己の振り見て我が振り直せ

そうざ

Look at Myself and Look Back at Myself

              1


 また〔俺〕に出会ってしまった。

 これで三回目だ。二度ある事は三度ある。いや、三度目の正直というべきかも知れない。

 今夜こそ〔俺〕に接触してみようか――。 


 今日も今日とて、俺は大人の顔でつつがなく会社勤めをこなし、無事に帰途に着いた。

 首筋に疲労が蓄積している。この鈍痛を完全に消去出来るのは定年後だろうか。それまで心身共に持つのだろうか。睡眠を削り、休日を返上し、残業をし、得意先に頭を下げ、上司に叱責され、いつ身体を壊しても不思議はない毎日だが、幸か不幸かそう上手く壊れてはくれない。金属が徐々に疲労して行くように、自覚症状もないまま数十年が経ち、或る日突然ぽきっと折れてしまうのではないか。

 それならそれで良い。俺の人生は何だったんだ、もっと他に別の人生があったんじゃないか、と思い返す暇もなく死にたいものだ。

 リストラや倒産でもない限り、俺は今の勤め先を辞める事はないだろう。所詮、社員食堂のメニューにそこそこ満足出来れば、それだけを理由に出社し続けられる人間だ。同じような理由で、自ら命を絶つような真似も絶対にしないだろう。

 最終電車を降り、ネクタイを大きく緩め、俺はいつものように駅前近くの二十四時間営業のスーパーに立ち寄った。

 今朝、ベルトの穴をまた一つ外側に移動させた。前回の移動から半年も経っていない筈だが、どうしても脂っこいものを求めてしまう。ほとんど下戸だから食い気にばかり神経が使われる。健康にも気を使わなければならない年齢だが、こればかりは止められない。帰宅途中の買い食いは細やかなストレス解消なのだ。


 俺が初めて〔俺〕を見掛けたのは、正にストレス解消の最中だった。二度目の遭遇も同じスーパーだった。

 そして、三度目の今夜も〔俺〕は俺と同じ買い物客として目の前に現れた。

 前回も前々回もそうだったが、〔俺〕はだれ切った無地のTシャツに半パン、サンダル履きというラフな格好だった。どうやらそう遠くない所に住んでいるらしい。

 こんなに自分によく似た男が自宅の近くに住んでいるとは、不思議なものだ。

 俺がその男を勝手に〔俺〕と呼んでいるのは、顔立ちだけが理由ではない。背格好は勿論、拘りというものが一切感じられない服のセンス、ぼさぼさの髪と不精髭も休日の俺そのものだし、姿勢の悪さや撫で肩、左手の親指の爪を他の爪と擦り合わせるという何気ない癖――これは〔俺〕がやっているのを見て初めて気付かされた事実だが――兎に角、何から何まで似ている。似ているというレベルを超えている。瓜二つ、生き写し、そんな言葉を積み重ねても足りない。正に〔俺〕そのものなのだ。

 勿論、最初に出食わした時は、あれっ、と思っただけだった。他人から見ると俺はあんな風に見えているのかな、と思う程度だった。ところが、共通点が幾つも見付かるに連れ、考えは確信となり、〔俺〕への密かな興味が膨らんで行った。

 幸いと言って良いのか、〔俺〕は俺の存在に気付いていない。俺は、これまでと同様に〔俺〕と一定の距離を保ちながら観察を始めた。

〔俺〕は売れ残りの惣菜を籠に入れた後に冷凍食品を幾つか選び、大き目のペットボトルを手に取るとカップ麺を物色し、スナック菓子のコーナーに向かった。俺の好みに合致した食生活らしい。どうやら俺と同じ独身で、自炊の習慣もないようだ。最後に牛乳プリンを一個掴み取ると、そそくさとレジに向かった。

