知らない天井?
僕は素直に答える事にした。ありのままを伝える方が誤解を生まずに済む。
「ただの同期だよ。神下部長と三人で良く居酒屋に行ってたな。今井が想像するような関係じゃないよ」
「そうなんだ。てっきり距離感が近くて彼女だったのかなーって思っちゃった」
事実として睦月モエは同期である。部署が違うにも関わらず僕たちの繋がりがあるのは神下部長の手腕でしかない。あの人が居なければ僕はモエと話す事も無く……いや、事務的なやり取りだけで数年後は記憶にも残らない小さな繋がりしか無かったと思う。
面白い人だとすぐに思い浮かんだが、正直な話――彼女は面倒な奴だ。距離感の測り方が分からない人だと僕は思う。最初から僕に対しての扱いはあんな感じで馴れ馴れしく絡んできていた。雑な扱いを受けていた僕はこんな人が居るんだと驚きを隠せなかった。
ブレーキの壊れた暴走車の如く僕のプライベートに突っ込んでくる睦月モエ。
今振り返ると初対面の睦月モエは僕に対して悪口を言っていた気がする。アレは初めて神下部長に連れられて同期や先輩を含め十数人で居酒屋に足を運んだ時だ。
当時は新人だった僕には理解出来ないメンバーだった。例えば同じ部署で顔を見合わせてお仕事する間柄ならば関係値を深める為に言葉を交わす理由も理解できる。
しかし、この胡散臭いおっさん……じゃなくて神下部長は様々な新人と先輩を織り交ぜていた。
決して関わりも素性も知らない人と接する方法が分からなくて、何をどうしたらいいのか戸惑い僕はちびちびと甘くて飲みやすいお酒を飲んでいた訳では無い。誰にも話しかけず話している人達を眺めながらお酒の味を楽しむ大人なだけだった。
周りを眺めながらフルーティーな匂いに集中している僕の耳に『あの時の案件は何度も仕様変更があって面倒だったよな―』と愚痴で楽しんでいた先輩社員の声が入ってきた。
ちょうど対角で人盛り上がり起きた。
ガブガブと目を見張る豪快な飲みっぷりの女性に拍手が起きる。僕も成人してお酒は少しだけ飲む機会はあったが自分の許容量はまだ分からない。生ジョッキを凄い勢いで飲む女性には感服した。
おかわり! と元気に声をあげて女性はトイレへ席を立った。
元気な子という印象を僕は抱いた。僕の向かいに座る神下部長は強そうなお酒を飲んで一人で楽しんでいる。こちらはアルコール度数が高そうな名前で僕とは無縁の酒だろうと判断した。
まだ神下部長の事は良くわからない時期で何の話題を振ればいいのか迷ってしまい、どうして僕が話しかける必要があるのかと脳裏に過り僕は黙って飲んでるおっさんを眺めながら甘いお酒を飲む。
「やぁ、飲んでるかい? 酔っ払いのお姉さんが側にきたぞ」
「あー、飲んでます」
席を立った先程の女性が僕の隣に座り込んだ。飲みっぷりは良かったが直ぐに酔う人――睦月モエは酒癖が悪い。
「ふぅーん。ふふぅーん。どれどれー」
僕の手からお酒の入ったコップを奪い取りゴクンと飲み干す女窃盗がそこに居た。
「ジュース。ジュースねこれ。あ、きたきた」
頼んでいた生ビールが届いてしまった。
「ジュースなんか飲まずにほら、酒飲め」
「結構です」
僕はこの酔っぱらいをどうにかしないと……神下部長に目線を配ると笑顔で親指を立てていた。役立たずである。
「モエのビールが飲めないってんのか!」
睦月モエという女は少し古いタイプの厄介な酒飲みに変貌していた。
「自分で飲んでください」
「まぁまぁまぁ」
睦月モエは僕の頭を左腕を使い固定して逃げられなくし、右腕にジョッキを持って僕の口元に運び始めた。急な密着に僕は驚く間も無くお酒が口元に……無理やり飲まされた。
本当に迷惑な奴だった。嫌がる人にひどい仕打ちをする最悪な奴。
「次やったらマジで怒りますからね」
