銀麗奴隷チョウの過去回想
「ありがとうございます、キタさま。貴方に出会えた今があるから、チョウはどんなに辛く苦しい
「ありがとうございます、チョウの勇者さま。貴方のおかげでチョウは、どんな過去でも『出会うために必要だった』と……肯定できるのです。それはとても、幸せなことなのですよ」
チョウは普通に生まれたかったのです。
普通に生まれて、普通に育ちたかったのです。
キタさまやダネカさまみたいに普通の親の下に生まれて、普通に愛されて、普通に育てられて、普通の女の子として普通の男の子に恋をして……そういう子になりたかった。たったそれだけでよかったのです。
手に入らなかったから、欲しかったのです。
生まれはワリの尾。
大陸東部前線にちょっと近い、大森林に覆われた大山脈の合間の、谷の底でチョウは生まれました。
種族は蒼月の銀狼族。
月の光を蓄えて、どんどん銀色になっていく狼の獣人。
大昔は、人に狩られていたらしいですね。
大昔、みんなみんな忘れてしまうくらいの大昔に、誰もが忘れてしまった何かの理由によって、チョウのご先祖さま達は人間に殺されていったらしいです。
『絶滅しろ』と言われながら、ご先祖さま達は人間に追い立てられ、絶滅を避けた生き残りが、ここに逃げ込んで、生き延びた……と聞いております。
ここはワリの尾。
大昔に居たという、大魔獣『ワリ』が大地に刻んだ傷の一つ。
遥か空高くから見ると、極大石化魔法で山脈に変えられた大魔獣の亡骸から伸びる尾のように、この谷は見えるらしいですね。
「チョウ。同年代の子供とは絶対に遊ぶな。触れたら折檻だ」
「はい、お父さま」
チョウは、お父さまとお母さまに愛された記憶がありません。
大事にされた記憶もない。
「チョウ。村から出ないこと。10分以上私達の視界から外れることも許しません」
「はい、お母さま」
お父さまとお母さまだけじゃないですね。
大人にも、老人にも、子供にも、誰からも。
チョウは大切にされた憶えがありません。
「おい、近付くんじゃねーよ、チョウ」
「わたしたちは楽しく遊んでたのに」
「こっちくんなよ。ほんとこっちくんなよ」
「あ、あの……チョウも、仲間に入れて……」
「やだよ、バケモノ」
「わたしたちはあんたみたいにみんなに嫌われたくないの」
「バイキンがうつるかもしんないじゃん」
「おとーさんたちはチョウちゃんとは遊ぶなって言ってるの!」
「あ……」
誰からも大切にされず、大事にされず、距離を取られて生きてきました。
「チョウちゃんや。約束を破ったら君は処刑だ。わかっているね?」
「……はい、村長さま」
だから、しょうがないって思いませんか?
