メイドのりりは、ある日女王様と出会う

花田トギ

第1話

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 扉を開けて入って来た見慣れた男性に、にっこりと微笑みお辞儀をして出迎える。クラシカルなロングのメイド服を着て、女の子達がご主人様お嬢様をおもてなしするお店だ。もちろんイベントの時にはミニメイドやナースのコスチュームを着る事もあり、コスプレが好きで演技に興味がある私にとっては働きやすい職場だ。

「りりちゃん、ただいま。いつものやつ頼むよ」

「はい、にい様すぐに準備しますね」

 にい様と呼んでいるが、もちろん兄ではない。客が始めての来店時にポイントカードを作る時、カードに呼ばれたい名前を書く。それを見てメイドたちはご主人様の名前を覚える仕組みだ。にい様はポイントカードに本名の『仁井』と書いたのでにい様だ。

 私は記憶力が良い方で、一度接客すれば顔と名前をわりとすぐ覚える事が出来た。接客する上ではかなり使えるスキルだ。

 慣れた手順でフットバスの準備をすませると、カフェスペースの横に併設されている半個室へとにい様を手招きした。

「では本日もご奉仕させていただきます」

 にい様の靴下を脱がし、足湯に付けさせる。クッション性の高い椅子の背後に周り肩のマッサージを始めた。だってここはメイドリフレのお店だから。

「りりちゃんのマッサージ、どんどん上手になるから嬉しいよー」

「にい様が教えてくれるおかげです」

 にい様は私がこの店へ初出勤した時に、初来店したお客様の一人だ。何にでも初めての相手というのは記憶に残りやすいもので、私にとっては特別なお客様の一人だった。にい様の方も私を気に入ってくれているらしい事は分かっていた。

「可愛いし、接客も丁寧だし、すぐに人気メイドになっちゃったね」

「そんな事ありません。私なんてまだまだです」

「その謙遜するところが良いんだよね」

 謙遜ではない。在籍数が多いこのお店において、私の人気は中の上といったところだ。メイドの人気はマッサージの指名数、チェキの販売数等をポイント化して、月に一度発表される仕組みだ。

 顔のレベルはそこそこ、マッサージは上手な方だから妥当な評価だと納得していた。人気上位陣はリアル高校生や元お水のプロのような人までいて、雑誌に頻繁に載る。女子高生ほど若くもなく、本職程プロ意識も無い、ただの大学生の私にはそんな話は来ない。

 そんなレベルの私にも、何人か熱心なファンがついてくれているのはメイド服という強みのお陰だろう。メイド服を脱いだ私には、そんな価値は無いし今のポジションに文句はなかった。

「ああ気持ち良かった。ありがとう」

「こちらこそです。お紅茶お持ちしますから、席でお待ちくださいね」

 マッサージを受けた後は、カフェスペースでまったりして帰るというのがこの店の王道コースだ。カフェスペースだけの利用も可能だが、ほとんどの客がメイドと一対一でお話が出来るマッサージコースを選んだ。

 カフェスペースでは独自のコミュニティが構成されていた。ほぼ毎日来ては長時間カフェにいる人を中心に、客同士の交流も盛んだ。中にはメイドにガチ恋している人もいて、同担だと分かるとバトルが始まる事もあった。

 もちろん喧嘩はご法度なので、そういう場合はゲームで勝負を付ける。カードゲームが好きな客が多いから、店が大会を企画した事もあった。私はルールが分からないので、応援するだけだったけど。

 紅茶と茶菓子をトレイにのせ、にい様の所へ配膳しに来た私は、いつもはのほほんとしたカフェスペースの雰囲気が、今日はちょっと違っていることに気が付いた。いつもならアタッシュケースからノートパソコンを取り出し得意気な常連客Aも、ギターケースからノートパソコンを取り出してそれに対抗している常連客Bも、今日はパソコンを出す事無く大人しくジュースを飲んでいる。彼らの視線の先を辿ると、不穏な気配は一組の男女から発せられている事が分かった。

