ふたりでひとつ

刻壁(遊)

第一話 邂逅


 俺達は、ふたりでひとつ。

  生まれた時から鏡写しで、一心同体。同じ時間の中で息をして、同じ景色を見て、同じものを食べた。

  俺達はひとつだった。

  それがどうしてか、周りの人間には俺と弟が全く別々の人間に見えるらしい。

 我儘で粗暴な俺と、内気で繊細。泣き虫な弟。運動も勉強も努力なんてしなくたって一等賞の俺に対し、鈍臭くて言われたこと何でも信じてしまう馬鹿みたいな弟。

 周りの人間から見れば、人間としての性能が明らかに違っていた。

 狡賢く何を取っても周りから頭一つ抜けている優れた兄と、純粋と言えば聞こえは良いけれど愚鈍で悪口を言われても言い返すことすらままならない、人間として劣等種の弟。

 一目瞭然、中身の差が開き過ぎていて一見同じように見えても表情に漲る自信と不安で区別が付く。

  兄の足元にも及ばない弟。強者と弱者。

 双子で顔の同じ二人に、神様の皮肉。いっそ面白いくらいに全く別の人間で、性質も全く違う。

 そう周囲は俺達の、優れた兄と劣った弟の在り方の対比を、嬉々として嘲笑った。そうして更には親すらも「お前は弟なんかより遥かに優れているのだから」と事あるごとに口にして俺を持ち上げて、同時に弟を貶めた。

  そして人は弟を愚鈍に貶める言葉を俺に言うと俺に、必ず同調を求める。

 きっと人は、俺自身と弟を切り離して考え弟を同じ顔でも恥ずべき愚弟として線引きをすることを期待していたのだろう。……そうすれば俺の許可を、兄の許可を得たも同然に弟を罵ることができる。

 道徳的に許されない筈の悪罵すらも、最も近い存在である双子の兄によって許容される。

  俺は、人に期待されている自分が好きだ。求められている自分が好きだ。許されている自分が好きだ。

 ……人々はそれを口にする時、いつだって仄暗い期待を俺に向けていた。そして、更なる期待を煽る為の方法は既にそこに提示されていた。

 弟を否定すればいいのだ。

 甘い誘いだった。鼻先を掠める、甘い甘い……期待。言葉を尽くして弟への嘲りを吐けば、人々は俺を「期待に応えてくれる者」として認識する。そしてその信頼は、次なる期待に繋がる。俺の求めてやまないものの形は、笑顔は、常にそこにあった。

 ……だが、それでも。

  俺にとって弟は、自分自身も同じだった。

 否定なんてできない。何故ならそこに居たのは、俺だったから。俺にとっては、弟の存在はもう一人の自分がそこに居るのと同じだったのだ。

 我儘で粗暴な俺に比べ、弟は内気で繊細。泣き虫だった。

  けれど全く違うように見えて、実はそれは……弟は、もう一人の自分だったのだ。

 いつも泣いている弟を抱き締めながら、俺はその温もりに酷く安心していた。

 心の奥に、恥ずかしいことだから、お兄ちゃんなのだからと封じ込めた弱虫を、本当は自分も泣きたいのだ、求められることが怖いのだと声を泣き涸らして主張のできない、泣き続ける可哀想な自分を。

  弟を抱きしめるその時、ただその瞬間だけは、許してやれるような気がしたからだ。

  幼少期の、まだ未発達な矜恃。例えば、玩具の取り合いには負けてはならない。その程度のちっぽけなプライドが、俺の中の俺を殺していた。そしてその程度のちっぽけなプライドが、俺にとっては全てだった。

