亡き息子の後悔

@kajirimushi

亡き息子の後悔

「あなた、おやすみなさい」

「あぁ、おやすみ」

私は、読んでいた本から少し視線を上げ、リビングから出ていく妻の後ろ姿を見送った。

妻の背中は半年前のあの日から日毎に小さくなっているように見えた。

あの日に起こった出来事は妻の心だけではなく、身体も押しつぶしてしているに違いなかった。

私は、妻と同じように小さくなったであろう自分の後ろ姿を思い浮かべながら、座っていた食卓の椅子から立ち上がり、玄関へと足を向けた。

時刻は23時を回ろうとしているが、私には行かなくてはいけない場所があった。

外に出ると、もあっとした生ぬるい空気が肌にまとわりついてきた。

8月のこの時間は昼間の強火で焙られる暑さとは違い、弱火でコトコト煮込まれるような熱を感じる。

額に汗をかきながら、10分ほど住宅街の中を歩いていくと目的地である近所の公園に辿り着いた。

街灯の明かりも少なく、真っ暗な夜中の公園に足を踏み入れると、車道とは反対側にある滑り台の横のベンチにいつもの背中があった。

「待たせたな。啓介」

「僕も今来たところ。今日も来てくれてうれしいよ。父さん」

私はその声を聞くと、薄く消えかかっている声の主の隣にそっと腰を下ろした。

隣から感じる気配は、生きてる人のそれとは違い、わずかに冷気を帯びていた。


仕事のお昼休憩の時間に息子の死を知らせる連絡を受けたのは、半年前の2月のことだった。

息子の啓介が前日の深夜に自ら命を絶ったのだと電話の向こうから教えられた。

啓介がもうこの世界にはいないなんて信じたくなかったし、そもそも信じられるはずがなかった。

間違いなく彼の人生は、死を選ぶ必要が全くない程に、順調であった。

当初、私はこんな風に現実から目を背けようとしていた。

しかし、病院で動くことのない彼を目にした時、現実が目の前に回り込んできて、もう現実から逃げることは不可能になった。

私は眼前の現実から悲しみ、絶望、戸惑いのような人間が感じるあらゆるマイナスな感情を押し付けられ、頭の中はぐちゃぐちゃになった。

その時の一つの感情ではいられなかった私は、彼に向って、

「どうしてなんだ」

と繰り返すことしか出来なかった。

自分の感情が悲しみだけだったなら、涙も流せたはずであるが、あらゆる感情が行き来する状態にあったために、涙は流れなかった。

そして、外に流れることなく私の中に留まった悲しみの感情は時間の経過とともに、なぜ、彼は死をえらんだのかという疑問と彼のために何かできたのではないかという後悔に変わっていた。

彼は遺書やそれに類する死を選んだ理由を窺い知ることができるようなものを一切残していなかった。

そのために、私は彼の死後に抱いた疑問と後悔から逃れられなくなった。

彼が私に残していった終わることのないこの苦しみはなんとなく私に対する何らかのメッセージを有しているようにも思われたが、そのことを考えれば考える程に、彼が私に見せていなっかった本心からかけ離れていく気がした。

