自滅

メガスターダム

序章

第1話序章1

 札幌市中央区の藻岩山の裾野に、閑静な住宅街が並ぶ伏見地区がある。近年はオシャレなレストランなども多く、やや高級住宅街としての様相も出てきたが、古くから近隣に住む人にとっては、自然豊かな小高い丘の地区というイメージの方が強いだろう。


 そんな伏見地区の普通の住宅街の中に、「Mature」というハーブティー専門の喫茶店(以降「マチュア」表記)がある。マチュアとは、紅茶などの発酵食品が「熟成された」状態であることを意味する形容詞だ。一方で人に対しても用い、「成熟した」「分別のある」「賢明な」などの、いわゆる年齢や人格面での「大人」を形容する言葉でもあった。


 店主である西田由香は62歳の初老の女性だ。元々は専業主婦であり、趣味で始めたハーブティーが高じて作った店でもある。店舗については、以前に別のオーナーが普通の喫茶店をやっていたものを譲り受け、いわゆる「居抜き物件」として、前の店舗の内装や設備をほぼそのまま利用し、余計な出費を抑えていた。


 他のスタッフと言えば、高校時代の同級生で元北海道警察の刑事であり、定年退職済みの夫である西田敏弘が、暇つぶしも兼ねて手伝っていた。しかし実際のところは、せいぜい客の注文を取り、テーブルに品を運び、清掃する程度で調理などは一切行っていなかった。詰まる所、彼は店にいる時間の大半は新聞を読み、テレビを見、たまに常連客と世間話をする程度のことしかしていなかったとも言えた。一昔前であれば、死語になりつつある「濡れ落ち葉」と称された、定年退職後に何もすること無く妻の後をついて回るしか能がない夫と、はっきり言えば余り変わらないのかもしれない。


 因みに、店名の「マチュア」とは、敏弘が警察時代に部下だった、竹下という現在はフリーライターをしている男が、妻の許可を得た上で、敏弘(以降「西田」と呼ぶことにする)に頼まれて付けた名前であった。由香もその由来を聞いて、「ハーブティーを扱っていて、熟年の私達夫婦の店にピッタリね」と喜んだネーミングでもあった。


※※※※※※※


 梅雨がないと言われる北海道にとって、最も過ごしやすいと言われる初夏にさしかかる5月末。午後2時を回ったマチュアには、近くに住んでいる常連客2名の他に、既に嫁いで長女(愛莉あいり)と第二子長男(満博みつひろ)の2人の子供がいる、西田夫妻の一人娘である美香が遊びに来ていた。満博はまだ3歳ということもあり、美香と一緒に店に来ていて、祖母である由香に抱きかかえられながら甘えていたが、愛莉は既に小学校3年生で、今の時間帯は通っている円山小学校にまだ居るはずだ。そろそろ娘が下校するので、美香は時計を見ながら帰宅の意識が出ている様でもあった。


 嫁いでいるとは言え、娘夫婦は伏見地区までバス1本で15分も掛からずに来ることが出来る、地下鉄円山公園駅の傍のマンションに居住していた。そんな訳で1週間に数度の頻度で来ていることもあり、ほぼ「スープの冷めない距離」と言われる関係に今でもあった。


 美香は大学卒業後、札幌の地銀に就職し、夫の坂崎 みつるとはそこで出会い恋愛結婚していた。特に何か秀でているということもないのだろうが、銀行マンにしては仕事外でも温厚であり、西田も由香も普通に2人の結婚を祝福し今に至っている。結婚生活も長くなってきて、夫への不平不満を口にすることはあるが、まあまあ満足出来る結婚生活の様で、西田夫妻もその点は安心して見守っていた。


 由香と美香が子供(孫)の話をしている間、西田は店のカウンターの中で、母娘の会話を邪魔しないように新聞を見ていた。すると、突然美香のスマホから着信音が鳴った。会話を中断してスマホを見た美香は、

「学校からの連絡で、また不審者情報だわ……」

と一言呟いた。特に聞き耳を立てていた訳ではないが、西田は元刑事の性か、

「不審者?」

と新聞から目を離して、無意識に娘に確認していた。


「お父さんが気にする様な大袈裟な話じゃないのよ。昨日の夕方、子供達がサッカーで遊んでいた学校近くの公園のグランドに、ジャンパー来た中年ぐらいの男が来て、『お前ら楽しそうだな。俺も入れろ』って言ってきたんだって。で、子供達が断ると、『つまらないガキ共だ』と捨て台詞を吐いてどっかへ行っちゃったんだってさ。学校と保護者を繋ぐSNSでそういう情報が入った、それだけの話よ」

それを聞いた西田は思わず、

「はあ? 不審者ってただそれだけのことか?」

と呆れたように聞き返したが、娘が答えるより先に由香が、

「時間帯的に『普通』の中年男性は仕事してるし、子供に近付いたってことで、一応保護者に知らせたんじゃないの?」

と返してきた。

「いや、そりゃそうかもしれんが、平日休みの仕事だって普通にあるし、子供に近付いたって、昔はそこらへんの暇してたおっさんが飛び入りで、俺達がやってた野球に参加するとか普通にあったからなあ……。ちょっと過剰反応じゃないか?」

西田は改めて懐疑的な見方を口にした。


「確かにお父さんの言う通りかもしれないけど、今は子供が巻き込まれる事件も多くなってるから、親以上に学校の方が敏感になってるのよ……。何かあったら責められるのは学校だし。お父さんだって警察なんだから、何かあった時に色々言われる側のことはわかるでしょ?」

そう娘に諭され、「うーん」とそれ以上の反駁はんばくする術を失ってしまった。しかし苦し紛れに、

「ますます世知辛い世の中になったもんだな」

と捨て台詞を残して、西田は再び紙面に視線を向け始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る