 萌産業においてカップル客は珍しくない。大抵女の子の方が興味があっての来店で、そういう女の子はだいたいオタクである。そして、メイドも大半がオタクなので、それなりに楽しい時間が過ごせる。まあ、私は漫画もアニメも子供の頃は見ていたけど、受験勉強を開始したくらいから見なくなったから、女性客の相手をすることは少なかったけど。

 その男女はいつものカップル客とは全く違うオーラを放っていた。メイクバッチリの目を惹く美人はぴったりとしたブラックデニムで足の美しさを際立たせていて、ヒールの高いロングブーツを履いた長い脚を組んで座っていた。オタクっぽさやレイヤーっぽさの無い淑女は優雅に紅茶を飲んでいる。

 ここまでは分かる。

 おかしいのは、連れの男性客が向かいの席に座ることなく女性の斜め後ろで気を付けをして立っている事だ。

 状況を把握したかったが、私の手にはトレイがあった。まずはにい様の所にこれを運ばなければならない。立っている男性の横を通り、私はにい様のテーブルに紅茶と茶菓子を置いた。先にカフェスペースに座っていたにい様は、紅茶の砂糖を投入する私に小声で話しかけてきた。

「あの二人……」

「ちょっと不思議な空気ですよね。他の子に聞いてきます」

 くるくるとティスプーンで円を描くと、カフェ担当のメイドへと近づいていく。マッサージの指名が入らない時間、メイドたちはカフェの仕事を担当する決まりになっている。

 平日の昼間である今は、客数も多くなく、カフェにメイドは二名しか居なかった。そのうちの一人、レイの所へ移動する。

「レイちゃん、あのお客様……」

「なんか凄いわよね。最初、マッサージするって仰ったんだけど、好みのメイドがいないからカフェに行くってなってね」

 レイちゃんは普段はアパレルで働く社会人メイドだ。社会人だけあってしっかりしていて、出勤日数は少ないがメイドたちのお姉さんとして慕われていた。私も、年下のメイドが多い中、年上で物腰が柔らかい彼女に懐いていた。

「あの男の人の方は……」

「ドリンクを勧めたんだけど、女性の方が『これは犬だから飲みません』って」

「犬?!」

「そう、それでね、あの人の首元見て」

 レイちゃんに言われ、男性の首元へと視線を移す。一番上までボタンを止めたワイシャツ。その隙間に、黒い何かが見えた。

「……首輪?」

 私の推理にレイちゃんが頷いたところで、にい様が私を呼んだ。

 次のマッサージ指名が入るまでは、マッサージを担当したメイドが給仕係と決まっているからだ。

私は再び男性の横を会釈をしながら通り過ぎた。

 その時だった。

「ねえ、あなた」

 女性に呼び止められた私は、足を止め体全体を彼女に向けた。

 対面して、初めて気が付いた。彼女は圧倒的なオーラを持つ人だということに。

「どうなさいましたか、お嬢様」

 スカートを持ち上げ、お辞儀をする。顔を上げて目を見る事が恐ろしく思えたが、いつまでも下を向いてはいられない。私はまっすぐ彼女の目を見た。

 淡い色をした瞳は多分カラコンだろう。目の周りを黒く縁取り、真っ赤な口紅が似合っている。

「あなた、良さそうだわ。マッサージお願い。あ、犬も連れてって良い?」

「犬……でございますか?」

「そうよ、犬。ほら、ご挨拶して」

 女性に顎で指示された男性が、私の前に一歩近づいてきた。

「どうも、犬山と申します」

 細長い体をゆらりとゆらしながら、犬山は握手を求めてきた。

「違うでしょ!犬でしょ!」

「申し訳ありません!――わんわんっ!」

 女性の強めの指摘に、背筋を正して、男性は犬の様に鳴いた。

「ほら、言う事聞く犬だからいいでしょ?」

「か、かしこまりました。準備いたします」

 顔を引きつらせることなく、そう言えた私を皆には褒めて欲しい。



「力加減いかがでしょうかお嬢様」

 私は女性客に跪き、足湯を終えほんのりと赤くなった足裏をぐりぐりと指で押していた。彼女の足の爪は深紅のペディキュアで彩られていて、とても美しかった。この仕事をしているから分かるが、言葉通り頭のてっぺんから足の先まで手入れが行き届いている。