〔俺〕が何処に住んでいてどんな生活をしているのか、益々知りたくなってしまった。俺は、自分の買い物も其方退そっちのけで牛乳プリンだけを購入し、尾行を始めた。


              2


 スーパーを離れると夜道は途端に暗くなる。歩道の先にはほとんど寝静まった住宅が連なるだけだが、青白い街灯さえ気を付ければ、たとえ〔俺〕が不意に振り返ったとしても、俺の面相は判別されないだろうと思われた。

〔俺〕が履いているサンダルのかぽかぽという間抜けな音だけが住宅街に響く。だらだらとした緊張感の欠片もない足取りは、お世辞にも真っ当な社会人には見えない。

 俺自身も普段あんな風に歩いているのだろうか。普段、自分の後ろ姿の印象など考えた事もないが、〔俺〕がああいう感じなのだから、きっと俺もそうなのだ。『他人の振り見て我が振り直す』という言葉はあるが、これは『己の振り見て我が振り直す』だな、などと内心で無邪気に笑う俺が居た。

 疲労困憊した身体を押して見ず知らずの他人をこそこそと付け回している俺。それだけでも気色悪い奴だが、相手が自分と似ているというだけで同一視し、その生活までも探ろうとストーキングする――これは十二分に偏執的行為だ。

 もし逆の立場だったら、俺が〔俺〕に付けられていたら――不図そんな考えが頭をもたげ、思わず後ろを振り返った。そこには、眠りに沈む深夜の住宅街しかなかった。

 どうも気が高ぶっているらしい。人を尾行する魅惑と緊張、しかもその対象は他でもない〔俺〕なのだから、妙なテンションになっても仕方がない。

 考えれば考える程、俺と〔俺〕とが全く無関係の人間とは思えない。例えば、生き別れた双子である可能性。経済的理由で両親が泣く泣く〔俺〕を人買いに売ってしまった――まさかそんな安っぽいメロドラマが実際にあるとは思えない。過去、しくは未来の自分というのはどうだろう。タイムマシンとかタイムスリップとかで前後数年くらい隔てた〔俺〕がこの時代にやって来た。はたまた、国際的暗躍組織が密かに作成したクローンが――全く噴飯ものだ。

 ドッペルゲンガーという現象を聞いた事がある。自分に出会ってしまった人間は死ぬと言う。俺はもう今夜で三度も対面している。〔俺〕が俺の存在に気が付いていないからだろうか。もし〔俺〕と俺が正面切って対面したら、俺は死ぬ事になるのだろうか。それとも〔俺〕の方が死ぬのだろうか。

 空き缶が転がる素っ頓狂な音が夜道に木霊した。俺が足元に転がっている空き缶に気付かず蹴っ飛ばしてしまったのだ。こちらを振り返る〔俺〕。咄嗟に電柱の陰に身を潜め、息を止める俺。微動だに出来ない身体とは逆に心臓は高鳴る一方だった。

 気付かれただろうか。顔を見られただろうか。夜目遠目だから大丈夫だと思うが、俺は祈るような気持ちで身を縮こまらせた。

〔俺〕は再び歩き出した。ところが、さっきまでの暢気なペースではない。明らかに足早になっている。矢張り勘付かれたのだ。

 今夜のところはもう諦めて帰るべきか。帰ると言っても、俺の住まいも同じ方向だ。寧ろ、これをきっかけに思い切って〔俺〕に話し掛けてみようか。このまま気味の悪いストーカーだと思われたままなのも癪だ。

 俺が躊躇している間も〔俺〕はどんどん加速して行き、道の左手にある児童公園の中に逸れた。この先の曲がり角まで行くよりも、ここで公園を横切った方が近道になる。毎日、俺がやっている行動だ。

