第24話
奈落のような人生だ。
自分のことを否定するしか知らないまま、ひたすら暴力に溺れた。
宵闇が風呂敷を広げた薄汚れた路地で、ねっとりとした空気を全身で味わい、呻いている連中を見下ろしていると、どすっと横腹に衝動に襲われた。かっと燃える痛みによろけると、自分を囲む男たちが見えた。
殴られ、蹴られて、罵られて――暴力に晒されるのは慣れっこだ。
痛みは鈍く、意識を奪っていく。
どんなことが起きても今よりずっとマシだ。
そっと頬に触れる冷たい感触に目覚めた。
誰かが自分を助けてくれた。
はっきりとしない視界でぼんやりと見つめていると手当される。
なんで
掠れた声で聞いていた。
助けてなんて言ってない
助けてほしくない、身に余るほどの自己顕示欲と、それが満たされないことに苦しむ声で訴えた。
その人は、自分の言葉を無視して、痛む手をとって撫でられて、涙が零れた。
囁くような声とともに差し出された、真っ白い花が髪にそっとつけられ、息することすら忘れて、なにもかも暴れたような気持ちになった。
紅色のなか微笑むその人はとても美しかった。
恋をした。
言葉も少なく、すぐに立ち去ってしまう無責任なその背に。
だからもう一度会いたいと願わずにいられなかった。なにも知らないし、わからないけれど、それでももう一度会って、花のお礼を口にしたかった。自分は、あなたに会えたから、こうやって生きようと決めた感謝と、命を捧げるように愛を口にしたいと思った。
「ヒメ、お兄ちゃんのお願い聞いてくれる?」
「絶対いや」
頬杖ついたヒメは胡乱な目でツギノを睨んで即答した。
前回と同じカフェに呼ばた地点で何かあるとは思っていたが、またか。
ヒメは事前に奢られた紅茶をすする。甘くて酸味の強いレモンティー。
「ひどくない? ふつう内容聞いてから反応しない?」
「いやったらいやよ。どうせろくでもないんでしょ?」
ヒメは白い歯を出して威嚇する。
ジンのところに通うのに忙しいのだ。ツギノのろくでもない任務なんか関わりたくない。
「ふーん、そうか。そういう態度なんだ。せっかく、ジンくん紹介してあげたじゃん」
「うるさいな。ジンさんは顔がいいし、中身もいいの!」
「顔に惑わされちゃってさー。あんなのどこがいいの?」
「失礼なこと言わないでよ。ジンさんは全部いいの! 最近は一緒にごはん食べてるし」
「は? ごはん?」
「うん。おいしいって言ってくれるもん。アタシと一緒だと」
「あらら、こりゃまずいね。……ヒメってさー、無神経でしょ」
「はい? なによ、喧嘩売ってる?」
「ジンくん好きなんてそうじゃないときついよ?」
「……どういう意味よ」
ツギノが真剣な顔になったのに、ヒメは座り心地が悪いみたいにお尻をもじもじさせてパンケーキを頬張る。
「ジンくんって顔がいいでしょ。けど、それが人生でいいことになるなんて少ないんだよね。むしろ、害になりやすいの。彼って神経質そうでわりと無頓着、けど、実は変なところですごく繊細さを発揮してるから壊れてるっていうの」
ツギノが両肩をすくめた。
「そういう風に生きるしかなかったタイプだよねぇ。だから全体的に感じることに関して鈍い」
確かにジンはかなり大らかだ。けど、それはいいところだとヒメは思っている。
「救って自分を肯定したいっていうの? だからジンくんの周りの女って幸薄いタイプが多いかんじー」
「アタシ、別に不幸じゃないし」
「そうかなー。それは脇に置いとくけど、ヒメといて食事がおいしいっていうなら、ヒメがいなきゃ味覚、ちゃんと機能してるのかねぇ。食欲と性欲ってわりと密接してるから、いけるか」
つらつらとあげられる言葉の意味を理解できずにヒメが混乱していると、ツギノがあっけらかんと聞いてきた。
「ヒメ、本当にジンくん好きなの?」
「……顔がいいもん」
「あっは、無神経~。あんなの付き合ったら不幸の底まで一緒に沈んじゃいそうで、やだけどなぁ」
「……兄さんは、ジンさんのこと嫌いなの」
「可哀そうなやつとは思ってるよ」
冷淡にツギノにヒメは眉を寄せた。
「まぁ、ヒメがそれでいいなら余計なことは言わない。応援するよ。で、依頼の話だけど……ヒメの気持ちがわかったからこうしよう」
「?」
「ジンくんに先に依頼しておく。誘う人を決めていいよって言うもんねー!」
「は」
「お前のこと誘わないかもねぇ。ちなみに今回の依頼は山奥にあるホテルの泊りがけ三日の調査! 調査中時間があけば観光してもいいし、あ、もちろん、全部、こっちもちっていう破格の依頼」
「ちょ」
