「おししょう」

 静まりかえった部屋には、魔女と少年のふたり。少年は、おずおずと魔女に話しかける。

「あの女の人が持ってたのって、黒い石だよね……。あれってお兄さんの――」

「言葉を間違えたのさ」

「え?」

 魔女が窓を見やり、ぽつりと呟く。すると、こつんと音がした。

「元に戻れなくなる、というのをあいつは、元の姿に戻らなくなると思ったんだ」

 また、こつんと音がする。音が聞こえるのは窓だ。

 窓の外枠に、いつものように黒い石が置かれていた。


「あたしにとって、お前はもう、人間だったんだよ」

 こつんとまた音がして、少年は黒い石を置いた正体を知る。

「一度に薬を飲み過ぎると、人間の姿に戻れなくなると言ったんだ」

 窓には、一羽の大きな黒い鳥が止まっていた。


「石を集めようと獣の姿になったきり、戻れなくなったんだね」

 黒鳥は、くちばしを使って、置いた石をついと前へ押しやった。

「どれだけ、石をもってこようと、あたしにはどうしようもできないよ」

 魔女は、窓枠に立つ黒鳥を見つめ、淡々と言う。

「言ったろう? 契約を破ったお前には、二度と同じものを与えられないんだ」

 黒鳥の黒い目は、ひたすらに魔女を見つめる。


「あの女房は、生きてさえいればどんな姿でもいいと言っていたよ」

 ぴくりと、黒い頭が揺れる。

「あの子は、その姿のお前にも優しかっただろう?」

 黒鳥の宝石のような瞳に、円を描くように光が反射する。


――どうしたの? 怪我でもしたの?

 初めて会った時、彼女は怯えた顔をしていた。自身の体半分ほどある大きな黒鳥。恐れないわけがない。だが彼女は、笑顔を作り、差し伸べる手を引かなかった。じくじく痛んでいたはずの黒鳥の翼は、何の痛みも訴えない。

 彼女の笑顔に、すべてが癒されていくのを黒鳥は感じていた。


 黒い瞳の奥に映る女が、笑顔から不安げな表情に変わる。

「あなた……?」

 窓の向こう、黒鳥の前にいるのは――。

「本当にあなたなの……? うそ、だって……」

 血の気のない顔で口を押さえ、ふらふらと立つ身重の女。

 黒鳥は、勢いよく羽根を羽ばたかせる。

 女は、その脚に銀の指輪がまっているのを見た。

「待って‼︎」

 窓に向かって走り叫ぶ。だが、黒鳥は大きな音を立てて飛び立った。

「あなた! あなただわ! 私の……、この子の……!」

 開け放った窓から、黒い羽根の舞う空に声を張り上げる。

「お願い! 帰ってきて‼︎」

 黒鳥は既に空の上。銀の光をきらりと放って、姿を消した。




「やれやれ、本当に臆病な男だね。話もまだ終わってないのに」

 窓から空を眺め、魔女は呆れた顔で笑う。女は、窓枠に手を残し、膝をついて泣いている。その肩に、魔女のしわ深い手が置かれた。

「待たせたね」

 女は、泣く声をこらえ、しゃくりあげる。

「契約をしようか」

 魔女の言葉に、女は顔を上げる。そして、しっかりとした目で魔女を見つめ、ゆっくり立ち上がると力強く頷いた。涙があたりに弾け飛ぶ。握りしめた拳に落ちた涙の粒が、銀色の輪をするりと撫でた。



   ※



 ある晴れ渡った日、空には鳥が二羽飛んでいた。

 前庭を耕す手を止めて、幼い少年は空を見上げる。

「お兄さんとお姉さん、げんきかなぁ」


「こら、薄紅! 手を止めてるんじゃあないよ」

 開け放たれた窓から、魔女が声をかける。少年は、慌てた様子で、土を掘り起こす作業を再開した。そして「あっ」と短く声をあげると「見て! おししょう!」と窓のほうへ駆けていく。

「まぁた、瓶がくっついてやしないだろうね? 仕入れるのが面倒なんだよ」と、魔女は眉間のしわを深くした。



 

   

 大きな黒い鳥が水しぶきを上げ、川から顔を出した。くちばしには、黒い石を咥えている。岩場に立ち、翼を震わせると、大粒の水玉が飛び散った。

 すると、甲高い声と拍手が響く。黒鳥が黒い目でそちらを見やれば、人間がひとり、川辺の岩に腰掛けていた。若い女だ。女は眉を下げて、飛んできた水滴を布で拭っている。そして、その腕の中には手を叩いて笑う赤ん坊がいた。

 黒鳥が乾いた羽根を、もう一度羽ばたかせると、また赤子の歓声が上がる。

 銀の輪がついた足を蹴り上げて黒鳥は岩を飛び立ち、ふたりのもとへ寄る。赤子は怖がる様子もなく、黒鳥に触れようと手を伸ばす。

 女は、暴れる赤子を抱えたまま器用に硝子瓶から粒を取り出すと、黒鳥の前に手を差し出した。女の手のひらに乗った薬の粒を黒鳥がついばむ。黒鳥の黒く鋭いくちばしが、女の指に嵌まる銀色の輪にあたり、静かな川辺にかつんと音を響かせた。




 少年が、掘り起こした綺麗な瓶をひとつずつ窓枠に並べる。それを魔女は満足そうに見た。

「まったく。最初から女房のほうと契約しておくんだったね」


 魔女との契約を破った男とは、同じ契約はできないが、別の者となら、同じ内容の契約は出来る。魔女は、男の女房と「男が獣から人間になる契約」を交わしたのだ。

 「獣から人間になる」薬を飲むためには、獣の姿である必要がある。そのため、一日一回、必ず獣の姿になるという制約はあるのだが――。瓶の様子を見る限り、うまくいっているようだ、と魔女はにやりと笑う。


「ねぇ……、おししょう」

 口元のしわを深くした魔女を見つめて、少年は言う。

「ぼく考えてたんだけど……。これってまた、おししょうのさくせん、なんじゃなぁい?」

 薄紅色を揺らして首を傾ける少年に、魔女はますますしわをくしゃりと刻んだ。

「――さぁてね」


 魔女は、窓から遠く外を眺めた。

 そこからは、ふたり分の足音と、明るく笑う赤子の声が聞こえてくるのだった。



 

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