■Upper Stage(2)

「そこには誰もいないよ」

「え?」


 唐突に飛んできた声に目を向ける。隣の部屋だ。


「アンタも騙されたクチか。いい迷惑だ、静かにしてくれ」

「どういうこと?」


 隣の部屋の中から聞こえてくるのは、不機嫌そうな男の声だ。

 興味を惹かれてそちらに寄る。疑問に対する答えはなかった。

 こういう時必要なのは、そう。誠意と、対話コミュ力だ。


「……通販サイトBuy-Bay、efwNT48YQA」

「……もう一声」

「ドア蹴破るぞ♡」

「そこは詐欺師のニセ住所だよ。『三人同時結婚詐欺事件』、あっただろ」

「なにその馬鹿みたいな事件」


 思わず突っ込みを入れてしまった。羽刈に確認してみる。


『三人同時結婚詐欺事件って何』

『あったな、そんなの。凄腕の詐欺師が、女二人と男一人を同時に引っかけたとか。……関係者か?』

『詐欺師なんだって』

『それだけ情報があれば……よし。非合法イリーガルニュースに顔写真があったから送る』


 羽刈から送られてきた顔写真は、非合法ニュースメディアらしい、画質の荒いものだった。遠間から盗み撮りしたのだろう。それでも、明るい茶髪に、爽やかな笑みを浮かべた、端正な顔立ちは見て取れる。


『すげえな、こいつ。物屋ものや 誠一せいいち。確定してるだけで、結婚詐欺二件、投資詐欺三件、特殊詐欺一件、身分偽造三件。人を騙すために生まれてきたみたいな男だ』

『まあまあ格好いいのにね。もったいない。好みじゃないけど』

『お前の好みっつーと?』

『コリン・ファース』

『釣り合わねえ……』


 隣人さんにお礼のつもりで扉を軽くノックし、マンションの廊下から外へ跳ぶ。向かいのビルへ飛び移り、屋上へ上がった。ここからならマンションの様子も、周囲を歩く人も見える。


「ふふふ。いただきまーす……」


 羽刈がデータを浚っている間に、私は休憩がてら見張り。懐から、買っておいたあんぱんを取り出す。張り込みの定番だ。


 甘い餡を味わいながら、脚のコンディションをチェックする。

 銃持ちとハーネスと戦って、その後長めのジョギングとダッシュ。義足にはかなりの負担を掛けたはずだ。実のところ、一晩経ってもまだ、接続部ソケットはじわりと熱を持っている。シゲさんは分解整備オーバーホールが必要だと言っていたけど、そうなるとしばらく仕事ができない。必死に抵抗して、全力疾走はしないという条件で、仕事をしながらのメンテナンスを許された。時間のある時に、こまめにセルフチェックをしておく。


 私の義足は、戦闘用ではない。軍隊や、民間軍事会社P M Cなどでは、戦闘用に武器を仕込んだ重義脚ヘヴィ・レッグも扱われているけど、運び屋ミュールである私には必要のないものだ。……割と頻繁に危険には巻き込まれている気もするけれど、武器じゃなくて逃げ足の方が大事だし。

 もちろん、義足の出力は人間の脚より強いから、格闘ケンカをしようと思えばそれなりにできる。素人がナイフや銃を持ち出してきたくらいなら軽くあしらえる自信はあった。


「……あむ。でもなー……」


 あんぱんを齧りながら、思い出すのは黒いハーネスの動きだ。怪我なく逃げおおせたのは、あいつが北楽さんを優先したからに過ぎない。多分、ちゃんとした戦闘技術を身に着けてるやつだ。数秒の交戦だったけれど、本気で襲われたら勝てる気がしなかった。

 武器を持つか。義肢格闘術アーティ・アーツでも習うか。どちらにしろ、すぐに強くなれるわけでもない。


「……次に出会ったら、やっぱり逃げるしかないか」


 溜息。悔しいけど、戦うのは本業ではないから仕方ない。

 考え事をしている私の視界に、何かが引っ掛かった。視線を巡らせる。明るい茶髪、ラフな白系のシャツ姿。バックパックを背負い、何やら後ろを気にしながら足早に歩いてくる男。物屋だ。

 歩いているのは住所から二本離れた通りだ。こっちの住所はダミーなのだろう。


「見っけ」


 食べ終えてしまったあんぱんの袋をしまい、ビルの屋上から飛び降りる。途中、ベランダや配管に脚を引っかけて速度を制御しつつ、二階で壁を強く蹴る。空中に飛び出して、身を捩って角度を調整し、目測ぴったり、物屋の前に降り立つ。


「なっ……なんだアンタ?」

「物屋さんだよね。手紙が――」

「……ッ!」


 言葉の途中で、物屋は身を翻して走り去る。思わぬ反応に、一瞬あっけにとられ、ぽかんと見送ってしまった。


「……っ、待って!」


 叫んで、追いかける。物屋の脚は結構早く、道を把握しているのだろう、迷いのない足取りで走っていく。


「待てこらァ!」

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