刑事がやって来た

そうざ

The Detective Came

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 妻に拠ると、刑事を名乗る男が我が家にやって来たのは昼過ぎだった。

 トレンチコートを纏い、黒縁眼鏡を掛け、胡麻塩頭にハンチング帽を載せた老刑事は、懐から黒い警察手帳をちらりと見せ、押し殺した声で言ったらしい。

「東南署の北西と申します。捜査にご協力願います」

 突然の事で戸惑うばかりの妻を余所に、老刑事はそそくさと三和土たたきに革靴を脱ぎ散らかし、迷う事なく階段を上がって行ったという。

「それっ切り下りて来ないのよ。一応お茶だけは出したけど」

 会社帰りの俺は、ネクタイも緩めず恐る恐る二階へ上がって行った。二階は六畳間一室で、それも物置代わりにしているから普段は家族も余り立ち入らない。偶に換気をする程度で、雨戸もずっと閉め切ったままだ。階段を上り切ると短い廊下があり、左側に白茶けた襖が嵌っている。

 俺はゆっくりと襖を開けた。

 薄暗い室内に、着られなくなった服やら、読み飽きた本やら、調子の悪くなった電化製品やら、要らない物が散乱している。

 そんな中に男の人影があった。

 人影は南に向いた窓を僅かに開け、外部の様子を窺っている。窓から見えるものと言えば、狭い通りを挟んだ借家くらいだ。

「あの……刑事さんですか?」

 俺が小声で訊ねると、人影はゆっくり振り返り、懐から黒い手帳を出しながら言った。

「ご主人ですか? お仕事、ご苦労様です」

「どうも……刑事さんもお役目、ご苦労様です」

 老刑事はもう窓の外に視線を戻していて、それ切り何も言わない。手持ち無沙汰の静寂が広がる。

 俺は軽く咳払いをし、襖の陰に正座したまま会話を再開させた。

「今日はどういったご用件で?」

 老刑事は振り返りもせず小声で答える。

「捜査に関する事なので詳しくは答えられませんが……或る一件を追ってましてね」

「隣を見張ってらっしゃるんですか?」

「そういう事です」

 外を覗いたままそう言った。

「あのぅ、隣はうちが所有している借家なんですけど、現在は――」

「我々は犯人が立ち寄るだろうと睨んでるんです。どうかご協力をお願いします」

 一応、一通りの事情が呑み込めた俺は、これ以上、根掘り葉掘り訊くのも何だと思い、取り敢えず静かに階段を下った。

 階下では妻が不安な顔で夕食を配膳していた。

「どうだったの?」

「どうもこうも捜査中だってさ。あの様子じゃ暫くうちに滞在する事になるな」

「えぇ?! 明日は友達を呼んでティーパーティーの予定なのよ。警察が居候してるなんて知ったら、皆きっと遠慮して来ないわ」

「だからって、相手は国家権力の手先なんだから、無碍に追い出す訳にも行かないだろ」

「一般市民には拒否する権利がないの? 警察を拒否する自由は?」

「……ないんじゃないのか、多分。刑事ドラマでそんなシーンを見た事ないよ」

「相手が刑事じゃ警察を呼ぶ訳にも行かないわよねぇ、嫌だわぁ」

 ぶつくさと言いながら、妻は淡々とライスにカレーを掛けた。


 取り敢えず夫婦仲好く食事をと思ったが、どうしても二階の様子が気になってしまう。

「あのぅ……お食事は如何致しますか?」

 俺に後押しされた妻が、怖ず怖ずと襖の隙間から老刑事に訊いた。

「奥さん、どうぞお構いなく」

 老刑事は相変わらず振り返りもせず、借家を注視したまま答えた。

 妻は、お聞きの通りよ、と肩を竦め、俺を振り返った。

 仕方なく、今度は俺が問い掛けた。

「こちらにお運びしましょうか?」

「いえ、そろそろ部下が――」

 老刑事が言い掛けた丁度その時、俺達の背後に階段を上って来る足音が近付いた。

「警部、ご苦労様ですっ」

 紙袋を小脇にした背広姿の若い男が、きびきびした口調で老刑事に挨拶をした。どうやら部下らしい。

「おう、待ち兼ねたぞ。入れ入れ」