「もっと強く出来ない?」

「これくらいでしょうか?」

 私は持てる限りの力込めた。

「そうそう、良いわよ。上手だわあなた」

「ありがとうございます」

 必死に足裏を揉む私を、彼女は見下ろして笑みを浮かべている。もちろん斜め後ろには犬山さんが何をするでもなく立っていた。

「ねえ、りりちゃんだっけ?」

「はい、りりと申します」

「少し質問しても良い?」

「もちろんでございます」

 体重を掛けながらも、顔を女性客へと向け笑顔を浮かべた。マッサージ業務はなかなかの体力仕事だ。きっと明日は筋肉痛になる事だろう。

「あなたいくつ?」

「え?えっと……」

「十八は越えてるわよね?」

「はい、越えております。一応飲酒可能な年齢です」

「うん。良いわね。ね、犬山もそう思うでしょう?」

「はい、アキラさん」

 犬山さんの返事を聞いて、二つ予想が出来た。まずは女性客の名がアキラだと言う事。もう一つは彼女が犬山と呼ぶときは人間扱いされているのだろうと言う事だ。

「ねえ、あなたの事スカウトしたいんだけど」

「スカウト……」

 足から手を離し、警戒心を抱いた。風俗や水商売のスカウトが来る事も珍しくないからだ。確かに、そういう仕事と兼ねているメイドは多数いる。でも私は可愛い服を着て、なりきるのが好きなだけで、夜の世界への興味は無かった。

「申し訳ありません」

 断ろうと言葉を続けようとしたが、女性客はそれを許さない。

「ねえ、私の職業何かわかる?一発で当ててね」

「ええっと……」

 高身長なモデル体型で自身に満ち溢れた女性が、首輪をした犬を連れているとくれば、なんとなく察しはつく。

「――女王様とかですか?」

「せいかーい。さすがねりりちゃん」

 ゆったりとした上品な拍手が、私の警戒心を煽った。

「ね、興味あるでしょ?」

「お嬢様、私はそういう仕事は――」

「ここ何時まで?」

「申し訳ありません、お店の規定で出勤時間と退勤時間は教えられないんです」

 これは事実だ。入待ちや出待ちをしたり、ストーキングしたりする客が後を立たないのだから仕方のない措置だ。

「ええ?私が聞いてるのに、教えてくれないの?」

「お、お嬢様……っ、ち、近いです」

 マッサージを終えた足で、体を挟まれた。そのまま長い足に捕らえられ、アキラの近くに引き寄せられる。至近距離で見ると、彼女の瞳は緑がかっていて美しかった。手入れされた大人の女性の香りに、ドキドキする。

「私はあなたのご主人様でしょう?教えなさい」

 顎を持たれ、目線を外せなくされる。自分の顔が赤くなるのが分かる。こんな近くで命令されるとどうしてだか従いたい気分になった。何よりストーカー対策で教えない仕組みになっているだけだ。アキラが私のストーカーになるとは思えなかった。

 アキラの後ろで犬山が両手を頬に当て、乙女の様な声を上げたのが見える。

「――六時です」

「いい子ね、分かったわ。それくらいに店の前のカフェで待っているわ。必ず来なさい」

「はい……」

 やっと手と足から解放されたが、早鐘の様に心臓は煩いままだった。



 マッサージを終えたアキラ達が帰った後、私はお客さん達からもメイド達からも質問責めにあった。プチフィーバーにぽろりと零してしまいそうになったが、そこは守秘義務を守る真面目な私。余計な事は何も言わなかった。

