償いの山羊と折れた角

刻壁(遊)

第一話 スケープゴート

…………郊外の小さな教会に、重い静寂が落ちていた。

 煌びやかな表面が剥げた、ステンドグラスを気取ったただの硝子から温かな陽光が差し込んでいる。

 午後三時。ゆっくりと眠りに誘われるような、そんな優しい光……。

 その穏やかさとは裏腹に、懺悔を捧ぐ男の様相は壮絶だった。

 他人に罪を打ち明ける、その行為が恐ろしくて堪らないのだろう。

 耳を澄ませば、噛み合わぬ歯の根がかちかちと音を鳴らしているのが聞こえる。

 そして祈るように絡ませられた指は赤黒く澱み、最も色の新しい場所には人間の歯の跡がくっきりと浮かんでいた。

 彼はきっと、自身が罪を犯すような人間ではないと信じて今まで生きて来たのだろう。

 だが、実際はどうだ。

 罪を犯してしまった。罪を犯す直前まで自分のことを、信じていたのに。その裏切りの衝撃に、良心の呵責に彼は耐えられなかった。

 故に彼は心を病んでしまったのだ。

 そして心を蝕む自責はとうとう、身体にまで影響を及ぼした。

 食べ物も喉を通らず、穢れた身の延命を拒む身体は、全てを受け入れず吐き出してしまう。

 彼は痩せ細って骨と皮だけのような身に成り果て、終いには衝動的に自分の指を噛み千切ろうとしてしまうまでにもなった。

 だが彼は、救われない。そこまで自分を責め、自分を壊してしまう程に罪を悔いていた。

 なのにも関わらず、誰にも救いの手を差し伸べてもらえない。その理由は、たった一つ。

 …………【打ち明けていなかった】からだ。

 彼は自分の罪を知られ、周囲の目が恐怖や好奇を宿すのに耐えられなかった。

 だから大切な家族にすら罪を打ち明けられず、この小さな教会にまで秘密を大事に大事に抱えてやって来た。本来ならば正しく罪を打ち明け、正しく罰せられなければいけないのにこの罪人は、それを恐れた臆病者。

 …………愚かで愚かで、呆れる程の自己愛主義者。

「…………辛く、苦しい思いをされたのですね」

 私がそう言うと、帳の向こうではっと顔を上げる気配があった。

「もう、大丈夫です。あなたの罪は、私が赦しましょう……」

 そう告げると、強張っていた彼の肩から一気に力が抜けた。

 そして彼は歓喜を秘めた大粒の涙を流し、己の罪を語った時とはまた違う感情を孕んだ震える声で私に感謝した。

「ありがとう……ありがとうございます司祭様……!!私は、私は……、この罪を一生ひとり、独りで……背負って、生きていくことなどには……きっと。私を赦してくれて、本当に……!!」

 そう感無量の響きを持って叫ぶ男。そして、求めた救済者の理想像を今ここに見た強欲な男は、背後から迫る気配に気付かない。

「…………ご評価の程は?」

 待ちくたびれた、と言う気怠げな様子で青年は言う。そして、私はにこやかに応えた。

「有罪」

「司祭様、何を……。」

 突然背後から聞こえた声と、司祭の会話に男は目に見えて動揺していた。

 振り向いた男の瞳には、死神のものと見違う大鎌。それがきっと、男の見た最期の景色。

「赦しましょう」

 ごとん、と鈍い音を立てて男の首が床に落ちる。

「あなたの罪を、赦しましょう」

 続けて、椅子の背もたれごと切り裂かれた上半身。鮮血を撒き散らしながら上半身は床を転がるのに、下半身だけは椅子にお行儀良く座っているのが、なんとも滑稽。

「…………死を以って、あなたの罪の全てを赦しましょう」

 アーメン、となけなしの憐憫を添える。

 用法が正しいかどうかは知らないが、そもそも悼んでやる気持ちすらないのであまりそこは関係がない。

 この男は憎むべき罪人であり、最初からこの世に存在してはいけないものだった。だから処分した。それだけの話だ。

 この世界に罪など必要ない。罪を犯した人間を生かしておく理由などない筈だ。だから……一刻も早く、処分すべきだ。

 そうだ、早くこの世界から罪を消し去らねばならない。罪人共を殺し尽くさねばならない。目障りで蛆のように湧いて現れる咎人共を、全員纏めて地獄に叩き落としてやらねばならない。天罰を与えねばならない。早く、早く、早く殺さなければ。早く、早く消し去らなければ。早く、早くしなければ……。