チョウが、自分に価値なんて無いんだなって思うようになったのは……普通のことだったんだと思います。
あの谷の底が、チョウにとっての世界の全てだったのですから。
「……チョウは……」
三歳の頃には、全てを諦めていた気がします。
何も求めず、何にも期待せず、明日にも希望を持たず。
ただ、今日。今日だけを乗り切る。何も考えないように。
今日だけ乗り切れればいいと思って頑張って、寝て、また明日が来る。
夜になると『ああ、やっと終わってくれる』と安心して眠れて、朝になると『ああ、また始まってしまった』と思って起きて、時々起きただけで泣いてしまって。
朝が来るだけで悲しくて、また一日が始まっちゃうんだって、泣きそうになって。
「ずっと、一人……チョウは一人……これまでも、これからも……」
喜びなんてどこにもなくて。
楽しさなんてどこにもなくて。
期待することなんて何もなくて。
どこを見ても希望なんてなくて。
味方なんてどこにもいなくて。
暖かさなんて何一つ貰えなくて。
どう悲しめばいいのかさえ、誰も教えてくれなくて。
ずっと、ずっと、空っぽでした。
絶える望みさえなかったから、チョウはきっと絶望さえしていませんでした。
そうしてある日。
チョウは知ったのです。
どんなに記憶を消しても、魂の傷として残り続ける、運命への宣告を。
その日の記録は、チョウの記憶の中では曖昧になってはいても。
冒険の書は憶えています。
こうして、世界の記録として、ずっと憶えています。
大粒の雪が降っていた日でした。
チョウは、雪が降っているのを見たことはあっても、雪が積もっているのを見たことはありませんでした。
ワリの尾は、魔獣の時代の極大炎熱魔法の傷跡が残り続ける谷。
二千年以上も残る予熱が、冷えることなく残り続ける土地です。
谷の間をひらひらと落ちる内に、雪は解け、水に戻り、谷の壁に滴ります。
その水を吸って育った植物を食べ、水と植物を求めて来た動物を食べ、合間に溜めた水を飲む。
ワリの尾の蒼月の銀狼は、そうして生きていく獣人でした。
チョウが四歳の時の、冬の日のことでした。
その日のチョウは、雪に触れてみたかったのです。
何もかも諦めていたチョウでしたが、人生に一度くらいは綺麗なものに触れてみたいと、そう願いました。
そうしたら、その日を、人生で一番よかった日にできると思ったんです。
人生に一度くらいはいいことがあったら、このまま何もいいことがないまま死んでしまっても納得しようって、そう思って、駆け出しました。
笑えませんか?
何も知らなかったんです、この時のチョウは。
『人生と引き換えに一つ何かを手に入れられるなら何が欲しい?』と言われたら、「雪に触ってみたい」としか答えられない子だったんです。
幸せも、豊かさも、外の世界も、何も知らなかったから。
雪以外に何も、綺麗なものを知らなかったんです。
何を欲しがれば幸せな気持ちになれるのかすら、知らなかったんです。
気付けばチョウは、海と空の狭間にいました。
どこに立っているのかと言われたら、今でもチョウには分かりません。
ただそこが、海と空の狭間であることだけは分かりました。
上も青。
下も青。
彼方まで見てもずっと青。
世界の果てに、空と海の境目を繋ぐようにして、黄金の光の線が見えました。
海と空はとっても青くて、上にあるのが空で、下にあるのが海だって、昔一度だけ訪れた本の行商人の赤い髪のお姉さんが教えてくれたのを、チョウは憶えています。
絵本でいいから、一度でいいから、見てみたいな、なんて思ったので。
その世界の真ん中に、老人がいました。
座禅を組んで、どこに立っているかも不確かな恰好で、ぷかぷかと浮かんでいました。真っ黒な髪は伸びっぱなしで、伸びっぱなしの髪が左右上下後方にぷかぷか浮かびながら伸びていて、たぶんどっちの方向にも100m以上は伸びてました。
信じられないくらい髪を伸ばしっぱなしのおじいさん。
そんな感じだったと思います。
「儂は全ての
「あの……」
