ジントニック
海嶺
飲み会
私は何なのだろうか。
男に使われる玩具? そういうドール? 知らない。考えちゃ駄目だ。
考えれば考えるだけ不幸になるから。
そう自分に言い聞かせて、自室のベッドにもたれかかった。
目の前にあるテーブルがやけに小さく感じる。こんなに小さかったかな、考えるだけ無駄だ。と汚い心の私が言う。
声の通りに思いを振り払い、テーブルの上に乗っている熱いマグカップを手に取って、コーヒーを喉の奥に流し込んだ。
今は何を読んでも何を聞いても頭に入って来なそうな気がする。
ファッション誌をテーブルに置いて、深く伸びをした。窓の外を見る。
夕暮れを少し過ぎた土曜の夜、六時半。
何もする気が起きません。
電気を付けていないせいで部屋は暗闇に飲まれ始めて、机の上のファッション誌の表紙が読めなくなった。
「電気……」
身体全体が気だるく、立ち上がる元気が無い。
スイッチを求めてズルズルと移動していると、鍵の開く音がした。
彼が合鍵でドアを開ける音がしても立ち上がれなかったなんてどれだけ土曜の夜は私をダメにするのか。
電気も付けず私が床に横たわっているのを少し不思議そうに見ながら彼が灯りを付ける。
眩し過ぎて少しクラっとした。
「ゴメン、今お金が必要でさ」
「いくらいるの?」
「五万」
痛い。
私が何時間稼いだら五万円が手に入るんだろう。
「ダメ」
「お願い。ダメ?」
迷子の仔犬のような目で私を見てきた。その瞳には本当に逆らえない。
いやでも、今回はダメだ。
私が葛藤していると、彼が私を抱き上げて、ベッドの上に乗せた。
右手で私の頬を触る。
少し冷たい彼の手。
グイグイとベッドの端に私を動かす。
伸ばした脚の中に彼の足が入ってくる。
遂に両手で私の顔を捕らえた彼の舌が口に入ってくる。
――ざらついた舌の感触。
「やめ、は、やえて」
「やら」
途端に気持ち悪くなった。
彼がではない、自分が気持ち悪くなった。もういいや、そう思った。
「はい」
「ありがとう」
嬉しそうに部屋から出て行く、その時少し見えた。
彼の口角が、少し上がるのが。
後味の悪いコーヒーは冷めて酸味を帯びている。
するするとコーヒーを啜っていると、急に視界が歪んだ。
また泣いてるのか、もう私の涙は枯れていると思っていた。
まだ泣けるなんて、体力がある。なんて下らない事を考えて、笑いながら泣いた。
一人で、飽きるまで。
笑う事に飽きて、最後は笑いも嗤いに変わって、テーブルに伏せた。
もう逃げたい。
仕事をする意味も、人と付き合う意味も、生きる意味もその時パッと無くなったような気がした。
たぶん、今までもそんなものは無くて、自分の居場所が欲しかっただけなんだろう。
いっそ透明になって背景になりたいと、天に願った。
しかし、私の体はいつまでも質量を保っていた。
二十三歳、辛いです。
===
あぁもう、足が痛い。
慣れない靴を履いて行ってしまったからか、それとも普段の疲れか、女友達と食べたランチも味が薄く感じた。
一番安いボロネーゼでも美味しいあの店で初めてあまり美味しくないと感じた。
照り付ける西陽から逃げるようにアパートのエントランスに入る。
郵便受けの番号の場所はもう覚えたが、何故か遠回りをして郵便受けを開けた。
水道局の広告、ともう一つ封筒が入っていた。
なんだこれ。
階段を五個上がって錆びた手すりを触りながらドアの前に行き、鍵をさした。最近は開けるのにも数分かかる。錆びているのか、違うのか。
後で油を差そう、と頭の中のメモ帳に書き込んだ。
やっと開いたドアを閉めて鍵を掛けた。
外側は全然開かないのに、内側から掛けるとすんなり回る不思議。
「はぁ〜」
見慣れた部屋、質素な、私の部屋。
あまり好きではないバッグをソファーの端に置いて、水道局の広告を捨てて、封筒を見た。
七瀬玲様、確かに私宛て。
カッターを持ってきて一回無駄に回して開けた。
それは同窓会の参加確認? 的な手紙だった。
成人式の時以来会っていないクラスメイトに会うのもいいかも知れないと思い、参加に丸を付けた。