 無意識にガリ、と爪を噛んだ私を見て青年は「うわ」と顔を顰める。その反応が実に腹立たしく、私もまた同じように顔を顰めた。

 ……殺してやろうか。

 そんな欲望がむくりと湧いたが、私は爪と一緒にその衝動を噛み殺した。奴は腹立たしくとも、良き道具。彼は非常に処刑人として有能で、最後まで私の代わりに罪を被り続けてくれる存在だ。それ故に私には必要で、最後に私が彼を殺せば、完璧だ。きっと世界から罪はなくなるだろう。

 「爪噛むのばっちぃだろがやめろよ」そう呆れ顔で角帽を被った私の頭を彼は軽く引っ叩いた。

 その拍子に角帽は床へ落ち、私の頭頂部は顕になった。

 そうだ、早く、早く、罪を消し去らなければならない。それがある限り、私は自由になれない。永遠に司祭の角帽に自らの【角】を押し込めて、いつ来るかも分からない終焉に怯えなければならない。早く、間に合わなくなる前に人間を消し去れ。私が……。


 …………贖罪の山羊スケープゴートにされる前に。


***


 この世界は、罪深き人間達で溢れている。

 その原初は第二世界、【惑い】で神が作り出した愚かなる生命体。最初の人類であるアダムとイブは、決して食してはいけないと言われていた禁断の果実を口にして、知恵を手にすることで欲の権化へと姿を変えた。

 そして生まれ出た子孫はその欲を引き継ぎ、自分達に都合の良いよう全てを作り替え自然豊かな惑星を侵食。最後にはその星の資源を食い潰してゆるやかな破滅を迎えた。

 その人間の愚行の全てを目にした神は酷く心を傷め、同時に彼らを哀れんだ。愛しんでいた。自らの欲が自らを滅ぼすのだと知りながら、彼らはそれを抑制できずに自滅して行った。実に救いようがなく、実に可哀想な生き物を産んでしまったものだ。

 そう思った神は、第三の世界を形成。

 そうして新人類を生み出し、人類にやり直しの機会を与えた。これだけでも史上の幸福であろうに、更に神はもう一つの贈り物(ギフト)を授けた。それは、文献だ。人間の武器が積み重ねであると呼ばれたように、第二世界の記録を文献として残すことで、新人類はきっとそれを学び違う道を歩もうとするだろう。神はそう考え、希望を抱いたのだ。

 ……しかし人類は、またもや神の期待を裏切った。

 彼らは文献に残る凄惨な記録を目にして尚繰り返し、戦争をして環境を破壊して領土や資源を奪い合った。

 資源の過剰利用で滅んだ前人類のことなどまるで、自分達には関係ないことだと思っているようだった。そうだ、自分達はきっと上手くやれる。前の馬鹿な奴らとは違う。彼らはそう不確かな自信で新たな発明を生み出し、他の生物を追いやって【豊かな】暮らしをしようと邁進していた。

 人類は、変わらなかった。

 そんな人類に神は制裁を与えるべく、世界の或る地に一欠片の滅亡を贈った。

 その地は、この地上で最初の林檎の木が実を生った場所。禁断の果実と言われたそれは、今や市場に流通し、人類の生産し人類が価値の指標としている貨幣とやらで簡単に手に入ってしまう。

 そんな果実に、地上に落ちてしまい立派に育った大樹に憐れみを込めて、神はその滅亡を与えた。

 …………一瞬で、その辺り一帯は荒野へと姿を変えた。

 【滅亡】は人間の罪を食い尽くす存在。世界に罪が増えれば増える程成長し、肥大化し、煉瓦造りの強固な家すら砂の家のように容易に分解して人類の作り替えた世界を侵食するもの……或いは、元あるべきだった姿に戻しているのかもしれなかった。人々は滅亡に居場所を奪われ、大切な物を奪われ、何もない荒野で飢えて死んで行った。

 だが、滅亡はただ残酷なだけではない。神はそこに、僅かに残った最後の人類への希望を託していた。

 滅亡の侵食速度は非常に鈍く、戦争などの大量殺人が起これば一気に侵食は加速するものの、それがなければ都市機能が完全に停止してしまうまでにはまだ三百年の猶予が残されていた。

 その三百年の間に人類がその性質を改めれば、滅亡がこれ以上侵食を進めることはなくなる。

 人類はまだ生き延びることを許されるのだ。

 一度ならず二度までも失敗をした人類に対して、神は非常に寛容な態度を見せた。

 しかし愚かにも、人類が欲したのは【欲を抑制する】という神の望む終わり方でなく【滅亡を食い止め続けこのままの人類で在り続ける】という結末であった。

 過剰な娯楽を一度味わってしまった人類は、もう後戻りができなくなってしまっていたのだ。

 否、後戻りができないというよりは「する気がない、できないと信じ切っている」と言うべきか。

 王都の統率者達は、「人類の絶滅を防ぐ為にあなた達の贅沢、資源を抑制します」と言っても強欲な市民がそれで納得する訳がないと知っていた。それが例え正当な理由だったとしても……正当な理由であるのだが……「そんなのには現実味がない」と強欲な市民達は言うだろう。強欲な市民達は、既に許されていた贅を縛られることを絶対に許さない。

 もし人類を守る為の行為である、という大前提があっても強引に事を進めれば、確実に王政への反発が起こる。

 そして同時に統率者達もまた、その地位を利用して汚職や贅沢を繰り返してきた強欲な人間だ。

 必要なのは、世界の滅亡を防ぐことより市民の支持。自分達の世代ではまだ滅ばない世界の安寧ではなく、意のままに不正を繰り返すことのできる地位に在り続ける為の市民の支持の方が彼らには余程大切に違いなかった。

 故に強欲な統率者は、市民の反発を恐れて有効な政策を打ち出さない。

 その癖彼らは研究者達には「方策を打ち出せ」と強要して、自分達は遊び呆け、また研究者達も支援がなければ調べられもしない、と言う。

 まるで責任の押し付け合いだ。

 これでは世界はきっと滅びてしまう。

 そう危機感を募らせた一人の研究者がここに来て初めて、王都の大図書館に保管されていた……保管というには粗雑な扱いをされていた、埃被った書物を引っ張り出して、触れた。

 それは第二世界の記録。

 神の与え給うた、前世界の失敗の記録だ。前世界がどのような滅んだかは定かでないが、生まれたての第三世界よりも遥かに長い歴史を持つ第二世界の中では同じようなことも起こった筈だ。

 そこからヒントを得れば世界の滅亡を防ぐ手立ても見つかる筈だと、研究者は文献を読み漁った。

 そこで研究者が見つけ出したのが……。


 【償いの山羊スケープゴート】という存在である。


 それは名の通り、第二世界で人の罪を負わされ荒野へと放たれた山羊のこと。

 研究者はそのスケープゴートに倣い、罪そのものの発生を抑制するのでなく【贖罪】という既にこの世に生まれてしまった罪を濯ぐ手法を採用してはどうか、と王都政府に提案をした。人類の抱えた罪の一部を全体量をスケープゴートに負わせ、スケープゴートを人間の世界から追放することで人類の罪は軽くなる。それにより滅亡の目は欺けるのではないか……と。気休めでしかないとは研究者自身も分かっていたが、そう、提案した。

 そしてその提案は喜んで迎え入れられ、贖罪支持の風潮はすぐさま王都中に広がった。

 過剰な娯楽を手放せない人類にとって、その研究者の提案は非常に都合が良かったのだ。一匹のスケープゴートさえ差し出してしまえれば、人類は環境破壊による嗜好品の生産や略奪による個人の至福を奪われずに済む。そうと考えれば、彼らにとってこれ程の妙案はない。

