第17話 流された先で
遠い日のことを思い出す。世界は立派な建物と母上たちだけだった。
先生たちからは高度な教育を受け、貴族としての教養を身につけていく。弟妹たちとたまにお茶会をしては遊ぶ。
そんな伸び伸びとした毎日を送っており、自分の将来に不安も不満も抱いていなかった。
8才で左目に刻印が発現した時、当時は少し騒ぎになった。皇宮警備隊の隊長も珍しい発現場所だといい、なんと皇帝が俺の刻印を見るためにわざわざ皇宮まで来てくれたのだ。それが最初で最後になる父上との対面だった。
いったいどんな刻印術に目覚めたのか。これまで皇帝一族の刻印を記録してきた文官も興味深々だった。
まぁ発現した能力は両手に黒い手甲が顕現し、腕力が上がる程度のものだったのだが。
しかし戦い向きといえば戦い向きだ。将来どこかの領地か他国に出されることは決まっていたが、あるいは騎士団を率いる可能性もあるとされ、剣の稽古も本格的になった。
そんな日々は何の予兆もなく砕かれる。いや、俺がその予兆に気づけていなかっただけなのだろう。気づけたところで、当時それを乗り越えられるほどの力はなかったが。
そして第二の故郷であるアマツキ皇国でも、また俺はすべてを失ってしまった。今回もやってきたのは帝国だ。
この地で武人として一生を過ごす。そう決意した矢先の出来事だった。
なんなんだ……いったい俺がなにをしたというんだ……。
何が足りなかった? どのタイミングでどうしていれば、未来を変えることができた? わからない……なにもわからない……。
武人として強くなるだけでは足りなかった。では俺に強い立場があれば、話は変わっていたのだろうか。
その強い立場とはなんだ? 何ができる者を指す? 立場に強弱があるのは、いやというほど思い知っている。かつてはそれ故に母上を目の前で失ったのだ。
もう自分の大切なものを……居場所を失いたくない……。これまで自分が身につけた強さに、答えと意味が欲しい……。
帝国軍の追手を見た時、俺は決意を固めた。答えと意味を得るために、ここに残って戦い続けると。そして師匠はそんな俺の気持ちに応え、共に残ってくれた。
もう答えは出たのだろうか。意味は生まれたのだろうか。みんな……無事に草原へ向かえているのだろうか。
「ぐ……っ!」
全身に鈍い痛みが走る。俺はゆっくりと両目を開いた。
「が……はぁ……はぁ……」
どこだ……ここは……。どうしてこんなに全身が痛い……?
「そう……だ……。おれ、は……あのとき……かわに……なが、されて……」
どうやら濁流に流され、そのまま海に出たらしい。
俺は今、岩肌にひっかかるように全身が固定されていた。波は容赦なく身体にかかるし、正直かなりしょっぱい。
「どこまで……ながされ、たんだ……?」
川に流されて海に出たにしては、周囲にあるのは断崖絶壁の岩肌だけだ。それがどこまでも続いており、とても登れそうにない。
「ん……?」
ふと視線を横に向けると、少し先に刀が岩の間に挟まっているのが見えた。
間違いない。師匠より賜った神秘の刀、桜月刀だ。同じところに流されてくるとは……。
いや、案外あの刀が俺を守ってくれたのかもな。桜月刀はその製造工程から、皇族の特殊な力が宿ると言われているし。
「うご……け……!」
少し身体を動かしただけでも、全身が悲鳴をあげる。そうとう長い時間、身体を動かせていなかったのだろう。
筋肉は固くなっているし、長く海水に浸かっていたおかげで皮膚はふやけている。
「ぐぅ……!」
ゆっくり慎重に岩肌を移動し、どうにか刀を手にする。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
これだけでかなり体力を使った。
まずいな……意識を取り戻したのはいいが、早く食料や水を確保しないと。このままでは死んでしまう。
「はぁ、はぁ……。ん……?」
刀を取りに移動したことで、俺はその先の岩肌にくぼみがあるのを発見した。
角度的にさっきまで隠れて見えていなかった場所だ。そしてそのくぼみの先に洞窟が見えた。
「なんだ……洞窟……なぜ……」
まぁ大自然の話だし、洞窟くらいはあるか。とにかく今はどこか地に足をつけられる場所へ移動したい。
そう考え、ゆっくりと岩肌越しに移動を開始する。そしてどうにか洞窟の入り口までたどり着いた。
入り口こそ海水で浸かっているが、その先には地面が見える。俺はホッとしてそこまで移動した。
「はぁ……どうにか……休めるか……」
全身がだるい。よく生きていたものだ……。
「…………?」
今さらながら普段よりも視界が広いことに気づく。左目に触れてみると、いつも付けていた眼帯が外れているのが分かった。
「さすがに……海に飲まれたか……」
こうなっては仕方がないな。というか意識したら、いきなり視界の広さに違和感を感じるようになった。
皇国がなくなった以上、もうこの目を隠す意味もないのか……?