  他人の目に自分が弱く映るのが、許せない。

 自分より上の人間が居るという事実を認めない。俺こそが頂点。逆らう者など誰も居ない。逆らう者など許さない。自分が頂点であることだけが全てだった。

 だがしかし。

  そうして勝ち誇った笑みを浮かべていた小さな暴君は、いつしか一人ぼっちになった。

 友達と呼べる者も居なくなり、誰もが自分のことを恐れて近寄らなくなる。

 一人ぼっちになり、周りから人が消えた。そこで漸く、暴君は自我の目覚めを経験することとなる。暴君は、初めて気付いた。

  自分は頂点などではない。

  群衆は、彼を恐れると同時に嘲笑っていたのだ。群れの調和を乱す、自己中心的思想の持ち主。いつまでも子供のまま、群れで生きるという最適解に気付かない愚か者。

  王ではなく、ただ恐ろしいだけの愚者だった。

  理性が発芽し、自分が優れていないことに気付いた瞬間、甘い誘いが吐き気をする程色濃く芳る。どこからか聞こえる声が、「最適解」を選べば多少の恥はかけどもこれからの人生では楽ができると常に自分の耳元でそう囁き続ける。

 群衆の中に混ざれば良い。そうすれば流されるままに生きるだけで、あっという間に終着点。少なくともこの幼少時代を終えるまでは、山も谷もなく平凡な日々を過ごせるだろう。

 かつて賢いと持て囃された暴君には、その程度の予測はできた。それが一番正しい方法であろうことは、理解できた。

  だが暴君には、俺というちっぽけな人間には、その「多少の恥」がとてつもなく大きなものに思えて仕方がなかった。

 頭を下げて「仲間に入れて」などと言うことは、俺にとってあってはならなかったのだ。

  またもやプライドが、邪魔をする。

 群れに混ざらず生きることは、自分以外全てを敵に回して生きることと同義だ。心を許せる相手もいない、心を許してくれる相手もいない。

 教室に一人で居る時聞こえてくる会話の全て。それが自分を嘲る言葉で構成されているのではないかと錯覚してしまう程の深い孤独。

 それに苛まれながらも、俺は群れに混ざるという方法を選ぶことができなかった。

  もし仮にそうしたとすれば、今まであれだけ威張り散らしてきた癖に。そんな陰口を叩きながら、彼らはきっと俺に手を差し伸べるだろう。友人を乞わねばならない寂しい寂しい君への慈悲だと、手を差し伸べるだろう。

  そんな上っ面の親愛を向けられる屈辱への拒否反応で、想像だけでも吐き気がした。死んでも相手に俺の上に立ったのだ、という優越感を与えたくなかった。泣くなど以っての外だった。

  俺にとって涙とは、敗者の象徴だった。

 この状況に屈したのだと、独りぼっちで居ることが悲しくて堪らないのだと。そんな風に思われるのが嫌で嫌で堪らなかった。

  だがそう思うのは、俺の中のどこかで「もう屈してしまいたい」「独りぼっちは悲しい」なんて言う俺が確かに存在していたからだったのだろう。微塵も思っていなければ、そもそも最初からそのような発想は出ない。