 老刑事は気安く男を招き入れた。男は、どうも、と呆気に取られる俺達に簡単な会釈をしただけで、後はもう二人の世界に入ってしまった。

「代わり映えしませんが」

 そう言いながら、若手刑事は紙袋からアンパンと牛乳壜を取り出した。

「アンパンと牛乳さえあればおんの字だ」

 老刑事は初めて笑みを見せ、早速、腹拵えを始めた。

 暗い中での食事は不味かろうと思い、俺は気を利かすつもりで電灯のスイッチに手を伸ばした。

「ご主人、灯りは禁物ですっ。犯人に警戒されますっ」

 老刑事がパンを口に入れたまま俺を制した。

 途端に気まずくなり、俺達はすごすごと退散するしかなかった。

 階段を下り掛けた時、二人の会話が漏れ聞こえた。

「この家の夕飯はカレーみたいですね」

「あぁ、さっきから美味そうに匂ってるよ」


              2

 

 その後も俺達は何とも落ち着かず、仕方なく早々と床に就いた。だが、いつ何時、捕り物が始まるかも判らないと思うと、とても寝付けなかった。皮肉な事に警察が一般市民の安らぎを奪っている。

 真夜中過ぎ、寝惚けまなこでトイレに立つと、先客が居た。程なく水の流れる音がし、出て来たのは老刑事だった。

「これはこれは、ご主人」

 そう言って軽く敬礼をしたので、俺も釣られて同じ仕草を返した。

「まだ見張ってらっしゃるんですか?」

「ははは……我々の仕事には朝も昼もありませんよ。若いのと交代で二十四時間、見張り続けます」

 思わず溜め息が出た。仕事とは言え、その根性には頭が下がる。警察は一般市民の知らない所で日夜、頑張っているのだ。

「それじゃ、私は一風呂、浴びさせて貰います」

 老刑事はそう言うと、勝手知ったる他人の家とばかりに迷いもせず浴室の方へ行ってしまった。その厚かましさに呆れつつも容認するしかない俺だった。


 どうせ直ぐには寝付けそうにない。俺はカップ麺やら煎餅やらを抱え、二階へ上った。

 僅かに開いた襖の間から部屋の灯りが漏れている。犯人を警戒させないように電灯を点けないのではなかったか。

 隙間からこっそり中を覗くと、箪笥に寄り掛かった若手刑事がスナック菓子を頬張りながら漫画雑誌を捲っていた。ギャグ漫画なのか、時折、口元を緩める。

 俺は見てはいけないものを見てしまった心持ちになったが、思い切って声を掛けた。

「こんばんは。入っても宜しいですか?」

 突然の事で、若手刑事はぶるっと震えた。そして、直ぐ様スナック菓子やら漫画雑誌を片付けて窓際に戻った。

 俺が中に入って襖を開めるのを確認すると、おもむろに口を開いた。

「こんな時刻にどうされましたか?」

 もちゃんと見張りをしていたかのような顔付きだ。

「これ、差し入れです」

「これはどうも。あり難く頂戴致します」

 老刑事と一緒の時とは違い、若手刑事はどこか気さくだった。ベテランの前では緊張を強いられるに違いない。

 だとしても、さっきのだらけた態度はどうだろう。思わず意見したくなったが相手が相手だ。一般市民が口出しして良いものかどうか、結局、俺は見て見ぬ振りをするしかなかった。

「ところでご主人……警部は今、階下ですか?」

 若手刑事が声を潜めて訊いた。

「えぇ、入浴中です」

「そうですか。ご迷惑をお掛けします……」

 そう言うと、若手刑事はまたぼんやりと窓の外を見詰めた。ほっとした様子に見えたのは、俺の気の所為だろうか。

「犯人は必ず来ますか?」

 俺は単刀直入に訊いた。訊かずには居られなかった。

「そう願っています。一日も早く事件を解決させる事が我々の使命ですから」

 発言の意味とは裏腹に、その響きに自信は感じられなかった。

 階下へ戻ると、カレーの匂いが漂っていた。風呂上りの老刑事が夢中で夕飯の残りを貪っていた。


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 翌日の土曜日、妻の友達が数人、どやどやと我が家にやって来た。予定通りティーパーティーとやらを開催する為だ。

