林檎と壊死とパリンプセスト
五水井ラグ
パリンプセスト:いびつな上書き保存
Part.0 クレッシェンド:満ちてゆきなさい。いずれ欠けるとしても。
0-01
欠陥品の夜だった。切り傷みたいな三日月が、雲に汚染されたまだらな空の濃淡へ、たったひとつの真実のごとく鋭くはめこまれている。
「ハァ? レト・ヴィーノ先輩。目つきサイアクの悪人ヅラでポケットからナチュラルにハンカチ差しだすんですかぁ? お上品に持ち歩いてんの? この魔法社会で? 何時代だよ。原始人じゃん。ムリムリキモイ。原始人紳士マジ爆笑なんだけど」
愛想よく振る舞うことも社会人として最低限の義務。
と日頃から声高に主張する新入職員の少女は、その義務とやらを自ら大手を振って放棄し、ピンクメッシュの入ったミルクティーベージュのボブヘアをいじくりながら、流行りのアイドルみたいに華やかな顔立ちへ最大限の嫌悪感を貼りつけて毒づいた。
対するこちらは無言だった。言いたいことは無いでもなかったが人との交流にさほど価値があるとはおもわないのでいつもどおり全文省略した。黙々と次の煙草に火をつけ、目に入りかかった返り血をもう一枚のハンカチで緩慢にぬぐいとり、黒い義手を両方ともポケットへ突っこんだ。
両の義足が踏みしめる打ちっぱなしのコンクリートの床から、びちゃっ……、赤い水溜まりが鳴る。
見渡せば、凄惨な執行現場が甘美にむせ返っていた。薄暗い倉庫の壁は飛沫血痕の薔薇が咲き乱れ、ところどころは擦過によりずるずるり引きずり伸ばされ、激情に任せてカンバスへ叩きつけた油絵の具のタッチのように、死亡者が死ぬ前に倉庫内を逃げまどった足取りが荒く、荒々しく、視覚化されている。
それは自分に関する特筆事項のうちの一つだった。犯罪者に死刑を執行する際はほかに類を見ないほど躊躇なく現場を汚す。
「――って、ちょっと!? 先輩聞いてます!? アンタがめちゃくちゃするせいでわたしの髪血まみれですけどこんなクソハンカチで拭けって言うの!? 無地とはいえブランド品じゃん! しかもアイロン済みの! レト・ヴィーノ! うんとかすんとか言いなさいよ!」
割れた窓の向こう側には巨大な湖の水面が果てしなく広がり、曇った夜空を乱雑に反射しつつ小雨によって無作為な砕かれかたをしていた。俺は熟れた林檎に似た赤い髪を掻きあげる。ああ。構わないとおもった。合法的に殺せるのならなんでも構わなかった。
後輩がどれほど品の無い言動をしようとも、他部署の知らない奴らから「絶対零度の復讐者」や「人間嫌いの執行官」などとありがたくない二つ名を与えられようと、かつて事件の被害者だった青年としてひそひそ憐れまれようと、すべてが瑣末な問題でしかない。否、問題ですらない。いつか先生を殺す。それまではこの職場を手放すつもりはないと、そうおもった。
「ああもうっ! こんなバカ高い布で拭けるかーっ!」
どれほど後輩がわずらわしくともだ。
魔法が普及してから数百年が経ち、現代における人工的な苦痛――犯罪や戦争、いじめ、虐待などは魔法期以前よりさらに残忍かつ巧妙なものへと変貌していた。
魔法は失ったいのちを甦らせることができない。しかし生きている者の怪我を跡形もなく消すことはできる。
猟奇的な洗脳と虐待を繰り返す「真珠先生長期監禁事件」の被害者として知られる俺は、国際機関「魔法管理機構」のもとで魔法犯罪の重罪人を殺害する任務についていた。
これは、見ためだけでは判らない怪我を負った者たちの透明な絶望の記録である。
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