 その中でずっと私を心配そうに見つめていたにい様が、退店のお見送りに私を指名してくれた。

「大丈夫だった?」

「ご心配ありがとうございます。ダイジョブです」

「俺に何か力になれる事ある?」

「そのお言葉だけで嬉しいです、にい様」

 微笑み、私はスカートの裾を持ち上げ頭を下げる。もうお別れの時間だ。

「また来るね」

「はい、またのお帰りをお待ちしております」

 顔を上げ、首を傾ける私に、にい様は何か言いたそうにしていた。それでも私は気付かないふりをして、大きく手を振る。それを合図に、にい様は一人で店を去っていった。

「そろそろヤバいかもね」

「レイちゃん?!」

 背後から現れたレイちゃんに、驚いて少し飛びあがる。

「にい様、そろそろりりちゃんに告白しそうじゃない?」

「……レイちゃんもそんな気する?」

「するわよー。今日も、りりちゃんが女の人のマッサージしてる時すごく心配そうにしてたわよ。それに、他のお客にちょっとマウントとってた」

「うそ?!にい様が?」

「ほんとほんと。こっちからすると告白なんてせずに、この空間を楽しんでほしいんだけどねえ」

「そう―――だよね」

 力なく同意した私を、今日の勤務が疲れたからだと思ったのか、レイちゃんはやさしく抱きしめてくれた。ふんわりとした癖っ毛のレイちゃんは、私より背が低くて可愛いメイドさんだ。

 メイドにガ告白しててくるお客さんは結構多い。多い時だと一日に数人に告白されるなんて事もザラにある世界だ。

 でも、だいたいがあわよくばを狙った軽い気持ちの告白だ。そういうのはこっちにも分かるから、軽くかわすことが出来る。

 困るのは、ガチ恋のお客さんだ。ガチ恋客はありがたさより困った度の方が上回る。まあ稀にメイドと付き合う事になるご主人様もいたが、基本的にお客様と付き合う事は店で禁止されている。それでも後を立たないのがガチ恋だ。告白されてふってしまったら、もう店には来なくなる。

 私はルールは守る派の人間だ。にい様の事は好きだけど、多分にい様が私に抱いている気持ちとは天秤のバランスが取れないだろう。

 困った事になりそうだと一つ息を吐いて、私はこの日のシフトを終えた。



 待ち合わせのカフェの前には、犬山が一人で立っていた。

「コーヒー飲めます?甘いやつ」

 私の姿を確認した途端、早口で確認される。

「の、飲めます」

「はい、それは良かった。お仕事お疲れ様です」

 そう言って手渡されたのはカフェのテイクアウト用紙コップだ。コーヒーの香ばしい香りとバニラのような甘い香りがした。

「頂いて良いんですか?」

「大丈夫です。今このカフェで購入しました。アキラ様はちょっと雑務が入ってしまいまして、私は案内をするよう言われています。というわけで、飲みながら移動しましょう」

 一瞬躊躇した私の気持ちを汲んだ犬山の言葉に、好意を受け取る事にした。一口飲み込むと、嬉しそうに犬山が笑う。先ほど店にいた時とは違う雰囲気に、なんだか拍子抜けしてくる。

 細身の体に皺の無いワイシャツとスラックスを着用した犬山は、まともな大人に見えた。首元にちらちらと見える首輪を除いてだが。

「あの、犬山さんは……」

「犬山と呼んでください」

「さすがに年上の方をいきなり呼び捨ては抵抗があるんですが」

「きっとすぐ慣れます」

「……じゃあ慣れるまではさん付けさせてください」

「わかりました」

 少し不満げに眉を寄せつつも、こちらの希望を通してくれた事に安堵する。

「犬山さん、アキラさんといる時と雰囲気違いません?」

「ああ。それはそうです。今はプレイ外ですから」

「プレイ外……?」

「意外とまともなんですよ私。あ、そうだ、これ見せたら安心材料になりますかね?こういう会社に勤めてます」

 差し出された名刺には、私でも知っている大企業の名前が印字されていた。しかも役職付きだ。

「今から案内するところも怖い所ではありません。私にとっては本当の自分になれる所です」

「本当の自分」

 オウム返しした私に、犬山は柔らかく微笑んだ。

「ほら、こちらですよ」

 雑居ビルの一角で足が止まる。barや無料案内所が混在する中で、その場所はシャッターが降りたままだった。困惑する私を犬山は見つめながら、シャッターを手で上げる。少し屈めば通れるようになった。