  そしてその悲しみや苦しみは俺にとってそれは恥ずべき思想で、俺は強いのだと思って居続けたい俺にとっては何よりも受け入れ難い真実だった。

 それでもきっと、弱い俺の言う通りに泣いてしまえば楽になれただろう。

 本当は悲しいのだと叫べば、少しは気も済んだだろう。

  しかしプライドが大声を上げて口煩くそんな俺を罵り、また殺してしまう。

 ここまで俺を意固地にさせたプライドが、また俺を孤独にしていく。それでも俺は、プライドというものを手放せなかった。

  だから、泣きたくても泣けなかった。俺は自分を許してやれなかったのだ。

 だがしかし、弟がぽろぽろと涙を流して、自分に縋り付くように泣いている瞬間だけは、その瞬間だけはそうではなかった。俺にとって弟は、自分だったから。

  俺自身は涙を流してはいない。しかし弟が泣きながらこちらに身を委ねている姿を見ることで、俺も一緒に泣けているような気がした。

 目の前で俺の中の弱い自分が、泣き続けて押し殺されてそれでも消えずに俺の中に残り続ける惨めな俺が、泣いているような気がした。

  実体のない、どうやっても慰めようのない存在を弟に透かして、弟を通して俺は俺を抱き締めていたのだ。

  大丈夫だ、と落ち着くまで優しく背中をとんとんと叩いて、どこにも行かないからと、決して見捨てることはないからと言うようにきつく抱き締めて。

  涙を流し、胸に抱かれ、そして最後に「ありがとう」と幸せそうな顔で言うのは「俺」だった。

 そうして慰められたことで軽くなった胸を撫で下ろしてそっと微笑むのは、「俺」だった。

  髪の毛の分け目と、眼の色が違う「俺」が泣き止んだ時、俺は心にじんわりと暖かいものが広がるような気がして俺はいつも、小さく微笑んだ。

 良いことをした。いつもはプライドに阻まれてできないが、「俺」を許してやれた。「俺」が啜り泣いて欲する愛をこの温もりを通して与えられた。「俺」は、救われた。

  だからそれで良いのだ。

 この目の前の「俺」の孤独を優しく癒してやることができた。だから、それが正しいのだ。

 そう、俺は本気で思い込んでいた。


 …………それが、大きな過ちだった。

  小さな頃から、或いは生まれた時から。俺は既に弟を弟として捉えられていなかった。

 俺は弟を「弱虫」だと認識してしまっていたのだ。「弱く」「可哀想で」「恥ずべき人格」と既に彼の人格を決定付けてしまった。

  俺は、俺と弟を重ね合わせていたからこそ「必ず俺が救ってやらなければ誰も救えない」と思い込んでいた。俺の中の俺は表に出てこなくて、誰にも認識されていなかった。そして俺の矜持が許さず、それを表に出すことはできなかったから。

 だから自分以外の誰も俺を救うことはできない。だから俺自身が俺を救うしかない……そう思っていた。…………だがしかし、自分の中に居る俺を慰めることは、至難の技だった。

  どこに語り掛けて良いか分からない。

 応える者の居ない優しい言葉を発するのには、苛立つばかりだった。自分を許してやれなかった。だから俺は自分を慰めて自分だけを救ってやる為に、弟を利用したのだ。

  ふたりでひとつであること、弟が俺の言葉に「そうだ」と笑ってくれること、自分と同じ弟の顔を免罪符に、自身の弱さを正当化する自身の卑劣さすら肯定した、その非道で。

 弟と自分を重ね合わせて、自分ばかりを可愛がって偽りの愛情を注ぎ続ける兄の自慰に付き合わされ続けた弟の人格は、次第に歪みを覚えた。

  しかし同時に、時を経るにつれ兄は、ずっと側に居る幻影の正体に気付き始める。

 ゆっくりゆっくりと剥がれていく幻影、そして兄は、自身の罪を自覚した。

  あれは「俺」ではなかった。

 一人の人間だった。

 それにどうして気付くことができなかったのか……。

 …………俺は気付かぬ内に、抑圧していたのだ。お前は小さなまま、縮こまって泣いていれば良いから。強くなんてならなくて良い。お前のことは強い「表」の俺が守ってやるから、お前は弱い「裏」のまま。

 表裏一体ふたりでひとつ。そうなるように俺は、無意識で弟の在り方を操作していたのだ。

  だから、弟は俺の望む通りの姿になる。弱い俺をそっくりそのまま写したような、俺自身の奥底を転写したような姿を形作るのだ。だから、違和感を抱かない。

  俺の中の弱い俺に対する俺の想像を裏切らないように俺自身に造り変えられた弟は、俺の泣いて欲しい時に泣くように「なっている」

 絶対に俺の下卑た期待を裏切らないから、絶対に俺の中の俺の像を崩さない。

  俺の幻影は弟の人格を侵食し、一人の人間を壊して歪な愛情を注いでどろどろに溶かして、本当にふたりをひとつにしてしまったのだ。

  双子で、同じ顔をして、同じ空間で生きてきた。

 だが双子であるその前に、彼は一人の人間だった。幾ら双子とはいえ、最も近い血を持つ兄弟とはいえ。冒涜的にその精神の髄までもを掻き回して一人の人間であることを奪うことは許されない。当たり前のことだ。