 もし〔俺〕が俺の自宅アパートに帰り着いてしまったらどうしよう。俺は何処へ帰れば良いのだろう。そんな馬鹿な、と思いながらも首筋を汗が流れ落ちる。

 あいつは一体何者なんだ――。

 公園内から人の声が聞こえて来る。複数の男が何やら言い合っている。俺は忍び足で近寄り、植え込みの陰から現場を覗いた。

 園内の仄かな街灯が、長身の四人組と彼等に取り囲まれた〔俺〕を照らし出している。一様に近隣の公立高校の制服をだらしなく着ている。

 その顔触れに見覚えがあった。このぐらいの時刻によくこの公園でたむろしている連中だ。いつも煙草を吹かし、酒を呷り、大声ではしゃいでいる。その内に大人としてがつんと注意してやろうかと思いながらも見て見ぬ振りをし続けている連中だ。

 事情はよく分からないが、〔俺〕は絡まれている。

 もしかしたら、連中は俺の顔を見知っていたのかも知れない。俺が普段からちらちらと侮蔑の眼差しを投げている事に気付いていたのかも知れない。〔俺〕を俺だと思い込んで難癖を付けたとすれば、責任の一端は俺にある。そういう意味でも正に他人事ではないのだが、連中に小突かれてもおろおろするばかりで何一つ強く言い返せないでいる〔俺〕を目の当たりにすると、俺もおろおろするばかりで傍観の立場から踏み出せなかった。

 やがて、地面に買い物袋が放り出され、中身が散らばった。それが合図であるかのように四人組の行為はエスカレートして行った。

〔俺〕の食らった膝蹴りが俺の下腹部にも痛みをもたらし、〔俺〕の眼前に散った星が俺の瞼にも閃光を放つ――そんな共時性的な錯覚が襲った。少しはやり返したらどうなんだ、と俺は心の中で〔俺〕を叱咤しながら、自分なら無理だけど、と諦めの境地に陥っていた。

 結局、俺は助太刀する事も逃亡する事も出来ず、耳を塞いだままその場に蹲り、嵐が過ぎ去るのを待つ事しか出来なかった。


              3


 そう長くない時間が流れ、四人組がへらへらと笑いながら公園を出て行くのを確認してから、俺は恐る恐る〔俺〕に近付いた。不慮の事件が俺に対面の決心をさせていた。

 地面に跪いたまま俯く〔俺〕の周りには、スーパーで買った物が散乱していた。どれも砂塗れだ。牛乳プリンに至っては、踏み付けられて泥プリンと化していた。

 俺の気配に気付いた〔俺〕は、何事もなかったようにそそくさと散乱物を拾い集め始めた。赤の他人に無様な姿を見られて恥ずかしいのだろう。俺も同じ立場だったらそう思う。

 俺は、中身の出てしまったペットボトルを拾って〔俺〕に差し出し、満を持して言った。

「こんばんは……」

 街灯を背にしていた俺の姿は黒ずみ、〔俺〕からはよく判らないようだったが、俺には砂と汗とで汚れた〔俺〕の不思議そうな顔がよく見えた。唇が切れ、血が滲んでいる。心なしか俺よりもふっくらしているように見えるのは、殴られて顔が腫れているからだろうか。

 そんな事よりも、〔俺〕の左眉に黒子があった事に驚いた。眉毛の中に埋もれている為、こうして近距離で接して初めて判った事だった。何から何まで本当にそっくりなのだ。

「多勢に無勢で……全く近頃のガキと来たら」

 そう言って〔俺〕は照れ隠しの笑みを溢した。多少声質は違うようにも聞こえたが、意外と自分の声は自分が思っているような響きを持っていないものだ。

〔俺〕は直ぐにでもこの場から立ち去りたい様子で、まともに俺の顔を見ようとしない。まだ俺の面貌に気付いていないようだ。

 嫌でも俺に興味を持たせたい。俺は〔俺〕の腕を掴み、街灯の真下へと強引に引っ張って行った。

「えっ……何ですかっ?」

 暴行を受けたばかりの〔俺〕は、すっかりびびっている。

「俺の顔をよく見て下さい」

 俺達は、くっきりと街灯に照らし出された互いの顔をまじまじと見合った。たちまち驚愕に支配される〔俺〕の表情を、してやったりの気分に酔い痴れながら眺める俺――の筈だった。

