阿姨――皓也side
ぐらり。どう考えても人為的ではない揺れがベッドを通して伝わり、心臓が跳ね上がった。物音は、しない。――嘘だろ。まさか。まさか……!
となりでは何も気づいていない陸玖が寝息を立てている。ぐらり。さっきよりは小さな揺れだが緊張が限界まで高まる。
かたかたかたかた……。
小刻みな揺れが嘲笑っているかのように襲い掛かる。嫌な汗が背中を伝い落ちた。きっと顔から血の気が引くのを感じた。陸玖はというと、何事もないかのように穏やかな寝息を立てている。
思い出したくもない二年前のあの日の記憶が、いくら追い払おうとしても脳裏に蘇る。思い出すな。隣では陸玖が寝てるんだぞ。思い出すな――。必死に念じるものの、記憶の蓋はあっさりとはがされた。
2016年。僕がまだ6歳だったあの台湾南部地震が起きた年である。
台湾南部地震は今――2025年から9年前、台南を中心に最大震度7を観測した大地震だ。
特に春節の帰省シーズンで家族がが集まっていた台南市の集合住宅は直撃した地震で倒壊し、死者の117人中155人はその住宅にいた人たちだった。
僕たち家族はもともと父の実家である台南市に住んでいた。父が台湾の本社から日本へ転勤になったのはまだ僕が生まれたばかりのころなので、その事実だけを見れば運がよかったと思うかもしれない。
しかし、日本へ父が転勤になってからも春節は毎年台湾の祖父母の家で過ごす僕たちがその年に限って日本にいたかというと――そうではない。
僕たち家族はもちろん父の家族や台北市に住んでいたその親戚も例外なく台南の祖父母の家に集まっていた。
つまり、被害を受けた大勢の帰省者の中に僕やその家族、親戚も含まれていたわけで。祖父母の実家は崩れることこそなかったものの、家じゅうの棚が倒れ、食器が飛び散った。
問題は父の姉、つまり僕の叔母にあたる人だった。彼女は祖父母との折り合いが悪く、春節も自宅で過ごすと言い張っていた。
それでも、僕や父、母には優しくて僕たち家族は彼女のことが大好きだった。台湾へ帰るたび、僕は
――彼女が春節を過ごすと言い張った、その自宅こそが、そこで亡くなった人が全体の九割を占めたというあのマンションだった……。
辺り一面、がれきの山。気づいたときには、父に連れられてもともと集合住宅が建っていたという所に立っていた。十七階まであったという建物はもう跡形もない。
「ねえ、爸爸。阿姨は?」
今思えばとてつもなく残酷な質問だったに違いない。しかし、小学校に上がったばかりの僕にはそんなことを考えるなんてとても無理な芸当だった。僕の放った一言は、父の胸の真ん中を貫いた。
何も知らない純粋な質問だったからこそ、父には堪えたに違いない。彼は黙って僕の手を取って歩き出した。なぜその場を離れるか、その時の僕にはわからなかった。
「ねえ、どこ行くの?」
父は何も答えずに歩き続けた。心なしか大股で。しばらくして着いたのは、近所の小学校だった。
なんで学校なの? 避難するわけでもないのに。父は何も言わずに僕の手を引いて学校の校舎に入っていった。
なんで? 避難するとしても体育館じゃないの?
その教室は、異様だった。
病室のように規則正しく何かが並べられている。でもそれには布団ではなくて白い布がかかっていた。なぜか外より気温が下がった気がした。
――なんか、おかしいよ。重っ苦しくてピリピリしてて、なんでこんなに変な雰囲気なんだろう。
係員らしき人が父さんに声をかけてきた。父さんは何も言わずにその人について行く。なんだろう、この変な空気は。父さんだけじゃない。ここにいる人みんなが変な感じだ。
なんで、あのお兄さんは泣いてるの? なんであのおばさんは床にうずくまってるの? なんで?
――なんで、お父さんも泣いてるの?
「阿姨だよ」
父が泣いていることに気づいたのはその時だった。係員が顔にかかっている布を取り払う。彼は震える声で顔だけが露になった横たわっている人を指した。いくら幼い僕でもわかった。そのひとは、もうこの世の人ではないということが。
僕は一生忘れないだろう。
紙のように白い彼女の顔を。見る見るうち崩れていく父の表情を。教室に響き渡った父の慟哭を。
そんな風に感情をむき出しにした父を見たのは、これが最後だった。父はその後から、いくら仕事で失敗しても母と喧嘩しても柔和な笑みを口元にたたえて崩さなかった。前は、一日自室にこもって出てこないことさえあったのに……。
もう、この時に実の姉を失った彼の心は死んでしまったのかもしれない。
驚くほどの力をもってほとばしった父の悲しみはよくわからないながら幼い僕にも伝染したらしい。
床にうずくまってしまった父に縋り付いて泣いた記憶が今でも残っている。
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