  だが俺は、その当たり前をずっとずっと。理解できていなかった。

 或いは理解できていても、罪の自覚がなかった。

 人格を侵害されぬ、法律以前の人間の良心から成る当たり前の権利を俺はいつのまにか犯してしまっていたのだ。

  弟は純粋で、きっと……良い奴だった。

  きっと、なんて予測でしか血を分けた兄弟を語れない。その時点で兄失格だ。

 俺は俺しか見ることができなかった。できていなかった。

 それでも弟は、俺がそんな最低な人間であることに気付きもしていなかった。疑うことすら、しなかった。

  歪んでねじくれた愛情に、その愛情の孕んだ狂気に気付かぬまま。

 こんな穢れた俺を「優しくて、愛情深いぼくの兄さん」と。そう言って、弟は愛してくれていたのだ。

  そして兄として、一人の人間として俺を見て純粋な好意を向けていてくれた。俺を信用して、その心を委ねてくれていた。

  そんな好意を俺は気付かず踏み躙り、気付かず利用したのだ。

  弟の心を、自身でも無自覚な内に操って都合の良いように造り替えた。その悪行も、弟はそれが起こったことすら理解していないだろう。何故ならば彼は、兄を疑わないから。彼はとてもとても、何を取ってもこちらの方が優れていると言われていた兄よりもずっと、清らかで人を信頼できる、優しい人だったから。

  …………過ぎた時を取り戻すことは、もうできない。せめて俺が無知でなければ、弟の存在にもっと早く気付けていれば。或いは気付いた上で、操ろうとしていたのであれば。

  こんなに傷付くことも、罪悪感を覚えることもなかった。

  無知は最大の罪であると、今になって気付いた。

 俺は何でも知っているふりをしていて、何も知らなかったのだ。俺は冷ややかな自責に押し潰され、息をすることも忘れた。

  俺はひとでなしだ。

  十一年が経って、あまりにも遅過ぎる自覚をした。取り戻したいと弟に震える静かな声で語り掛けると、弟は微かに笑っていた。ゆっくりと持ち上げられた指先が俺の頬に触れて、俺はその温もりに小さな希望を見出した。

  俺の中の弱虫には、そんな優しい笑い方はできない。安心させるように、頬に触れて温もりを分け与えてやることなどできない。そのような春そのもののような柔らかい光を、瞳の中に宿すことはできない。

 まだ弟の中に残る、「俺」ではない自我の片鱗を見た気がした。またやり直せるのではないか、そんな淡い光をそこに見た。そして、それから……。


  弟だったものが、微かに笑っていた。

  優しさを湛えていた蒼い瞳の温度が、急速に冷えていくのを見た。

 ……ただそれだけが、神様からの咎人への返答だった。


 罰という名の、神様からの返答だった。

 

***

 

 

「…………昨今横行している魔導士狩りについてだが……」

 退屈だ。

 今この瞬間、陽雁が感じる想いはそれ一つに尽きる。

 今日はこの国随一の魔導士排出率を誇るという、誉れ高き魔導士育成高等学校の入学式が行われる日……。つまるところ陽雁という、近い未来この国の大きな財産となるであろう人物が優秀な魔導士となる為の第一歩を踏み出すという日なのだが……。

  学園長や校長という生き物は話が長くなければ生きていけないのだろうか。

 ……戦場では、一つの作戦が全体の戦況を左右するものである。

  つまりそれを簡潔かつ正確に伝えて回ることのできる優秀な伝令一人の存在が全てを左右する。

 その存在は、一個人の強い兵士が居ることよりも余程重要だ。全体の統率の取れた一隊の潔癖なまでにも統一された進軍は、国を揺るがす一人の大魔導士をも凌駕する。

 ……なのにも関わらず、戦場に生徒を送り出す立場のトップが話の要点をまとめることも碌にできなくてどうするのだ。無能の証を纏って生徒の前でわざわざ見せ付ける趣味の悪い地獄のファッションショーは早急に取り止めて欲しい。もし校長が戦場に立ったら情報伝達の遅れであっという間に小隊くらい壊滅させそうなものだ。そんな勢いで先程からざっと話が脱線し続けている。