「貴方の顔がどうかしたんですか?」

〔俺〕は驚くどころか不審者を見るような目付きに変わった。俺はその鈍さに呆れた。

「どうかしたんですかって……よく見てみろよっ」

「……何処かでお会いしましたか?」

「そういう事じゃなくてさ」

 いつの間にか、俺はため口になっていた。そもそも自分に敬語を使うというのはしっくり来ない。

 何だか悔しい気もしたが、俺は自ら答えを口にした。

「俺とお前、そっくりだろう?」

 それでも〔俺〕は事態が飲み込めないようで、ぽかんとしている。自分の間抜け面がこんなにも間が抜けている事を知り、俺は呆れるのを通り越して悲しくなった。

「別に似てないと思いますが……」

 この期に及んでも敬語で喋る〔俺〕の眼は、不審者を通り越して狂人を見るかのような怯えの色合いを帯び始めていた。

「もっとよく見てみろよっ。ほらっ、黒子の位置も同じだろっ」

 俺は、黒子を指差しながら必死で訴えた。何故こんなに必死になっているのか、自分でもよく分からなかったが、兎に角〔俺〕が俺の主張を認めないのが我慢ならなかった。

 そんな俺の気持も知らず、〔俺〕は公園を出て行く素振りを見せた。

「待てよっ。もっと明るい所で鏡で見比べてみれば分かるってっ」

 そう言って立ち塞がる俺に〔俺〕は語気を荒げた。

「好い加減にしてくれよっ。俺はあんたなんかに似てねぇよっ!」

 それは、思いがけず俺の心を土足で踏み躙る台詞だった。

 殊の外たじろぐ俺を見て調子付いたのか、〔俺〕は逆に食って掛かって来た。

「万が一似てたとしても、それが何だって言うんだっ!」

 俺はぐうの音も出なかった。〔俺〕の言う事は尤もだった。俺は何を考え、何をしようとしていたのだろう。

 スポットライトを浴びながら二人で瞬間移動マジックでも演じるつもりだったのか。向かい合った状態から横並びになり、ロールシャッハ・テストという一発芸でも披露したかったのか。忍者の格好をして分身の術とでも言いたかったのか。

 気が付いた時にはもう〔俺〕は公園を後にしていた。俺は堪らず追い掛けた。

 突然、目の前に火花が散った。

〔俺〕の拳が中々の重みを持って俺の左頬にヒットしていた。やはり同じ右利きなんだな――そんな事を瞬間的に思いながら俺は歩道に倒れた。

手前てめぇの面をよく鏡で観察してみろっ、バカヤローッ!!」

 柄にもない啖呵を吐き、人を殴るといういまかつて俺がやった事のない行動をやってのけた〔俺〕は、すっかりキレていた。自分のキレた姿は気恥ずかしいものだった。

 去って行く〔俺〕を見送る俺の眼に、先程とはどこか違う見え方で〔俺〕の後ろ姿が映った。

 俺は、劇的な何かを期待していた自分を恥じた。現在の俺が体現している冴えない人生とは対極に位置するもう一つの素晴らしい人生。いつの間にかそんな憧れを〔俺〕に重ねていたのかも知れない。

 しかし、〔俺〕は俺以上でも俺以下でもないし、俺も〔俺〕以上でも〔俺〕以下でもない。たとえ俺達がそっくりだとして、互いの人生を入れ替えたところで、待っているのは、俺は〔俺〕であり、俺は〔俺〕でしかない世界なのだろう。

 俺は、〔俺〕の姿がすっかり闇の向こうへ消えるまで、腫れ上がる頬を撫でながらもう少し夜空を仰いでいようと思った。

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