目の前でツギノがさっさと連絡用の末端を取り出して連絡し始めたのにヒメは慌てた。
「ジンくん? 日本支部からの緊急の依頼でさ」
「あー、アタシも行く、行くっ」
ツギノが、末端から顔を離してにっこりと笑った。
「ジンくんも行くってさ、よかったねぇ」
してやられた。
資料を持たされ、ジンくんによろしくといい笑顔で言った兄の顔を殴らなかったのは後悔している。なにせ急ぎの仕事だと口にして伝票をもって風のように去ってしまった。本当に落ち着かない兄だ。
いつもの流れでジンの家に足を運び、慣れた動きで家事をしてしまう。
ジンは助かると口にしてくれるので、通い詰めてしまっている。
先ほどのツギノの言葉が浮かぶ。
けど、それをジン本人に聞くのは憚られる気がする。
今日はショウガをすりおろしがあるので生姜焼き。シャキシャキのキャベツとたれにつけた豚肉が食欲をそそる。
夕飯の支度が終わると、キッチンスペースは好きにしていいというお言葉に甘えて置いてある酒を吟味する。ウィスキーでつけたいちご、パイン、あとバナナ――柔らかくて、なかなかに難しいバナナだが、最近作った中では一番の出来だ。
そうこうしているとジンが帰ってきたので食事をすませて、任務の資料も渡しておく。
ヒメもざっと見たが、新幹線とバスを乗り継いで三時間ほどかかる山奥にあるホテル「風月」に行き、調査してほしい。内容だけいえば簡単だし、旅費はすべてUGN持ちなので太っ腹な対応といってもいい。しかし、あの兄が持ってきた依頼なのが気になる。どうも資料の端から端まで読むと、このホテルにはいくつかの曰くがあるらしい。
観光していいよと言っていたが、こんな山奥のホテルに泊まって、どうやって観光するんだ。やられた。
「ジンさん、お仕事平気なの?」
「三日程度なら、ヒメさんは?」
「もう夏休み入っちゃうから平気」
大学最後の夏休み。就職やならやらと動くべきなんだがヒメは今のところ焦りはない。
掛け持ちしているバイトのネイルサロンとバーテンダーをしている店が双方とも、ヒメを雇いたいといってくれている。
イリーガルをメインとするなら、長時間拘束される仕事につく事は出来ない。
これといってやりたいこともない。
いや、ある。あった。すごくある。
ジンの顔を見てヒメはすぐに思い出す。
初恋の人に会うは達成しているが、そのあとをまったく考えていなかった。
図々しくも積極的にここまできたが、これからどうしようか。
ジンの、柔らかな微笑みを見るたびに、どきりと胸が高鳴る。落ち着いた声を聞くたびに、胸の奥がむずむずと脈打つ。
困った。
ジンが視線に気がついて問いかけるような視線を向けてきた。
下からのぞくような視線は妙に色ぽくてヒメは、この視線に大変弱い。
「どうかしました?」
「えっと、あの、旅行の準備しないとなぁって」
「当日はよかったら泊まっていきますか?」
実は通い出してから、ジンには何度か泊まらないかと誘われてはいる。秋川の任務のときは二日泊まったが、それ以外は避けていた。自分だけ意識しているみたいで恥ずかしいが、やっぱりそういうのはよくない。と思う。
「ジンさん、いちご飲む?」
「……ウイスキーに漬けてるあれですか?」
「そうそう」
ヒメはいそいそと立ち上がり、いちごを漬けた瓶を取り出し、炭酸水で割って差し出した。
なめらかな甘みと酸味がほどよく、まろやかだ。
一杯目はあっさりと終わり、二杯目に移るとき、食べ終えた食器をキッチンに置いて、リビングのソファに移動すると本格的に飲み始めた。嘗めるように琥珀の液体を体内に取り込み、熱と酔いで意識を向上させる。
「旅行の日、泊まっていい?」
「いいですよ」
このやりとりをするためだけに三杯も果実酒を平らげてしまった。
「今日はどうします?」
「帰るわよ」
「酔っ払ってるみたいですけど」
「……酔いを覚ましたら、帰るわよ」
このまま飲むと確実に酔うと判断したヒメは動きを止めた。
「泊まってもいいですよ」
流されたい気持ちが五割くらいむくむくとこみ上げてくる。
「三十分したら、帰るわ」
酔っ払いのふりをしてジンに寄りかかって深呼吸すると、とても爽やかな匂いが鼻孔をくすぐった。
「ヒメさん、柑橘のいい匂いがする」
いちごみたいに甘い声で、うなじにジンの形のよい鼻先があたる、くすぐったい気持ちを酩酊したまま受け止めた。
これだったら無神経でもいいやとヒメは思った。
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