僕は事故に合った。事故としか言いようが無くそれ以外の表現が難しい、同じ会社の人間とは言え僕が嫌がる様子を無視して行動に移す同期に偶然ぶつかった。
とても頭にきていたが僕も大人だ。なので、声を荒らげる事も無くいつも通りに注意したつもり。
「……ひっぐ……うえええぇぇぇぇぇん」
大人のガチ泣きだった。睦月モエという傍若無人が僕の隣でそこそこの声で泣いた。
酔っ払いとは言え、社会人かつ大人の女性が隣で泣いている。僕は助けを求める様に神下部長を見たら目を逸らされた。必ずしも先輩達が助けるとは限らない。一つの社会経験である。
「泣かないでください。困ります」
「だってー、顔が怖かった」
「そりゃ、誰だって無理やり飲まされたら怒りますよ」
「お酒嫌い?」
目を真っ赤にしたモエへ僕は一歩引いて答える。
「別に嫌いじゃない」
「良かった。じゃあ、はい」
おっと、ジョッキが僕に近づいてくる。
「いや、だから……」
「あ、本当は嫌いなんだ。私の事も嫌いなんだ!!」
その時に僕が冷静なら『はいそうです』と言っていたかもしれない。しかし、泣きべそかいた大人の女性が理解不能な事を言いお酒を近づけてくる。周りの大人は助けてくれない。というか、あの子泣いてる!? どうしたの? ってこそこそと話していた。とても、気まずい。その気まずさに僕が折れる事にした。
「飲むよ。飲みますよ。飲めばいいんでしょ」
「やったぁぁぁぁ!」
この酔っぱらいは泣いていたかと思えば笑い出す子供のようだ。
先程の飲みっぷりを再現するような勢いで僕は気合を入れて飲み干した。最初に感じた味は若干苦いけれど、炭酸も強くなくて飲みやすい。普段甘くて飲みやすいお酒しか飲んでないのでまともにビールを飲むのが初めてだった。
「ふぅー、はい。飲みましたよ」
「おぉー!!! ところで、名前は?」
そもそも名前を教えて居なかった。そこで初めてお互いの自己紹介を済ますと次のお酒が用意されていた。
「さぁ、飲もう!」
僕は諦めて死んだ目をしながら睦月モエに付き合った。つまり、何が言いたいのか……睦月モエとはデリカシーの無い最悪な奴だ。
出会った頃は最悪でも、気がつけば神下部長と三人で飲みに行く仲である。
思いにふける僕は適当に概要だけ今井に伝えることにした。
お酒の繋がり、そう飲み仲間である。会社で何かあったら呼び出されて飲みに行き。定期的に神下部長が開催する時に飲みに行く……お酒を飲みに行くだけの関係値である。
「ちなみに先輩」
今井は手に顎を乗せて言葉を選んでいる様に見えた。
「何かな?」
僕は涼しい顔で今井の言葉を待つ。
「知らない天井で目覚めた事……ある?」
どういう意図の質問だろうか……目が覚める。そう、布団から目を覚まして天井を見ている事は想像できる。
もしかして、誘拐されて起きたら知らない部屋だった経験が今井にはあるのかもしれない。他人の過去は想像できないくらい色々な事が起きている。僕はそっと、今井の肩に手を当てた。
「大変だったんだな今井……」
「えぇ? カナが? どういう事? 結局、先輩は睦月先輩の家で目覚めた事は無いの?」
あれは無理やりビールを飲まされた時に気がつくと睦月モエの家で二日酔いの頭を抱えていた記憶が蘇った。
「あるぞ」
「あー! やっぱり!」
「でも、安心しろ今井。僕は君の過去を気にしない。楽しく行きていこう!」
「私の過去……うん?」
戸惑う今井を放置して僕は定時が迫っている事に気づいた。
「何か美味いもん食べに行くか」
「わぁ! 行きます」
知らない天井を忘れてもらう為にも、今日は今井に手厚く奢ろう!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます