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人間の精神を壊すのに極端な悲劇は案外不要だ。人生で一度も壊れたことがない人はいないのではないかとさえおもう。壊れたあとは決して元どおりにはならず、人々はひずみを抱えたまま何食わぬ顔で社会に溶けこんでいく。
先生と過ごした五年間をおもいおこす。俺は他者に迷惑をかけてもあの五年間に説明をつけたい。理由を明らかにし、納得したい。喉に引っかかった錠剤みたいなこの渇望は最期まで解毒されない。真珠先生長期監禁事件から救いだされたのは十歳のときだが、昨日も今日も救いを探しているし、明日も明後日もきっとそうする。
――あとで話しかけろとレトさんがおっしゃいました。
期待をしていなかった普通の人間、の予期せぬ行動に俺は気持ちが動くのを感じていた。
事務室のド真ん中でノアトによってあれほどあからさまに俺のほうが間違っていたと認めさせられたことで彼女の溜飲はさがったはずだ。それ以上こちらになにを求めるのか。
大抵は俺がなにかやらかしたあとにノアトや上司が大仰にいかりを表現すると「充分な制裁を受けた」ものと解釈されて相手が波風立てなくなることが多い。
ノアトの散弾銃と毒舌はそのための昔からのパーフォーマンスだ。あいつは医療魔法の全分野の医師免許を持つが、魔法で治療不可能な精神医学には手をだしておらず、とはいえ感情を読み取るすべには長けていた。
――凶暴な執行官がいきなり新人を撃ったらまわりがきちんと対処するのでお任せください。貴方が被害者側であることはみんな認識していますよ。
無骨な散弾銃はそういうメッセージだ。たとえノアトが実際には命中させられずとも、撃ってすらいなくとも、俺本人の謝罪と同等のインパクトがある。
新入職員にはありがたいだろうこの救いの手を丁重に断ってまで十六歳の非戦闘職員は俺に直接なにを言いたいのか。じかに謝罪させるまで食ってかかるつもりか? なら彼女に勝算は無い。
〈
思考はほんの数秒だった。俺は広げていた紙の書類をデスクの上に戻した。
思春期の子どもらしい無謀さ、ほんものの圧倒的暴力でねじ伏せられた経験が無いゆえの青さ、甘ったるい罪なき無知。
じつに微笑ましい。
犯罪課や鑑識課の男性陣は可愛い新人心配アピールタイムにいったん区切りをつけ、PCの空中ディスプレイを覗きこみながら件の「奇形の天使」調査を再開している。創作魔法、署名的行動、自己顕示欲、秩序型、連続犯……事件関連の単語がせわしなく飛び交う。
つけっぱなしにされたテレビ画面で国営チャンネルのニュースの合間に先週公開された新作映画のCMが流れる。流行りものに疎い俺でも知っている話題の若手監督だ。何気ない日常シーンへ意味不明なモチーフを意味深に紛れこませ、考察厨をにぎわせる安っぽい個性を俺は嫌っている。CMのあとに何処かの有名大学の社会学教授が訳知り顔で嘆いた。
「歴史は繰り返すと言いますが、大昔、魔法期よりずっと以前ですね、電動式機械のPCやスマートフォンが普及した時代と同様に、現代は魔法によって人々の性格、生活、文化は如実に画一化され……――個をかたち作るものはもはや『新しい要素』ではなく『既出の要素の組み合わせかた』で、それすらも既出であるため……若者の承認欲求はますます危機的にねじれて……既存の代替可能な歯車、という自己認識が生きづらさを助長させている現状を……」
俺はテレビから視線を外し、再度新人へ向けた。デスクに放置していた冷めた珈琲を一口飲む。
「移動するか?」
黙りこくって突っ立っているので訊いた。大騒ぎして承認欲求を満たしたいのならばもちろん人のいる此処がいいと即答する。ご希望にお応えし、存分にやっていただこう。
「えっ……あ、わたしはどっちでも、です。レトさんはどっちがいいですか?」
ミルクティーベージュのボブヘアが困ったようにわずかに揺れる。
へえ。無言で続きを促す。
少女は指先でネックレスに触れ、慎重に言葉を選んで言った。
「では、あの、レト・Vさん、先ほどのことですが、わたしは、あー……わたしのせいで、えっと、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。やってはいけないことを教えてくださってありがとうございます。ほかにもあるとおもうので、教えてください。わたしの」
ノアトがわざわざ散弾銃まで使って
「わたしなんかのせいで先輩が怒られてしまう感じになって、ほんとうにごめんなさい。質問が一個あります」
鬼気迫るなにかを隠しきれていない。
「――事務室で射殺された場合も、殉職ってことになりますか。なるなら撃っても大丈夫です」
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