 だが研究者の提案を実行に移すには、一つだけ困ったことがあった。それは、第二世界と第三世界の致命的な環境の違い。そう、第三世界には……。


 山羊、という生き物が存在しない。


 生物の進化というものは、紛れもない奇跡の連続で成り立っている。そして奇跡というものは、一度しか起きない物だから奇跡たり得るのであって二度は繰り返されない。

 その進化の奇跡の原理は漏れなく第二世界第三世界の生態系にも適用され、第二世界と第三世界の生物進化の過程で同じ奇跡は起きず、二つの世界の生態系は大きく異なっている。

 罪を担わせるに値する山羊が存在しない。それを知った人々は「第二世界の山羊の祖先から分岐した、第三世界で最も山羊に近しい生物」を探し求めた。

 そして第三世界のスケープゴートとして選出されたのが、かつて奴隷として市場で取り扱われていたが今は人類の一種とされる生物。

 それは「隷角族」と呼ばれており、足の爪先から首までの前面であれば一見してもただの人間と言っても差し支えない見た目をした人型の生物であった。

 しかしその頭には、二本の角と耳があり、腰から臀部にかけて短い尾のようなものが生えていて、この角や耳は第三世界に存在する、どの生物よりも第二世界の山羊という生き物に近かった。

 そんな隷角族の性質が明かされた翌日、王都政府は早速一人の隷角族を生贄として神に捧げた。その隷角族の身体が黒く塗り潰される程、思ってもいない贖罪の言葉を呪詛のように書き連ねて滅亡の蔓延る荒野へと放り出したのである。

 すると、四日の時が経って【滅亡】の動向を示す荒野の分布に変化が起きた。

 恐らく人類の罪を肩代わりした隷角族がその罪を背負ったままに荒野で飢え死んだのだろう。それから五日程、荒野は一切の広がりを見せなかった。

 その成功を人々は喜び、そして王都は「荒野が一つの村を飲み込む度に一人の隷角族に罪を背負わせ追放する」という【贖罪計画】を発表。

 三百年という時間制限は贖罪計画によって容易く引き延ばされた。そして人々の安寧の時は再び流れ出し、人々は慢性的に犯罪の起こり続ける平和を謳歌する……。

 それが、この第三世界の現状だ。

 スケープゴートとされる隷角族の死を前提として、自分達は何の痛手も負わず人類はまた過剰な贅沢に溺れて罪を犯し続ける。

 そんなクソッタレな世界に、今日も私は生きてしまっている。

 そもそも人間達が罪さえ犯さなければ、同族達がスケープゴートになる必要なんてなかった。なのに形だけの贖罪に、私たちは利用され続け蔑み続けられる。隷角族にはその角を……ありのままを晒して外を歩く権利すら与えられない。

 だから私が、同族に代わって復讐を……。

 などと言うのは、言い訳だ。


 死にたくない。私は、死にたくないだけだ。苦しい思いも辛い思いも、もうしたくない。

 だから私がスケープゴートにされてしまう前に、私の代わりに犠牲になってくれるストックの隷角族が居なくなる前に、隷角族探しに駆り出された捜索隊が私の司祭帽を取り払う前に、全ての咎人を処断してこの世界から罪を消滅させなければならないのだ。

 この世界をスケープゴートの必要ない場所に、私が安全に暮らせる場所に世界を変える。それが私の目的で、野望なのだ。

 その為になら、私の命以外は全てが二の次で良い。

 ……そうだろ、レイティ・トルシェア。

 礼拝のふりをして聖母像に向かいながら、少女が行ったのは冒涜的な自問自答。神になどは少しも委ねぬ、己の固い決意の再確認。

 祈るのは、自分自身に。

 神など信じない。誰のことも信じない。自分以外は全員が裏切り者で、誰一人信用に値することなどない。

 ……それが、この世界だ。

 そうレイティは己に言い聞かせて、その場を去った。


 …………聖母像が、柔らかい微笑みを浮かべている。

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