そのことに恐怖を覚えた私は、自分の中にある疑問や後悔の答えを探すことを止めた。


 私が毎夜あの公園を訪れるようになったのはつい2週間ほど前のことだった。

その日、私は寝つきが悪かったため、23時頃から近所を散歩していた。

そして、この住宅街に引っ越してきたばかりのときに、まだ幼かった啓介とよく来ていたこの公園をふと思い出し、久しぶりに行ってみることにした。

公園に足を踏み入れると、目の前に広がる暗闇にかつての啓介と遊んでいる明るい風景が浮かび上がり、私は立っていられないほど胸が苦しくなった。

呼吸をするたびに、公園を包むその暗闇が体内に入り込み、私の中にある彼との思い出が吐き出されている気がした。

私は自分を落ち着かせるために滑り台の横にあるベンチに移動し、腰を下ろした。

「父さん、本当にごめんなさい。本当に、ごめん」

私は瞬時に後ろを振り返った。

もう二度と聞くことができないと思っていた声が聞こえ身体が自然に反応していた。

暗闇で、姿を確認することは出来ないが、私の視線の先に何者かがいる気配を感じたため、聞こえてきた声が自分の聞き間違いではないと思った。

私が声に反応したことに気がついたのか分からないが、少し離れた場所にあった気配が私に近づいてきた。

こっちに向かってきているはずなのに足音はせず、なぜか徐々に私の周囲に冷気が流れ込み、寒気がした。

私は動揺した。誰がこっちに向かって来ているんだ。なぜ、足音がしないんだ。この不気味な気配はなんなんだ。頭の中で疑問が水泡のごとく浮かんでは消えていった。

聞こえてきた声とその声に乗せられたメッセージから、自分に話かけてきたのは啓介だとしか考えられなかった。

しかし、私は、当然のことながら、彼がもうすでに死んでいて、彼が私の前にもう一度姿を現すことは起こり得ないないということも理解していた。

背中に冷たい嫌な汗が流れるのを感じた。

「ごめん、本当にごめん」

さっきよりも大きく、はっきりとその声は私の耳に届いた。

姿は見えないが、すでに誰かが、啓介と同じ声をした何者かが、私の近くにいると悟った。

「啓介なのか…」

恐る恐る暗闇に向かって投げかけた自分の声は、恐怖のせいなのか、あるいは、あり得ない事柄を尋ねているせいなのか、想像以上に小さく、か細い音になってしまった。

私の声が暗闇の中に消えていき、しばし沈黙が流れた。

私は自分の声が届いていないのかと思ったが、そのしばしの沈黙は衝撃的な一言で打ち砕かれた。

「うん、僕だよ父さん」

この瞬間に私の持っていたこの世の常識は、私が直面した現実によって圧倒された。

私は、自分の近くに死んだはずの啓介がいることを確信し、啓介の存在を受け入れた。

「どこにいるんだ、啓介。どこにいるのか教えてくれ」

私は彼を探すために立ち上がったが、その必要はなかった。

幽霊はその存在を信じている人にしか見えないということなのか、啓介は私の目の前に立っていた。

私の目に映った彼の姿は、うっすら消えかかっていて、膝から下は完全になくなっていた。

「驚かせちゃったよね。」

彼は異様に青白い顔で微笑んで、私に語りかけてきた。

「啓介、お前はもう死んだはずじゃなっかたのか。どうして、私の前にいるんだ。」

彼を目の前にして、私の感情は昂ぶり、語気が強くなった。

血が通ってない彼とは対照的に、私の体中の血液が勢いよく全身を駆け巡り、沸騰したように体が熱くなるのを感じた。

「僕は確かにもう死んでいる。僕の体はもうこの世にはない。だけど、魂はまだあの世に行くことができないんだ。」

彼は私の目をじっと見つめて、話を続けた。

「父さんも死んだ人が三途の川を渡るのは知っているだろう。僕も三途の川を渡ってあの世に行こうとした。でも、渡っている途中で、何かに引っ張られるように体が沈んでいって、川を渡りきる前にこの世に戻されてしまうんだ。」

彼は声を震わせながら、私に自分がなぜここにいるのか必死に伝えようとしていた。

私は黙って彼の話に耳を傾けた。

「僕は半年前のあの日からずっとこの世に存在し続けていた。なぜ自分が三途の川を渡りきれないのか分からず、どうすることもできなかった。でも、最近、自分と同じように死んでいるのにこの世にとどまっている人達を見て、三途の川を渡っている途中に僕を引っ張ている正体はこの世に残した後悔なんだと気づいたんだ。」

