幼い少年は空を見上げる。
「お兄さんとお姉さん、げんきかなぁ」
「こら、薄紅! 手を止めてるんじゃあないよ」
開け放たれた窓から、魔女が声をかける。少年は、慌てた様子で、土を掘り起こす作業を再開した。そして「あっ」と短く声をあげると「見て! おししょう!」と窓のほうへ駆けていく。
「まぁた、瓶がくっついてやしないだろうね? 仕入れるのが面倒なんだよ」と、魔女は眉間のしわを深くした。
大きな黒い鳥が水しぶきを上げ、川から顔を出した。くちばしには、黒い石を咥えている。岩場に立ち、翼を震わせると、大粒の水玉が飛び散った。
すると、甲高い声と拍手が響く。黒鳥が黒い目でそちらを見やれば、人間がひとり、川辺の岩に腰掛けていた。若い女だ。女は眉を下げて、飛んできた水滴を布で拭っている。そして、その腕の中には手を叩いて笑う赤ん坊がいた。
黒鳥が乾いた羽根を、もう一度羽ばたかせると、また赤子の歓声が上がる。
銀の輪がついた足を蹴り上げて黒鳥は岩を飛び立ち、ふたりのもとへ寄る。赤子は怖がる様子もなく、黒鳥に触れようと手を伸ばす。
女は、暴れる赤子を抱えたまま器用に硝子瓶から粒を取り出すと、黒鳥の前に手を差し出した。女の手のひらに乗った薬の粒を黒鳥が
少年が、掘り起こした綺麗な瓶をひとつずつ窓枠に並べる。それを魔女は満足そうに見た。
「まったく。最初から女房のほうと契約しておくんだったね」
魔女との契約を破った男とは、同じ契約はできないが、別の者となら、同じ内容の契約は出来る。魔女は、男の女房と「男が獣から人間になる契約」を交わしたのだ。
「獣から人間になる」薬を飲むためには、獣の姿である必要がある。そのため、一日一回、必ず獣の姿になるという制約はあるのだが――。瓶の様子を見る限り、うまくいっているようだ、と魔女はにやりと笑う。
「ねぇ……、おししょう」
口元のしわを深くした魔女を見つめて、少年は言う。
「ぼく考えてたんだけど……。これってまた、おししょうのさくせん、なんじゃなぁい?」
薄紅色を揺らして首を傾ける少年に、魔女はますますしわをくしゃりと刻んだ。
「――さぁてね」
魔女は、窓から遠く外を眺めた。
そこからは、ふたり分の足音と、明るく笑う赤子の声が聞こえてくるのだった。
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