第152話 この世界の歩き方。
上級精霊の戯れに付き合わされ、マリの偽物と会話を交わした後の彼女の行動は早かった。さっさとこちらの服に着替えるや『家にいる時でも鍵はかけとけよ』と偽物に告げ、ハツカネズミに戻ってしまったわたしと、何故か縛りのない金太郎をポケットに詰めてあの部屋を飛び出した。そして――。
『良いか忠太、金太郎。これから私が良いって合図するまでは、絶対にポケットから顔出すなよ』
十五分ほど前にそう真剣な表情で言ったマリが足を踏み入れたのは、エドの店よりも大きくて、全面ガラス張りという高級店だった。入口は手を使わないでも勝手に開き、どこにあるのか見当たらないドアベル(?)が鳴る。ベルというよりは音楽かもしれない。
軽快な音楽は人が入店するたびに店内に鳴り響き、その音で客の来店に気付いた店員達が「ぃらっしゃいませー」とやや活気のない声で迎えた。
暑い季節の服ということで繊維の目が粗いために、よくよく目を凝らせばうっすらとだが外界が見える。全神経を視神経に集中させればそれなりになった。
店内の棚には色とりどりの袋に詰められた商品が並び、スマホで撮ったような写真が何枚も綴られた本が並ぶ棚や、飲み物と思しきものだけが整然と並んだ棚まである。他にもパンだけの棚、薬(?)の棚、従魔用の餌棚など。全てが一目で分かる形に揃えられていて素晴らしい。
好奇心の強い金太郎がポケットから脱走しようとするのを阻止しつつも、わたしも外への興味が膨らむのを感じた。しかしマリはそんな店内の商品には目もくれず、白い箱型の物体とスマホとを交互に睨みつけ、時折唸りながら箱についているスマホに似た画面を操作している。
驚くべきはその箱から吐き出されるおそらく紙……だろうか。同じ大きさの均一な薄さをした真っ白で上質なそれに、真っ黒で掠れることを知らないインクがオルファネア文字を綴っていく。
その原文はイレーヌ・ルキア・コルテス夫人の曾祖母の小説であり、これまでにわたしとマリが隙間時間を使ってオルファネア文字に翻訳したものだ。店員が時折マリの様子を窺いにくるが、マリは「〝他の客が来たらすぐに譲るから〟」と言って追い払っている。
しばらくして他の利用客がやってきたのか、マリが溜息をついてその場を移動する気配。少し店内を歩き回って商品をカゴに入れ、店員とマリの声が聞こえて、またあの音楽を聴いた。ポケットの中で耳をそばだてると、店に辿り着くまでにも聞いた外の音がする。
この世界は精霊の気配がほとんどない。極稀に何かを感じることもあるが、あちらの世界と比べればないも同然だ。急に身体が弾む。マリが走っているのだろう。ややあってから、またあの音楽が聞こえた。
そうして再びあの謎の箱と睨み合うマリ。一店舗目とあまり変わらない見た目で、店員とのやり取りもそう。その後も同じような品物配置、同じような店員、同じような箱の店を何店舗か渡り歩いた。
ポケットの内側から聞くマリの心音に不安を感じ始めた頃、やっと歩調が緩やかなものに変わって数分後。やっと「〝お待たせ。もう出てきて良いぞ〟」と声がかかったので顔を出せば、比較的緑のある場所のベンチにいるのだと分かった。公園……だろうか。周囲に人影はない。
「はー……走った走った。忠太も金太郎も待たせてごめんな。スマホ印刷使えるコンビニって結構この辺少なくて。揺れで気持ち悪くなったりしてないか?」
額の汗を拭いながら差し出されるスマホに【だいじょうぶ】と打ち込む。金太郎はベンチの上で久々の自由を満喫中だ。
スマホの文字を読んだマリが「良かった。じゃあ早速お願いがあるんだけどさ。えーと〝一冊から印刷可能、手書き原稿の印刷持ち込み可、最短翌日〟みたいな印刷所を探してほしいんだ」と言われ、初めて食べるバナナロールとカフェオレとメンチカツパン、タラコとシャケとウメシソのオニギリと緑のお茶で鋭気を養い検索能力を奮った。
近場で検索に引っかかった場所のうち評判の良さそうな印刷所に決め、分厚いオルファネア文字がびっしり書かれた紙の束を鞄に突っ込み、わたしと金太郎をポケットに入れて再び移動。馬のいない、非常に長くてうるさい鉄製の車に乗った。
マリがこっそり「〝ちょっとだけな〟」と言って見せてくれたポケットの外は、飛ぶように通りすぎるガラス窓越しの風景。馬車の相乗りは普通だが、座席に座らずに立ち乗りするのは始めて見た。しかし誰もが皆疲れた表情をしている。
不思議な体験を経て着いたのは、お世辞にもあまり綺麗とは言えないが、上質なインクと紙の匂いがする印刷所で。従業員らしき人物とマリが、印刷してきた紙を挟んで打ち合わせをすること一時間。
仕様が決まったらしく、ホッとした声のマリと「〝同人誌でこんなに手の込んだ人工言語使うなんて本格的ですねぇ。出来たらホームページに上げても良いですか?〟」という従業員の声に「〝勿論。その代わり贈り物用なんで、綺麗に仕上げて下さいよ〟」と冗談ぽく答えていた。
印刷所を出て次に向かったのは、家の間取りが一面に貼り出された店だ。ただ……何と言おうか、どれも全体的に狭い気がする。けれどマリはわたしと金太郎を掌に乗せて「この中ならどこに住みたい?」と尋ね、困惑しつつ指を差すわたし達の反応を見て楽しげに笑った。
あてもなく歩きながら時々買われる飲み物や食べ物に感心したり、昇降する箱に乗って「さっき忠太達が住みたがってた部屋が、大体このくらいの高さな」と言って、人がたくさんいる高い塔に登ったり。
異文化の民族同士でも困らなさそうな、多種多様な服を大量に扱う問屋街(?)に行ったり、あちらの世界では見ないような建造物を訪ねたりするうちに、すっかり陽は傾いて。
「んー……仕事しないで一日遊んでみても、案外金の使い道って分からないもんだよなぁ。腹減ったし、忠太が人型でも食べられるように何か買って帰るか。せっかくだから私の偽物にもな。故郷っつーか、私の国のご馳走の味を教えてやるよ」
そう弾む声で彼女が購入してくれたのは、昼間に食べたオニギリに使われていたコメの上に生魚が乗った〝スシ〟という不思議な料理で。生魚とコメの間に挟まれた緑色の物体に、鼻と喉と目をやられて涙が止まらなくなった。初めて食べたその刺激的な味は、この身が滅びるまできっとずっと忘れない。
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