  先程から一分間に二人位が欠伸をしているのが分からないのだろうか。

 斜め前の大人しげで内気そうな小柄の男子が遂に貧乏揺すりを始めた。是非この床を叩く苛立たしげな足音を拡声器を通して大音量で校長にお届けして差し上げたい。

  そんな不満が止め処なく溢れ出して来る程度には…‥。陽雁は現状に苛立っていた。あまりにも生産性がない。死んでくれ。

  そう舌打ちを堪えるのに必死になりながら、陽雁はこのつまらない「有難いお言葉」の中に楽しみを見出そうと努力をし……努力を。駄目だ。もう既にこの校長の声を聞くだけで怒りのスイッチが押される。声だけでもその有り様なのに、その話を漏らすことなく聞いてわざわざ面白い所を探し出してやらねばならないとはどんな苦行だ。何だこの一ミリたりともこちら側にメリットのない慈善事業は。

  そう思いかけて、陽雁ははっと正気に戻った。そしてすぐさま努力を断念し、聴覚をシャットアウトする。

 しかし、話を聞かないで多少の不快感は消えども退屈が消えて無くなることはない。

 恐らくこの調子なら、少なくとも後二十分は話が続く。暇潰しの材料はここにはないし、ただただ突っ立って時間の浪費に付き合ってやるのも癪である。

 いかん、周囲の生徒がダウンし始めた。長時間同じ場所で立ってつまらない話を聞き続ける体力は一般家庭……並びに貴族家庭育ちの生徒達にはなかなか無いだろう。なんて可哀想な……と思っていて、陽雁ははっとした。

 …………陽雁の出自は、王都の外れのスラム街にある。

 スラム街とは、富裕層に搾取され振り落とされた者達の住まう場所……即ち、持たざる者の巣窟だ。

 しかし当然、スラム街の住人は全員が均一に貧しい訳ではない。スラム街の中でだって全員が貧困層に分類されていたとしても貧富の差は生じ、下層の人間は這い上がろうと上の人間を引き摺り下ろそうと足を掴む。

 下には下が居る。

 そんな言葉を知った時、なるほどと驚く程納得した。

 貧しさは奈落だ。人間に欲望がある限り、同じ貧しさを経験している仲間である筈の貧民の中でも争いが生じる。下には下が居るように、どれだけ堕ちたと思っても下から引き摺り下ろそうとする手は伸びて来る。

  そんな百年戦争も劣る最も長期に渡って存在し続けるスラム街という名の戦場で、油断は命取りだ。何もかもを奪われたくなければ片時も警戒を緩めてはならない。だがしかし生きていく中の隙を最大限全て削ぎ落としても、人間として生きていく限り、必ず隙は生じてしまう。

 そしてその最たるものが、睡眠時間である。

 人間は世界の殆どを視覚で認識する生き物であることは皆様ご存知だろう。なのにも関わらず睡眠時間の間は基本的に目を閉じることを強いられる為、人間の感覚の大部分を占める視覚を封じられてしまう。その隙だらけな状態をスラム街の捕食者達が狙わない筈がない。

 弱肉強食。隙を見せたほうが悪いのだ。スラム街で地面に寝っ転がっていれば追い剥ぎに合うか最悪殺される。

  その為スラム街の住人は極限まで睡眠時間を削ぎ落とすのは勿論、寝ている姿を見られないようにするか寝ているように見えないように工夫を凝らすのだ。その術を身に付けられない者はスラムの洗礼を受け、一年と経たず死に絶える。それが飢えなのか睡眠不足による衰弱なのか、はたまた。それ以降は口にすることを憚られる。

  ……陽雁は、生まれてから十五年間スラム街で生きてきた。両親の存在も知らぬ陽雁だ。その背景に運命からの寵愛があったのも確かではあるだろう。運が良くなければきっと幼い頃に凍え死んでいただろう。

 だがしかし、スラム街という場所は運だけで生き残れる程優しくはない。

 要するにその十五年という月日こそが、これまでの陽雁の経験と技術の蓄積を物語っている。……こうしてまどろっこしいことを言うのは止めにしよう。簡潔に言おう。

 貴族や一般家庭育ちにはできないことが、僕にはできる。

  …………僕は、立ち寝が得意である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 そんな校長の無駄話無能証明会改め、入学式並びに新入生歓迎会はスラム街で極めた立ち寝技術を遺憾無く発揮して何とかやり過ごした。元の体力に明らかな差があるのも勿論だが、同級生達がへろへろになっている中しっかりと睡眠を摂った陽雁はぴんぴんとしていた。もう本当にあの時間は何だったのか。本当に生徒をじゃがいもだとでも思っているのではなかろうな。