「ほら、こっちにどうぞ」

「――ほんとに怪しくないですか?」

「安全は保障します」

 会ったばかりの人に保障されても信じられない。

「いや、ちょっと怪しすぎますよ」

「りりちゃん?」

 頭の中で警報が鳴り響き、首を横に振った時、聞きなれた声に私は振り向いた。そこにはオタ系ショップの袋を持ったにい様が顔を青くして立っていた。

「ちょっと、何してるんですかあなた」

 にい様は駆け寄ると、私と犬山の間に入ってくれた。袋の中に美少女フィギュアが入っているのがチラリと見える。

「アキラ様に言われてりり様をご案内しております。――りり様、こちらの方が一緒なら来てくれますか?」

「え?いやそんな、それはさすがに悪いというか……」

「行きます!りりちゃんは俺が守ります!」

 にい様の圧に流されて、私はビルの中に入っていった。


「よく来てくれたわね、りりちゃん」

 案内された部屋に入ると、そこにはボンテージに身を包み、足を汲んで座るアキラがいた。座っているのは、男の人の上なのだけれど。

「アキラ……さん……えっと……」

 絶句している私の横で、にい様が狼狽えているがフォローする余裕は無い。

「よく来たわね、りりちゃん。さあ、お話を始めましょうか」

「このままですか?」

「何か問題ある?」

 私の視線はアキラの椅子になっている男性へと向けられている。恰幅の良い男性は、服を着たまま四つん這いになり、顔を全て覆うマスクを付けられている。

「その方は……?」

「りりちゃんが来るから服は着せたんだけど、ダメだった?」

「ダメというか、そのあの……」

「ダメじゃないならいいじゃない。ほら、犬。お二人に椅子を用意して」

「わんわんっ」

 犬山が嬉しそうに返事をして、丸い椅子を二つ置くといつもの定位置であるアキラの後方に立った。キラキラした瞳をした犬山は先程までのまともな大人とは違う雰囲気があった。

「さっきも言ったけど、りりちゃんを私の弟子にしようと思ったの」

「弟子って女王様のですか?」

「そうよ。私は長年女王様として生計を立ててきた。だけど、そろそろ一人じゃ手が足りないのよね。だから向いてそうな子を探して、犬とお散歩してたの。そしたらりりちゃんが良いなって思ってね」

「じょ、女王様!?りりちゃんが!?だ、駄目だよそんな風俗なんて!」

 男の上で足を組み替えたアキラに向かって、にい様は立ち上がって激昂した。

「風俗ねぇ……私はそうは思わないけど、世間的にはそう思われるのよね。でも、素晴らしい職業だと思うわ」

「男の体に触れるなんて汚らわしいじゃないか!」

「じゃあ看護師は?介護士は?男の体に触れるわよ?」

「性的じゃないじゃないか!」

「ふふ、あなたりりちゃんが好きなのね。じゃあ女性に性的に触れるのは良いの?」

 アキラはおもむろに立ち上がった。コツンコツンとヒールの音が近づくにつれて、彼女の纏う甘い香りで満たされてくる。私の背後に回ると、首筋に触れ、ゆっくりと指を唇へと滑らせて行く。綺麗な指先に振れらた部分から熱くなるのが分かった。