「なんと、もうだいぶ育っておるではないか! 指定遺伝形質で生まれた赤子を瞬間転移させる、検知魔法の設定はどうなっている! ええい、親に無駄な愛着と悲しみを与えんがために、赤子の時点で転移させる設定にしていたというのに……千年二千年と常駐で動かし続けているせいで、術式にガタが出てるのかのう……」
「ご、ごめんなさい」
「……」
「え、えへ、えへへ……」
「……会話が理解できなくなったらすぐ謝罪する癖。とりあえず卑屈な笑顔を見せて媚びる癖。突然知らない場所に放り出されて不安でも、相手を不快にさせることが怖くて問えない。なるほどのう、もう受ける扱いは受けておったということじゃの」
老人はチョウのことをじっと見て、舌打ちしました。
憎悪とも、敵意とも、似てるけど、違うような感情があって。
それが怖くて、怖くて、怖くて、チョウは震えていました。
「……チッ、面倒な。『子孫』なだけでなく『女神』のなぞりでもあるんじゃな。忌々しい……魔獣どもめ、こうして『子孫』で世界が生み出した『女神』のなぞりを乗っ取る日を待つために、人間の遺伝子に潜り込んどったんじゃな……」
震えるチョウに老人が指先を向ける。
老人の指先から放たれた光が、チョウの魂の奥深くに焼印を刻むように、『
お腹の奥の奥の方に、熱い焼きごてを当てられてるみたいな痛みと苦しみ。
チョウは痛くて、苦しくて、涙がたくさん流れて、悲鳴をいっぱいあげました。
でも、確か、『助けて』とは言いませんでした。
だって、チョウを助けてくれた人なんて、見たことがありませんでしたから。
『助けてと言えば助けてくれる』とか、『助けて言えば助けてくれる人が居る』とか、チョウの常識の中には全然無かったんです。
「今、お主に呪いをかけた。あいにく、儂は人間の殺生を禁じられておるでの。だがお主に呪いをかけることはできる。お主に『子を成せない運命を与える呪い』を刻み込んだ。表面上は『恋をした相手が自分を憎む呪い』であるようにも見えるじゃろう。お主は生涯、誰とも子を成すことはない」
「……いだい、いだっ……え? え? え?」
「分からんか? 教えてやろう。お主が生まれたという罪を」
老人が、チョウの髪の毛を掴んで、チョウの体ごと思い切り振り回して、空と海の間の見えない壁に投げつける。
髪の毛が取れてしまいそうで、首が取れてしまいそうで、見えない壁にぶつけられた背中も割れてしまいそうで、とても痛かったです。
「こんなん聞いたことはありゃせんか? 『神は殺せば死ぬが、魔獣は皆殺しにしても絶滅させられない』。いやあ、こんな時代の人間じゃあ聞いたことも無いじゃろうなあ。……魔獣っちゅうもんはの、物理法則より遥かに高い存在強度を持つ獣じゃ。天変地異より遥かに不滅。ダメージを与えるだけでも、物理法則を一つ破壊できる『特異点』っちゅう爆弾を使わんと話にならんくらいの生物でのう」
「いだい……いたいよぉ……」
「魔獣の時代の大魔獣は、それはもう数え切れんほどの犠牲を払って、皆で全部殺し切ったんじゃ。けどのう、魔獣は殺したくらいじゃ死なん。細胞の一つ一つが小さな魔獣になり、繁殖を始めた。死体が山脈になった。月を丸ごと卵に変えた。魔獣の吐息に触れた生物が人間も含めて数年後から魔獣になり始めた。魔獣が歩いた後の空間に触れた人間の妊婦がその後産んだ子供が魔獣の特徴を持っていた。悪夢じゃ」
「かみ、とれちゃう、いたっ、いだっ、やめてっ、やめてぇ……」
「儂はな、殺せと言った。大魔獣を再び産む可能性がある者共は、根切りにし、絶滅させろと。絶対に未来の憂いになると。だが、初代勇者も、鍛冶屋の娘も、女神も、慈悲ある選択を望んだ。この妊婦の腹の中の子を、平和な時代に生かしてやりたいと主張した。……優しい奴らだった、儂とは違ってな。奴らの意見を尊重してやりたいと思った。世界を救ったのはあやつらだ。世界がどうなっていくかは、奴らの優しい願いが決めるべきで、儂はそれを支えるべきだと、そう思った」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! チョウが、チョウがわるいんです! だからゆるしてっ! いたいの、やだぁっ!」
痛かったことは、憶えてます。
老人に、顔の真ん中を殴られて。
「そうして、お主のようなもんが生まれた。忌々しい先祖返りが……!」