  そんな収まらぬ不満を噴出させながら、陽雁は一人学舎を歩いていた。現在は休憩時間。他の生徒達は友人を作ったり校内を散策したり各々思い思いの時間を過ごしているようだ。

 陽雁がここに来たのは、校長に会う為である。

 ……ちなみに復讐の為ではない。

  貴重な時間を食い潰した校長の罪は重いが、いくら無能でも学校長だ。権力者に堂々と仕返しをする訳にもいくまい。本当なら冬に冷や水をぶっかけてやりたい所だが学舎の権力者にそれをして今後生き残れる気がしない。何せ両親のないスラム街育ち、放り出そうと思えば一瞬だ。その為校長には精々媚を売って、次なるステップアップの駒、踏み台になって頂く。自分を慕ってくれる可愛い生徒を応援したくなるのは、教師として当然の心理であろう。

  という訳で、中庭にやって来た。入学式や新入生歓迎会が行われたのは魔導訓練実技室……「分かりやすく言うと体育館」と新入生歓迎担当は言っていたが、僕はその「体育館」がよく分からなかったので分かりやすくも何ともなかった……から校長室や職員室へ向かう道としては中庭が最短経路だ。聞いてもいないことをべらべらと喋ってくれる校長のことだから、褒め言葉には弱いだろう。「校長のお話を聞いて感動しました……!!」なんて目尻に涙を浮かべて、漠然とした褒め言葉でも掛ければイチコロだ。

  そうだ、実際は今か今かと待ち伏せしているのだが、校長の姿を見かけてわざわざ駆け寄ってきた風にでもしようか。待ち伏せというのは最初からそう言葉を掛けようと決めていたようで如何にもいやらしいだろう。「素敵なお話をお聞かせいただいて感動していたら校長先生のお姿を見かけて、つい話しかけてしまいました!!」よし、完璧。あとは茂みにでも潜んで時を待とう……そう決めて辺りを見回し、陽雁は……。

「ふぁあ……ねみぃ……。」

  中庭の片隅から、欠伸の音がした。振り返ると人目も憚らず、大胆に大口を開けた少年の姿がある。その余韻を噛み殺しながら、少年は中庭の芝生に胡座を掻いた。どうやら今までは寝っ転がっていたらしい。右腕にした学年を示す腕章は陽雁と同じ青……同級生だ。まだ意識が覚醒し切っていないのか目が開いていないが……校長の無駄話以下略改め新入生歓迎会では見なかった顔だ。

  新入生歓迎会をサボっておきながらもその開催場所に一番近い中庭で今まで寝ていたのだとすれば良い度胸だ。そう感心しながら、顔だけは覚えておこうと少年の顔をじっと見つめる。人間の顔の印象は目で決まる、という言葉がある。実際その通りだ。目を閉じた状態で知らぬ人間の顔を覚えた、と思っても目を開けた姿との印象が違いすぎて誰か気付けないこともある。

  そして学校開始初日にサボるような問題児には目を付けておかない訳にはいくまい。そのたった一人が、全てを崩壊させる爆弾となる可能性があるのだから。

 今後の学校生活は、盤上だ。僕は「富を得る者」となりたい。息を吸うだけで穀潰しだと僕らを虐げた、上の連中に復讐を。上の連中に報復を。そしてその復讐の一環としても生活の為としても、金に苦労せず、何の苦労もせずに充実した日々を送れるよう、それに自分を当たって十分な地位まで押し上げたいのだ。

  この学校生活はそこに辿り着く為の人生という戦いの内、数ある中の一戦だ。僕にとって学校生活はぼーっと過ごしていれば過ぎ去っていく、そんなものではない。一挙手一投足が未来に繋がる行動で、誰と話すか誰と時間を過ごすかは計算で決める。他の連中のように、馬鹿な仲良しごっこばかりしている程僕は愚かではない。