少し嬉しかった。今までチクチクとして辛かった青のスカートがくすぐったかった。
あいつも、こいつもどいつも楽しそうに笑いやがって、来たら来たで苛立った。
昔は心が広いのが取り柄だったのに、変わってしまったな、と思った。クラスのマドンナ的だったあの子、垢抜けてんなぁ、とかなんとか成人式も考えたであろうことをまた繰り返した。
私はコンシーラー必須です、とあの子に対抗するように考えれば考えるだけ虚しくなった。
目線を強引にずらして全体を俯瞰してみる。
男は女に群がるし、女は男に色気を振りまく。
絶対的に昔から変わらない秩序がそこにはあった。
「玲も飲みなよぉ」
そう言いながら中三の時のクラスメイト絵里は私にジョッキを差し出す。いつの間にそんなにおちゃらけたキャラになって、いつのまに注文したのだ、と言うツッコミは抑えておいた。
「分かった」
喉にきつい発泡酒の香りが広がる。
強い炭酸、飲みきれない。
これだからビールは嫌いなんだ。
「いい飲みっぷりだねぇ」
お前は私の上司かよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。いい子はこういう時静かに頷くのだ。
これでいい。
ジョッキをゆっくりとテーブルに下ろした時、教室の笑いを取っていた男が左から寄ってきた。
「お前、昔より美人になったんじゃないか? どうよ、俺と今日」
「やめて、颯人、あなたは変わってないわよ」
「お、振るのも上手くなったじゃん」
悪びれもなくそんなことを言った。
居心地が悪いので、別の席に移動すると、恋愛話が盛り上がっていた。
「でね、そしたらあいつが、お前が悪いんだろって言ってきたの、あり得なくない?」
「えーありえない有り得ない。その彼、振ったら?」
「振るかも」
「振っちゃえ」
みんな思い思いに相手の愚痴を言うのを黙って聞いていた。
「玲は?最近あいつとはどうなの?」
「まあまあ、かな」
「なんだそれ、なんかあった顔してるぞぉ、熱いね」
「熱くない、熱くない」
冷や汗をかいた。思い出したくなかった。自分ではどうにも出来ないのだから。
昔から。
相手から言ってこないと付き合わない、相手に振られなければ、別れない。
ずっとそうなのだ。
いつも私は自分で何かを望まない。
人にも、自分にも。
そうしてずっと人形のように使われて来た。
飲み会に行くたびに持ち帰られて、嫌気が差していた。
今回はそんな失態はしない。
誰にも抱かれず無事に家へ帰るのだ。
一時期、そういう風に使われるのが自分の使命なんじゃないかと感じていたが、やっぱり違う。
男のために生きているのではない、自分のために生きるのだ。自分のために稼いで、自分のために使う。
――そう思っても、まだ彼とは別れられないでいる。
「でも、やっぱりカッコいいから、まだ別れないかも」
付き合った、別れた、結婚した、つまんない、ねえ聞いて?そんな話で数時間が流れた。
時計が十時を回った時、そろそろ移動しようかと誰かが提案した。
「ちょっと早くない?」
「いいねいいね」
結局二次会に行く組と、帰る組に分かれた。
もちろん私は帰る組、生ぬるいアスファルトの上で、ガバンを強く握った。
「バイバイ」
分かれて、駅へ向かった。帰る組のメンツは、相手が待っている人たち、仕事がある人達、さまざまだ。
「やっぱそんな感じ?」
「ああそうだよ」
「やっぱそっちの業界も厳しいね、良く就職一年目でそんなやれるね」
意識が高そうな会社に勤めている二人が話していたり、結婚した女同士で旦那の愚痴を言ったり、様々な声が道へと溶ける。
帰る雰囲気、大好きな雰囲気。
晩夏の暖かさが胸を焦がした。
早くシャワーを浴びて布団に入りたい。
ほろ酔いの私は強く願った。
明るい居酒屋の通りを通る時、後ろから声を掛けられた。深く余裕のある声、背筋が凍った。
「七瀬さん、だよね、ちょっとそこのバーで飲みなおさない?」
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