一語一句噛みしめるように話す彼の目は潤んでいるように見えた。

「父さん、僕がこの世への未練を断ち切るために、少し付き合ってくれないかな」

息子が私に何かをお願いするのは、初めてのことだった。

私はただ頷くことしかできなかった。


 深夜の公園で啓介と会うようになってから、いくらか時間が経ったが、特に特別なことはしておらず、暗闇に包まれたベンチで会話しているだけであった。

啓介がこの世に残した後悔が何であるのかについては、なぜ自ら自分の命を終わらせるという選択をしたのかすら分からない私には見当がつくものではなかった。

そして、この事実を前にして初めて自分が啓介が何を思い、どういう価値観で生きていたのか、彼自身のことが全然分かっていなかったのだと知った。

私の中の啓介は、私や妻の言うことに反抗したことがないような素直な子であり、良い子であった。

今日は、啓介の22回目の誕生日で、初めて公園に啓介が現れた日から徐々に失われていた吐き気を催すほどの緊張感が二人の座るベンチを覆っていた。

これまでなら、啓介は挨拶を交わした後「今日はどうだった?」と聞いてくるのに、今日はまるで存在しないかのように暗闇に溶け込んでいた。

私は、啓介の誕生日であるこの日に何かあることを初めて公園で啓介と会ったあの夜から半ば確信していた。

私は、啓介の誕生日であるこの日に彼がこの世に残した後悔について聞こうと思っていた。

そのため、ここまでは彼の口からその後悔について語られるまで私からはそのことについて聞かないようにしていた。

私が彼の後悔について知り、その後悔が解消されてしまえば、こうして彼と会い、話すことができなくなる。

私は彼に完全にあの世に行ってほしくなかったし、そして、何よりも啓介の後悔の内容を知るのが怖かった。

だから、私は彼の口からそのことについて語られるまで待つことにしていた。

「今日は僕の誕生日だよね」

啓介が口を開いた。

「本当なら僕の22歳の誕生日・・・」

消え入るような力のない声。

「そうだな」

もちろんおめでとうと誕生日を祝うことなどできず、続ける言葉が思い浮かばない。

額にじっわとした汗が浮かぶ。

深夜の夜風は生暖かい。

「覚えてるか、小学校3年生の時の誕生日」

私は、当たり障りのない思い出話に逃げようとした。

まだ、彼の後悔について知る覚悟は決まっていなかった。

しかし、彼はそれを許さなかった。

「父さんは、僕が将来何になりたかったか知ってる?」

「公務員を目指していたんだろう?」

昨年、彼と大学卒業後の進路について話した際に、彼は地元の役所で働きたいと話していたのを思い出す。

「確かに、僕はそう話してた。でも、本当は、違うんだ。僕には大学卒業後になりたいものなんてなかった。というか、自分のことについて自分がどうしたいのかが何も分からなかった」

私は戸惑った。なぜ、彼がこの話をしたのか。その意図が汲み取れなかった。

それでも、彼がこの世に残っている理由である彼の後悔についての話だということだけは悟った。

「啓介は自分の進路、いや、将来について悩んでいたのか。全く気づけなかった。すまない。でも、若い時はな、誰しも啓介と同じように悩むもんで、俺も大学生の頃には悩んだよ」

私は目の前の暗闇に彼と同じように自分の将来について悩んでいた自分の姿を浮かべた。

確かに、あの漠然とした不安に直面していた時期は苦しかったなと当時の自分を客観的に観察していると、啓介の震えるような声が聞こえた。

「そう、僕もみんなも同じように悩んでいて、自分が特別であるなんて全く思ってなかった。ただ、一つだけ、みんなにはあって、僕にはなかったものがあったんだと今は思う。」

私は唾をゆっくりと飲み込んだ。極度の緊張が口の中の水分を奪っていく。

啓介は淡々と話しているように思われた。

そのため、彼の言葉が私の体を通り過ぎていかないように彼の言葉を必死に受けとめる必要があった。

「父さん、僕になかったものはね、自分のことを自分で決める経験。これが生きてきた中でなかったと思う。もちろん、どんな服を着るだとか、何時に寝るだとか、そういう日常生活のことは自分で決めてた。でも、幼少期の習い事とか学校の進路とか、友人関係とか、ここまで、自分の人生を形作ってきたものは全て父さんと母さんが決めた。だから、僕という存在は、父さんと母さんの理想の形をしていて、その形から変形することは許されなかった。なのに、父さんたちは大学卒業後の進路については具体的に指し示してくれなかったよね。ここまで、自分で何も決めてこなかったのに、急に投げ捨てられて、どうしていいか分からないじゃないか」

哀しみ、怒り、絶望、困惑、様々な色がついた啓介の声が、私の身体に残った。

啓介が鼻をすする音が聞こえ、隣にいる彼の方を見やると肩が微かに揺れていた。

「半年前の僕は自分ではどうすることもできない漠然とした不安から逃れようと必死だった。結果的に人生で唯一自分の意思で決めたことが自分の命を終わらせることだったなんて笑えないよね」

そう言うと彼は自嘲気味に笑った。

「すまなかった」

私はなんとかこの一言を罪悪感で充満した身体から捻りだした。

啓介の後悔は私に対する恨みをぶつけることだった。

ただただ、彼に対して申し訳なかった。

私と妻が結果的に彼を追い込んでしまった。

それでも、私たちが啓介のことをとても大事に思っていたことは伝えたいと思った。

啓介の後悔を受け止める決心がついた。

私はベンチから立ち上がり、啓介の正面に移動した。

少し驚いた表情の彼の目を見つめる。

「啓介、父さんたちは啓介のことを本当に大事に想っていたし、愛してた。啓介には幸せな人生を歩んで欲しかった。それだけは分かって欲しい。」

暗闇の中に青白い啓介の顔が浮かんでいる。

言葉がない公園には沈黙だけが流れる。

彼は口を開くことなく黙っていた。

でも、お互いの目を通して心で通じ合えている。自然とそう思えた。


翌日の23時。

私はいつもの公園に向かい、いつものベンチに腰を下ろした。

ただ、いつもとは違い、ベンチの隣は空いていた。

私はベンチに寝そべり、昨日のことを思い返した。

昨日は、はじめて啓介と本心で語り合い、彼とどんなものよりも強い絆でつながることができた。

ふと、彼は私に文句を言いたかったのではなく、最後に親子としてのつながりを求めていたのだと思った。

私には生前にそれを与えられなかったという一生ものの後悔が一つ増えた。

反対に彼は自分の後悔を私に引き継いだことで旅立つことができたのかもしれない。

深夜の公園のベンチで寝そべる私の視界には、無数の輝きが広がっている。

しかし、空には雲ひとつないのに、その輝きがぼやけはじめた。

満天の星空にいつか流せなかった涙が流れた。

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