 出会う者全てが敵であり、巡り合う場所全ては戦場。確実な安息などこの世にはない。僕はこの盤上で何度も戦ったことがある。相手は出会った全ての人々か、或いは運命。

  攻略法は大体把握している。動き方の分かっている駒を動かし操るだけ。それだけなら正攻法で順当にやるだけで王「キング」になれる。だが、僕はこの勝負に二度だけ負けた。一つは生まれた時。僕は駒として生まれ堕ち、そしてスラム街という汚れた盤上に立ってしまった。しかし、僕には才覚があった。

  生まれて一度目の敗北を喫してから、それから負けたことなどなかった。要領が良く、器用で頭も柔軟だから何にでも適応してやれる。そんな僕がどうして二度目の敗北を味わってしまったのか、その理由は極めて単純だ。

  知らない駒があった。

  全てが上手く行っていたのに、盤上の駒の種類は全て把握し切っていたというのに。ふとした時、そこに知らぬ奇怪な動きをする小さな異変が舞い込んだ。……最終的にはその異変は僕に負けた。彼が……小さな駒が勝利を得ることはなかった。だが確かに、僕も負けた。盤上を乱され、計画を乱されて最後は半狂乱になりながらめちゃくちゃな手を打って美学もクソもない盤を引っくり返すような暴挙のチェックメイト。

  それは僕にとって、負けたも同然だった。もう二度とそんな危険な橋を渡りたくなかった。僕には、僕以外の駒がない。洗脳のように囁いて、甘い匂いで唆して、利害の一致で一時的に味方に付けることはできてもずっと側に居続けてくれるような駒は存在しない。だから、もうそんな危険な橋を渡る敗北は味わいたくないのだ。僕は僕を失った時に打てる駒が、手元に残ってくれる駒が、他にないのだ。だから僕を失う訳にはいかない。対応する術を、身に付けなければならない。だから、異分子は盤上から徹底的に排除する。

  とはいえ、流石に殺人を犯して弾き出す訳にはいかない。そして様々な手管を使って立場から追いやったりするのも論外だ。そんなことをすれば「こいつは下克上をするのだ」と捉えるような輩は必ず現れる。そして今後の活動に影響が出兼ねない。それは安全策でもあるが、裏を返せば愚策だ。ならどうすれば良いか?簡単だ。

  そこに法外な動きをする異分子の駒があるから、人生というものは上手くいかないのだ。ならば異分子さえも把握し切ってしまえば良い。「知らない駒」を細部まで絡め取るように、触診するようにその精神の隅々までを浸食し、調べ上げ、「知っている駒」へと変えて仕舞えば良いのだ。

  どう動くか分からない狂犬には先んじて首輪を付けて手懐けておくに限る。しかし今回はまだだ。見かけてすぐ話しかけるのは展開を急き過ぎているから、今回は見送って次回へ活かす。「全く知らない男から話しかけられた」となれば間違いなく誰でも人は警戒心や敵愾心を抱くだろうが、「顔程度は見たことのある男から話しかけられた」ならば話は違う。

  自分が顔を見たことがある、という前提があれば「相手が自分の顔を見て自分を認知していても不思議ではない」という前提も成り立つので、比較すると話が遥かに通りやすくなる。だから今回は急がない。

  今回は顔だけ見て目も合わせず相手の視界に入るだけで終わらせる。すれ違った同級生。それだけでいい。まだ初日だ。そんなに急ぐ必要はない。そう微笑み、陽雁は。

  …………直後、陽雁は眩い閃光に網膜を灼かれたような、そんな衝撃を覚えた。顔から血の気が引き、釘付けにされたように動けなくなる。これまで巡らせていた思考の全てが凍り付き、脳髄が真っ白に塗り替えられた。何も考えることができない。分からない。そんな自分の中で、唯一本能だけが目の前の異常事態に対しけたたましく警鐘を鳴らしていた。