「はぁ……とりあえず……やす……もう……」
地面の上に座れたことで安心したのか、一気に疲れが襲いかかってくる。俺は眠気に逆らえず、そこで眠りについた。
■
「ん……」
なんだ……身体が……濡れてる……?
うるさいくらいに聞こえる波の音で目を覚ます。そして驚きで思考が一瞬固まった。
「…………っ!」
なんと身体が海水に浸かっているのだ。今は壁際まで流され、そこの岩肌に身体がひっかかっている。
さっきまでちゃんと地面があったはずなのに……!
「潮の……満ち引きか……!」
く……! ここも安全ではない、とにかく海水が満ちる前に洞窟を出なければ……! そう考え入り口を見る。
「うお……!?」
すでにその入り口は小さくなっていた。今から洞窟を出るには、まず入り口まで泳いでいかなくてはならない。だが。
「俺……泳げないんだけど……!?」
そう。これまで遊泳なんてしたことがないし、ましてや鍛錬も積んだことがない。
それに海水の中でこんなに固まった身体を動かしても、まともな挙動ができるはずがない。足をもつらせて沈んでいく未来が鮮明に見える。
「せめて身体が十全に回復していればよかったのに……!」
それならまだ何とか不器用なりに泳ごうとしたかもしれない。
しかし海面が上昇したことで、段になっている洞窟の奥へ上がれるようになっていた。幸いそこには腰を落ちつかせられそうだ。
「ぐ……!」
入り口とは逆方向に進み、段の上へと上る。そして入り口は完全に海水によって塞がれた。明かりも入ってこなくなったので、完全に真っ暗になる。
「さすがにこれ以上は……海面も上がってこないよな……?」
思えば下の地面には貝殻が多く見られた。暗い地面を触ってみるが、上の地面には貝殻の数も少ないように感じる。
「少し流れてくるかもだが……海水に浸かるということはなさそうか……?」
少し寝たおかげで、多少は体力が回復した。その頭でこれからのことを考える。
(このまま待てば、また海面は下がるのか……? そしたら外に出る? いや、外はずっと断崖絶壁が続いていた。登ることは不可能。では岩肌伝いに移動する? どこまで続いているのか分からないのに? その間の食べ物や水は? まともに足がつかないまま、体力はもつのか?)
そもそも長く岩肌で意識を失っていたからか、全身が痛い。おそらく複数個所で打撲を受けている。
だがこのままここに居ても朽ちていくだけだし、やはり一か八か外に出て移動するしかないだろう。
(そうだ……それにマヨ様や師匠たちも、カーラーンさんの案内で草原へ向かったはず。そこまで行ければ……またみんなと会える……)
ふと「会ってどうする?」という問いかけが頭に浮かぶ。
帝国に居場所を奪われる恐怖を感じながら、一生を草原で暮らす? また帝国軍が現れたら、今度はどこに逃げる? そもそもまた逃げるのか? 奪われる立場の者は、一生その立場から逃げられないのか?
「………………!」
俺の知る中で、最強の剣士は師匠だ。その師匠ですら帝国軍から皇国を守ることはできなかった。せいぜいマヨ様をはじめとした、少しの民を守れるくらいだ。
なぜか。それはやはり師匠も個で強くとも、立場が強くなかったからだろう。
最強の立場。それは皇国の皇王ではなく……帝国の皇帝だ。
立場が強ければ、個の実力者でさえ自分の強さとして使うこともできるのだ。例えば皇国を侵略した黒鉄の重装歩兵たちのように。
「くそぅ……」
気付けば涙が流れてきていた。もう疲れたのだ。奪われる立場でい続けることに。そこから出られないことに。
マヨ様のことを思い出す。彼女は……今、何を考えているのだろうか。
彼女も俺と同じはずだ。奪われ、そして大切な居場所を失った。だがあの時話したマヨ様は、小柄ながらとても気丈な女性に見えた。
きっと兄との約束が……そしてこれまでの皇国における日々が、彼女の中で強く輝き続けているのだろう。
「俺にも……俺にも、そんな輝きが……あれば……」
きっと人はその輝きを、生きる意味だったり人生を賭しても成し遂げたい目標と呼ぶ。あの時、俺が橋の上で見つけたいと願ったものだ。
「……いいや、まだだ」
まだ今からでも見つけられる。こんなところで泣いて人生を儚んでいる場合じゃない……! まずはなんとしても、ここから生きて出るんだ……!
「そうだ……俺はまだやれる……! やれるんだ……!」
全身に力を入れ、何とか立ち上がる。既に周囲は真っ暗で何も見えないが、まずは一晩寝られるスペースを確保しなければ。
そう考え、足を進めながらなるべく平たい場所を探る。そして。
「んぇ……?」
自信満々に踏み出した先に地面はなく、体幹バランスを大きく崩した俺は、そのまま真下へと落下していったのだった。
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