「さ、触るなぁ!」

 にい様は私を強引に引き寄せ、胸に抱いた。意外な力強さに目を見開く。

「ふふふ。可愛らしいわ。――犬、捕まえて」

「わんっ」

 犬山が素早く動いてにい様の手を捕らえ、膝まずかせた。

 いつの間にか人間椅子の上に戻ったアキラが、私へと指示を出す。

「いいわ。今日はお試ししましょう。SМを射精産業とは一味違うって分かって欲しいのよ。ほら、りりちゃん彼の前に立って」

 アキラの言葉にはどこか強制力がある。私はにい様の前に立ち、彼の顔を見下ろした。困惑した表情で見上げてくるにい様が、弱々しくて可愛らしく見えた。足裏マッサージをする時とは逆の立ち位置だ。

「り、りりちゃん……?」

「りりちゃん、どう?犬に抑えられて身動きできないその人をどう思う?」

「……なんだか、少し、ドキドキします」

「良い傾向だわ。そのまましたいようにしてごらんなさい。犬が抑えてるから何をしても動けないわ。ビンタしてあげても、蹴ってあげても、キスしても良いのよ」

 痛い事を想像して、にい様の瞳が泳ぐ。一層不安げな表情に、胸の奥がきゅうっとなった私は、にい様の前にしゃがみ込み、瞳をじいっと見つめた。

「大丈夫です。痛くしません」

 少しほっとした表情のにい様の頭に手を置くと、そのまま優しく撫で始めた。するとにい様はうれしそうに目を瞑った。

「ふふ、やっぱりあなたセンスがあるわ」

「アキラさん……?」

「良い?SМはサディストとマゾヒストではあるけれど、サービスのSとマスターのМでもあるの」

「サービスのS?」

「そう。М側のやって欲しい事を感じ取りサービスする。私は犬山をこき使っているようで、実は犬山がやりたいようにやっているのよ」

「その下の方も、椅子がやりたいんですか?」

「ええ。彼はとっても頑張り屋さんなの。でももっと頑張りたいの。私が彼の限界を引き出してあげてるのよ」

 椅子になっている男が、同意するように首を振っている。

「私達は共依存の関係にあるわ。私を女王として置いて、たくさんのマゾヒスト達が繋がっている。これは運命共同体なのよ」

 恍惚としたアキラに、私はずっと聞きたい事を聞く事にした。

「どうして、私を?」

「メイドさんってご奉仕するお仕事なんでしょ?さっきもいった通りSとМは表裏一体。時計の針をイメージしてもらうと分かりやすいわ。過度な奉仕はサービスのSにもなり、奉仕させているお客さん達はマスターもМに成りえるの」

「それなら他のメイドたちでも……自分でいうのも何ですが、私はそこまで可愛くもないですし」

「でも、あなたしてあげるのが好きでしょう?頼まれると断れないタイプじゃない?」

 身に覚えがとてつもなくあって、私は口ごもる。

「ムチや蝋燭が有名だけどそれだけじゃない。人が二人いれば自ずとそこに関係性が生まれるわ。SМで必要なのは人間が二人。それだけなの。二人の人間がいれば十分に楽しめる。それがSМの世界。衣装も好きなの着られるし、あなたは女王様を演じれば良いだけ。どうかしら、私についてこの世界をもっと見てみない?」

 この場の雰囲気がそうさせるのか、断れない私の性格が幸いしたのか、アキラの言葉がとても魅力的に感じた。

「りりちゃん……っ」

 にい様が私の名を呼ぶ。捕らえられたままのにい様に何を言ってあげれば喜ぶんだろうか。私の事が好きならキスをしてあげるのが良いのだろうか。それとも抱きしめてあげた方がいいのかな?いろんな事を考えたのに、口から出た言葉は自分でも思いもよらないものだった。

「……にい様」

「りりちゃん?」

「──ご主人様って言ってみて」

 言った瞬間、にい様の瞳が見開いた。僅かに、でも確かに彼の口角は上がっている。

「えっと……えーっと……」

「ほら……仁井くん言ってみて」

「っ……りりご主人様」

「よくできました!」

 心の奥底から沸き上がる感情を満面の笑みで現すと、仁井の頭を撫で繰り回した。


 私が出会ったSとМの世界の入口はここから始まった。


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