スパゲティー

「今日はいつもに増して元気がないね、本当に来て良かったの?」

「大丈夫、ちょっと喧嘩しただけ」

「まあ理由は聞かないでおくよ、じゃあ、映画を楽しもう」

 彼氏には出来ないスマートな手つきで私をエスコートしてくれた。


 今日見るのはサスペンス、有名な監督の作品で、とても楽しみにしていたものだ。

 件の監督は、日本ではあまり人気ではなくて東京のみの公演なので、慣れない東京で浮かないように、四時間ほど準備に時間がかかってしまった。


 右手の彼(慧くん)を見ると、今日はいつもと違って休日なのでカジュアルなジーンズとシャツを着ている。

 シンプルな組み合わせなのに品の良さが滲み出ていた。首筋がとても綺麗で、少し見惚れてしまった。


「いやはや、あのラストは脱帽だよ、まさか被害者が犯人だなんて」

「着いていけなかったね、高度過ぎて」

「ああ、でも今考えると全ての辻褄が合うんだ、非常に面白いねぇ」

「やっぱり話づくりが凄くうまいよね、あの監督。観客の感情グラフを作って練りこんでるらしいよ」

「そうなのか、だからあんなにも心を動かされるのか、監督の手の上で踊らされてたって訳だ」

「今日はありがとう。やっぱり一緒に見る人によって映画は面白みが段違いに変わるよね」

「なんだよ急に、まあでも、それはあるね。君と一緒に見られてよかったよ」

 作品についてああだこうだ言いながらレストラン街を歩く。


 ガラス張りのショーウィンドウ、凹凸の少ない滑らかなアスファルト、大きなビル。どれも慣れなくて、少し怖くて、いつもよりちょっとだけ彼に寄って歩いた。

 今日は私が全部出す、と彼に伝えたら、東京にしては非常に安価で、綺麗なレストランを予約してくれた。


 どう転ぶか分からないので、今日の為に一応五万円おろしてきた。うちのクズ男の為の五万円とこの五万円では、輝きが違ってみえた。


 数分歩いてそろそろ到着しようとした所で、一軒の店の中の一人に目がいく。

 私は遂に見つけてしまった。


 彼氏が他の女と高級料理店で食事をしているのを。しかも彼はすっかり店に馴染んでいた。

 見つけた時に足が止まった、ブワッと、全身の毛穴が逆立つような気がした。

 そして、憎くなった。誰の金だよ、私は知っている。彼氏は働いていない。足を止めて硝子の先を見る私に、慧くんも足を止めて囁いた。


「あれか、あの赤いシャツの男か」

「うん」


 首に冷や汗が流れてきた。いつもならすぐ拭くが、今は手が動かない。

『へえええええぇ』


私の口から出た言葉はそれだけだった。そして決まった。

 別れようと。それは私にとって初めての感情だった。

 すぐに遠くの街へ逃げ出したくなったが、合鍵を持っていることに気づいて混乱した。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だった。


 こんなに酷い人生なのか、こんなに。


 初めはゆっくりと、段々激しく、嗚咽が溢れた。周りに視線を感じても、涙は止まなかった。


「おい、ああ、泣くなよ、その、じゃあ、ちょっと俺の家くる?」

 顔をくしゃくしゃにしながら頷いた。

 彼が女の泣き姿に初めて遭遇するかのようなリアクションにも、少し驚いた。


===


 彼に背中をさすられながら約八十分、普通のマンションに着いた。

 私のよりも少し高そうだったが、そこまで差は感じなかった。

 錆びていない手すりを触りながら階段を上がって、六階。

 カチャリ、私と格の違う音がした。


 あまり物が無い、質素で素敵な家。


「とりあえず、ようこそ」

「うん、うん、ぐん」

「そうだよね、ちょっとココア的な飲み物入れてくるよ」


 今はとても幸せだった、優しい人が近くに居て。

 繊細でめんどくさいガラス細工みたいな私を気にかけてくれる、そんな事は初めてだったから、かもしれない。


 でもやっぱり、かなり悲しい。

 それは彼が浮気? をしていたことじゃなくそんな奴と一緒に生活をしてしまった私に苛立っているのだろう、少し身震いした。今の状況から目を逸らしたいからなのか分からないけれど、とにかく私は部屋に視線を移した。


照明のライトも、きっとつけたら暖かい色で部屋を包むんだろうな、なんて考えた。


「お待たせ、コーヒーとココアどっちがいい?」

白いマグカップを二つ楽しそうに挙げた彼は言った。平穏を装う格好が逆にオーバーに出ていて、少し滑稽だった。


「ココアがいい」

「はい」


 右手に持っていたマグカップを私が座るソファーの近くにあるテーブルに置いた。


「ありがと」

 ゆっくり啜った。ほのかに甘くて、温かい。お腹に入っていくココアは、嫌な記憶を溶かしていくようだった。


「おいしい、ありがとう」

「いやいや、ココアは流石にインスタントだよ、こっちのコーヒーはさっき挽いたんだけどね」


 そう言って彼は静かにマグを傾けた。そこじゃないっつーの、優しさにだバカ、と言いそうになったが、そこまで言う元気はなかった。


「あのお店、キャンセルしといた。じゃあ、俺は何かご飯でも作ろうかな、麻婆豆腐とオムライス、どっちが良い?」

「スパゲティー」

「普通さあ、気を使って、あ、この人この二つしか作れないんだ、じゃあこっちで。とか言うだろ、まあ俺は偶然他の料理も作れちゃいますけど?」

「わーい」


 嬉しかった。心の底から幸せを感じていた。


 疲れているのに笑える、悲しいのに楽しい。なんで苦しいのにこんなふうに冗談が言えるのだろう、パスタを茹でる彼の横顔を見つめながら、静かに眠りに落ちた。夢は見なかった。


「おい、起きてよ」

「起きた」

「パスタ食べるって言ったの七瀬だよな? 何故寝るんだよ」

「眠いから」

 悔しがっている彼の顔が可愛かった。


「もう冷めちゃうから早く食べないと」

「いただきます」

「早い早い、反則だろ」

「はんほふばあいおん!」

「何言ってるか分かるのが悔しいこれが」

「ふふ」

 そんなことを言いつつ礼儀正しく彼はフォークを掴んだ。


「熱っ」

「どんだけ猫舌なの?私はこれくらいが一番食べやすいのに」

「あんたがおかしいんだよ」

「はいはいそーですか」


 トマトソースのスパゲティー、麺はちょっと細め。

 作るのが麻婆豆腐とオムライスより簡単な物にしたが彼は気づいてくれなかった。鈍感め。

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