「…………なぁお前」

 視線を逸らすこともできず、呆然と立ち尽くす陽雁の視線。まだ眠気が残っていても、愚直に真っ直ぐ向けられ続けるその視線には流石に気付いたらしい。胡座を掻いていた少年は地面に手を付き、億劫そうに立ち上がる。スラム街という場所で生まれ育った為栄養が足りず、一般的な十五歳より少し身長の低い陽雁よりかなり背が高いものの立ち上がったことで更に顔の子細が見えるようになった。

  目尻のつり上がった威圧的な目付きに、手入れは杜撰にしていそうだがさらりと柔らかく揺れる金髪。その前髪は左側で分けられ、金髪の隙間からはぎらぎらとした翠色の瞳が覗いている。そして少し日焼けをした血色の良い肌が示すのは、どのような下等階級であろうと……少なくとも、スラム街に住む者達よりは上流の暮らしができているということだ。

  陽雁がスラム街から出た経験は、この入学式を含めてたった三度だけ。この入学式と入学試験、そして残り一度。その残り一度で出会ったのは一人きり。そして入学試験は入学金の払えない貧民用の試験だったので、入学試験でも同じスラム街で暮らす顔ぶれしか見ていない。それ以外はずっとスラム街で過ごしていたのだから、普通に考えて有り得ない。絶対に有り得ないのだ。なのに、どうして……。

  心拍が高鳴り、脳から血液が遠ざかっていくのを感じた。青褪める顔に強張る表情。サーモンピンクの見開かれた瞳には、怪訝な顔をする少年の顔。

  まずい、と感じた。何か、何かをしなければならない。不審に思われている。何か相手の懐いた不信感を打ち砕く、何かを為さなければならない。そう思った。だがいつもなら経験則から半自動的に弾き出されていく筈の方策が、今日は一つも湧き出て来ない。冷や汗の伝うじっとりとした不快感を味わいながらも、それを拭うような余力すら陽雁には既になかった。

  無駄な動きの一つで、おかしな動きの一つでもすればその行動は死を呼ぶ。きっと自分は殺されてしまう。陽雁はその時、本気でそう思っていた。……冷静になって考えてみれば、得物の一つも持っておらず、更にまだ教育を受けておらず魔法も碌に使えない十五の少年に人を殺す術などない。だがそれでも、陽雁にはそう思えた。

  血の気が引く陽雁の視界の中で、磨耗した精神が現実の色を溶かしていく。抜け落ちるようにして中庭の草木、校舎の気品ある白が現実味のない灰色へ姿を変えた。その中に、唯一異彩を放つようにして残されていた翠色。それすらも灰色に落ちるだろうと思われた瞬間、陽雁は瞳をより大きく見開いた。

  その暖かい翠色が世界で一番冷たい色……陽雁が、この世界で最も恐れた敵意の色へと移り変わる。凍える敵意の色に射抜かれた瞬間、陽雁はもう呼吸を忘れていた。尤もその色は怯える陽雁の心が見せた幻覚なのだが、今やそれを幻覚だと振り払うことも陽雁には難しい。

  脳に纏わり付いた忌まわしき記憶が、忘れたくても忘れられない記憶が幻覚を現実へ昇華させ、違和感さえ感じさせない。視界に映る背景が塗り替えられ、スラム街を少し離れた上流階級の街との狭間、領有する者無き空白の荒野へ歪んでひしゃげるように変形する。

  そうだ、ここで……僕は。

「っおい!!」

 もうあれ以来見ていない、見に行くこともないだろうと思っていた景色が記憶を鮮明に蘇らせた。その記憶が心を苛み、有効な手立てなど生み出せる由もないだろうに脳は無駄な回転を辞めない。

 目まぐるしく巡り続ける思考に対し、追いつくことのできない分離した心。それは結果として莫大な負担を陽雁の精神に掛ける形となり、そして。

  自身を何も言わず見つめ続ける陽雁に不信感を覚えていただろう少年の表情が、焦燥に塗り替えられる。

 反射的にか、少年の手がこちらへと伸ばされる……だがしかし、胴が反射で動いた指先に追い付いていない。伸び切った腕は、後ろ向きに倒れ行く陽雁の手を掴むまでに至らない。そのまま意識が、遠くなって行く……。

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