お腹とかも、いっぱい蹴られて。
「勇者らの慈悲を、恩を仇で返すような者が、生まれてきた! 許せるかッ!」
チョウはずっと泣いていました。
「何のために
「ごめんなさい……ごめんなさいぃぃっ……」
「貴様は大魔獣の先祖返り! 放っておけば、魔獣時代を跋扈したバケモノの一つへと成り果て、この世界の秩序、平和、命のほとんどを食い尽くす! 生まれてくるべきではなかった悪夢! ここで殺せるものなら殺してやりたいわっ……! いつになったら貴様らは『絶滅』を迎えるのじゃ、魔獣の糞っ垂れどもが!」
チョウは生まれてきてはいけなかった。
その言葉だけは、ずっと、ずっと、忘れなかったと思います。
忘れられなかったんです。
「しかも貴様は、勇者の誕生に合わせてどこかに世界が誕生させる、女神のなぞり……勇者と共に世界を救うために生み出される女神の席を、その歳で既に専有しておる! その異性の目を惹きつけてやまない容姿、獣人に見合わない非常に高い魔力こそがその証拠! 見ているだけで腹が立つ、世界を救うために発生する『女神のなぞり』を、世界を食い尽くそうとする魔獣の遺伝子が、乗っ取ったなどと……!」
「やぁっ……いたいのっ……やぁっ……ゆるしてぇ……」
「女神をなぞったがゆえの容姿の良さを使い! 誰もを魅了する容姿で男を誘って! 先祖返りを果たした肚で子を増やす! なんとも効率的じゃあなあ、魔獣! ……儂のかつての仲間をどんだけ侮辱すりゃあ気が済むんじゃ! 世界を救ったんじゃぞ、あやつらは! 最初は、ただのバカなガキどもじゃった! 勇者と、英雄と、鍛冶屋と、女神! 四人で旅をして、失いながら世界を救ったんじゃ! ……そいつらが守った世界がなくなるなど、儂には耐えられんかった。そうして続けた世界に貴様らの子孫が生み出したものがこれか!? この侮辱かっ!? この愚弄かッ!?」
「ぐぎゃっ」
老人に頬を蹴られて、チョウはどこかを転がった。
痛くて、辛くて、悲しくて、泣いて、泣いて、泣いて。
チョウの人生にいいことなんて絶対起こらないんだな、って思いました。
「……ゆるし、てっ……ゆるしてぇ……」
「許すわけがなかろう。苦しんで死ね。誰とも手を取り合わず、誰の暖かさも知らず、子も作らず、幸せも知らず、無様にのたうち回って死ね。それが魔獣の罪よ」
老人の目は、とても、とても強烈に、チョウを憎んでいました。
チョウを通して誰かを見て、何かを語っていました。
アオアさんも、チョウを通して誰かを見て、愛おしそうにチョウを抱きしめてくれたことがありましたけども……あの老人は、きっとその対極。
「永遠に、誰もお主を愛さない。誰もお主を受け入れない。お主は世界の敵だ」
この日の記憶を失っても。
この老人に言われたことが、ずっと傷として、残っています。
幼い頃の心の傷って、頑張っても消えてくれないみたいなんです。
「
空と海の間から、チョウは放り出されて、谷の元の場所に戻って行って。
「だがこれだけは忘れるでないぞ。お主は『子孫』にして『女神』。『英雄』と出会えば両思いになる運命であり、世界の敵となる運命じゃ。どんなに足掻こうと、平穏は長くは続くまい。お主は過去から密輸された未来の終わり。時間の敵。世界と時の配列を乱す悪性。『勇者』はお主を許さない。お主は運命を外れられん」
老人が、チョウの死を告げる。
「罪の在り処を定める『刻の勇者』が貴様を殺す。必ずだ」
あの日から、ずっと、ずっと、チョウの記憶には恐怖があります。
『いつか勇者が悪いチョウを殺しに来る』という恐怖です。
勇者は、怖い。
ずっと、怖いんです。
でも、ある夜から怖くなくなったんです。
笑っちゃいますよね。
夜に、いつか来る勇者が怖くて、怖くて、眠れなくなってるチョウの頭を撫でてくれた人が、たくさんお話して寄り添ってくれたから、怖くなくなったんです。
『キタさまが守ってくれるから勇者なんて怖くない』って思うようになったから、怖くなくなったんです。
ふふ。今思うと、本当に笑い話です。
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