 但し、二階に刑事が滞在している事は誰にも伝えていない。刑事の方から内緒にするように要望があったのだ。

 折角の休日なのに、テレビのある居間を女共に占領されてしまった。日がな一日、寝室でぼけっとしているのも詰まらない。かと言って、二階にお邪魔する訳にも行かない。

 風が冷たそうだが、散歩に出る事にした。オバサン達の愚にも付かない世間話に加わるよりは増しだろう。

 が、門を出て直ぐ、借家の前で足が止まってしまった。俺は細い路地に入り、ブロック塀越しに借家を覗いた。

 築数十年にもなる古い木造建ての平屋。雲一つない恰好の洗濯日和だが、物干しに靴下一つ干されていない。

 赤茶色の錆で覆われた鉄製の門扉は、手を掛けただけで外れそうだった。俺はそれを怖ず怖ずと開け、敷地に足を踏み入れた。刑事達に何か言われそうだが、俺名義の物件だ。遠慮は要らない。

 長年の風雨に曝された玄関ドアは、表面のベニアが四隅から剥がれ掛けていた。ノブも錆びが浮き、もう回転すらしないのではと思われた。

 呼び鈴を押してみる。聞き耳を立てても何の音も聞こえない。何度押しても結果は同じだった。

 当り前だ。もう十年も空き家なのだ。

 最後の借家人は独身の中年女性だった。ちゃんと家賃を納めていたが、或る日を境に姿を消してしまった。当時、何かの事情で夜逃げしたらしいと近隣で噂されたものだった。

 それ以降は誰にも貸していない。どうせ彼方此方あちこちにガタが来ているから、もう借り手は付かないだろう。

 かと言って、大枚を叩いてリフォームや建て直しをする気はない。妻は駐車場にでもしたらどうかと言うが、取り壊すだけでも纏まった金が必要だ。結局、俺の一存で寂れるままに放置している。

 犯人は、その一切を知らずにのこのことやって来るのだろうか。刑事達は一体いつまで二階に居座るつもりなのだろうか。

 俺は、その場で我が家の二階を見上げた。雨戸が僅かに開いている。外からはよく判らないが、あの隙間から息を潜めた刑事が執拗な眼差しを覗かせているのだ。俺は思わず寒気を感じた。

 その時だった。

 門扉の陰から俺を目掛けて人影が飛び付いて来た。俺と人影は雑草が生い茂った庭先に転げた。

「何だ、あんたはっ!」

 必死に抗う俺に人影ががなった。

「飛んで火に入る夏の虫だっ、観念しろっ!」

 聞き覚えのある声だと思った時にはもう、俺は後ろ手にされていた。門の外で一部始終を見ていた若手刑事が、ばつの悪そうな顔をしている。


              4


 我が家は混乱していた。

 突然、二階から駆け下りて来た二人の男が表に飛び出して行ったと思ったら、程なくその家の主を取り押さえて戻って来たのだから無理もない。

 唯々唖然とする妻やオバサン達に、老刑事は落ち着き払った口調で説明をした。

「ちょっとした捕り物がありましたが、無事に落着しましたのでご安心を」

 警察から応援が来るまでの間、我が家で待機する事になったらしく、刑事達は取り縋る妻を余所に取り敢えず俺を二階へと連行した。

 俺は手錠を掛けられたまま必死で訴えた。

「どういう事ですかっ?! 何で私が捕まらなきゃならないんですかっ?! 逮捕状を見せて下さいよっ!」

 老刑事は苦笑したまま適当に受け流すばかりだったが、若手刑事の方は終始、気まずそうな顔をしている。その間も階下から女達の動揺する声が聞こえて来る。

「まだ階下が騒がしいな……もう一回、なだめるか。おい、しっかり見張っとけよ」

 老刑事は、若手刑事に言い付けると怠惰そうに階段を下りて行った。

 すると、若手刑事はこの瞬間を見計らっていたようで、深く頭を下げると小声で喋り始めた。

ルビを入力…がご迷惑を掛けまして、どうも済みませんっ」

ルビを入力………?!」

 何が何だか解からずぽかんとする俺に、若手刑事は階下を気にしながら事情を説明し始めた。この機会が来るのをずっと待っていたらしい。


「実際に父は警察官でした。でも、もう十年も前に退官しているんです」

 息子の口調は、聞いているこちらが辛くなる程に痛々しかった。

 胸元から取り出した警察手帳は、唯の黒いメモ帳に過ぎなかった。俺も薄々おかしいとは思っていたのだ。今時の警察手帳とはデザインが違うようだし、トレンチコートにハンチングなどという格好にも違和感しかなかった。

「父は何をするでもなく日々を過ごしていましたが、数週間前から、犯人は捕まっていないとか、張り込みに行かなければとか、口走るようになりまして……」

 老刑事は、全国使命手配中の犯人を逮捕出来ずに定年を迎えた。その未練が、老いさらばえた脳味噌を奇行に走らせるようになった。犯人の情婦宅に似た民家を見付けると、途端に目の色が変わるらしい。

「近くに恰好の見張り場所があると構わず押し掛けてしまうんです。その挙げ句に、偶々立ち寄った無関係な人を犯人だと思い込んでしまって」

「お父さんは、貴方の事を部下だと……?」

「はい……でも、それを逆手に取って父を見張っているんです。心の何処かでは、父に未練を残さず人生を全うして貰いたいと思っているんです」

 涙を滲ませるその顔は、もう精悍な若手刑事のものではなく、父親に振り回されるだけ振り回され、疲労困憊し切った息子のそれだった。

「兎に角、事態を収拾しますので、もう少しだけご協力をお願いします」


              5


 老刑事の苛立った声が足音と共に階段を上って来る。

「何でパトカーが来んのだっ。お前、ちゃんと署に連絡したのかっ?!」

「警部っ、犯人が逃げましたっ!」

 老刑事が襖を開けるが早いか、取り乱した若手刑事がそう叫んだ。

「何だとぉっ!」

「ちょっと目を離した隙に窓から飛び降りて、そのまま逃亡しましたっ!」

「馬鹿野郎っ! 追うぞっ!」

 疾風の如く階段を駆け下りて行く老刑事を余所に、若手刑事は再び息子の顔に戻った。

「ご協力、ありがとうございました」

 箪笥の中に隠れていた俺に深々と頭を下げると、息子は父親の後を追って行った。

「刑事さん達、素っ飛んでっちゃったけど……もうっ、何が何だか分かんないわよぉ~」

 パニック状態でよろよろと二階にやって来た妻を無視し、俺は窓の外を眺めていた。

 親子が表通りを走って行く。何れまた何処かのお宅に上がり込み、見張りを始めるのだろうか。

 父親が携わった最後の事件は未解決のままだという。元刑事である父親が未だ追い駆けているもの――それは最早、逃亡犯ではなく、自分自身ではないのか。無念な思いを堆積させた過去の自分を追い駆けているのではないのか。否、寧ろ彼自身が追い駆けて来る過去から必死で逃れようとしているのかも知れない。

 俺は、父子に同情しながらもほっと胸を撫で下ろした。彼等が出て行き、清々したからではない。彼等がからだ。

 雨戸の隙間から借家を覗く。

 十年前の或る日、隣人は忽然と姿を消した。中々の美人だった。愛想も良かった。気さくに俺を家に招き入れた。妻は当時からティーパーティーとやらに夢中で、その際に決まって外出する俺の行く先に何の関心も示さなかった。

 好条件が揃い過ぎていたのだ。

 でなければ、俺も魔が差す事はなかっただろうし、隣人の心に本気で火を点けてしまう事もなかっただろう。

 増してや、痴情の縺れが最悪の結果を招き、その日以降、俺から安眠の感覚を奪ってしまう事もなかっただろう。

 俺は、この先も借家を取り壊すつもりはない。誰にも床下を掘り返されないよう、然り気なく見張り続けなければならないのだ。

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