心臓の剣
@umibe
第1話 夢。僕を呼んでいる君と、君を呼んでいる僕。二つに分かれた道。
剣が、眠っている。深い深い透き通った湖の底で眠っている。鍔は
「主殿」と誰かが言った。
もしかして僕に言っているのではないかと思って湖の中を見渡すけれど、誰も居ない。ゆったり泳いでいた色鮮やかな魚が、突然動いた僕に驚いて水草や岩の陰に隠れるだけだ。
「起きなさい」女の子が僕に呼び掛けている。
今度は聞き覚えのある声だ。あり過ぎるくらいに。
「起きなさいってば」
僕の肩が、揺すられているのが分かる。ベッドも合わせて軋んでいる。
「ん、もうちょい」と僕は目を閉じたまま言った。
「駄目よ、起きなさい。スープが冷めちゃっても良いの?」
「嫌だ」
「じゃあ体を起こせ!」
毛布を乱暴に引きはがされ、僕の身体は朝の冷たい空気に晒された。目を開く。ベッドの縁に、エプロン姿の、真っすぐ長い金髪の女の子が立って居る。エレナだ。両手を腰にあてて、僕を見下ろし睨んでいるその瞳も金色。
「おはよう」と僕は言った。
「おはようフレイ」とエレナは言った。「さっさと来なさい。じいさんが待ちくたびれてるわ」
エレナは部屋から出て行った。僕は上体を起こして、腕を伸ばした。自然にあくびがでてきて、ベッドから離れた。部屋を出ると、じいさんの視線がこちらにぎろり注がれているのがはっきり分かった。恐らく、部屋の扉をずっと見ていたのだろう。
「お、おはようじいさん」目が怖い。
「もうちょっと早く起きれんのかお前は」
「明日は早く起きるさ」適当に返事して、エレナの隣に座る。
僕達三人は、余程のことがない限り、食事は一緒に取ると決まっている。じいさんがうるさいのだ。硬いパンをつついて、野菜スープを飲む。
「フレイ、ドクダミを採って来てくれ」と爺さんは僕を見た。
「ドクダミ? また痛めたのかい」
じいさんは、近頃、よく腰を痛めている。数年前は、僕やエレナをよく狩りへ連れてってくれたが。
「エレナも一緒に来るかい?」と聞いてみる。
「いいえ。私は街に買い出しに行くわ。二人共気付いてる? お風呂場の石鹸、こんなに小っちゃくなってるのよ」エレナは人差し指と親指で、目玉くらいの輪っかを作った。
もちろん僕はその石鹸を使って毎日体をごしごし洗っている。しかし気付かなかった。大抵の場合、エレナが勝手に補充してくれるのだから、そんなの意識しないのだ。
朝食を終え、僕とエレナは一緒に家を出た。
「フレイ」とだけエレナは言って僕の顔を見た。
彼女の背丈は、いつの間にか抜いていた。
「何だい」
「あなた、夢を見る? 起きた時それを覚えていたりするかしら」
夢。
「あるよ」と僕は答えた。「エレナはあるの?」
「ええ。ちょっと怖い夢なの。気づくと真っ暗なとこにいて。本当に真っ暗なの。目を閉じてるのか、開いてるのかも分からなくなるくらい」
彼女の言った光景を想像してみる。
「それでね、私あなたを呼んでみるの。とっても大きな声で。フレイ!って」
エレナは前向いていた顔を再び僕に向けた。合わせて、金の髪が揺れ動く。
「僕が白馬に乗って駆け付けて来るんだろう? ハッピー・エンドだ」
彼女は黙って首を振った。「いいえ。あなたは来てくれないわ。ただね、私のことを一生懸命に探しているのは分かるの。あなたの声が聞こえるからよ」
嫌な、怖い夢だ。
「ねえ」エレナは立ち止まった。
彼女と会話しながら歩くのは、これまで何度とある。けど、こうして突然立ち止まってしまうのは初めてだった。
「現実に、そういうことって起こるかしら」
口は閉じられ、見たことない不安定な顔。
「起きっこないさ。夢は夢だ」
小指だけ伸ばされた指。ほっそりと、この上なくエレナにぴったりな指だ。
「約束して。もしそうなったら、私のこと助けに来てくれるって」
いつにないエレナの真剣な表情に違和感を覚えながら、僕の小指を、エレナの小指に絡ませた。余程、怖い夢だったらしい。
「約束する」と僕は言った。
「嘘だったら指切ってフレイに飲ませるから」
自分の指を飲む。御免だ。
「ぞっとするな」
僕らの家は他の家々とは離れた、辺鄙なところにある。森や市場へ向かうには、小高い丘を越えて行かなければならない。
「間違えて痺れ草を採らないでよね」エレナは悪戯な笑みを浮かべた。
「気を付けるよ」
「ふふ、じゃあ後でね」
「ああ」
二又の道をエレナと別れた。僕は左に、エレナは右に。
ドクダミを採り終えた僕は、森の中へ入って行く。何か適当に狩って帰ろう。暫く進む。鳥が鳴き、木々の葉が風に吹かれ揺れている。ウサギが居る。そっと、音を立てないように岩の陰に隠れる。ウサギのすぐ近くに洞穴がある。彼らしか通れない、専用の小さな洞穴だ。簡素な矢を、簡素な弓に引っ掛ける。ぎぎと、弦が張られ、気づかれないかとどきどきしたが、大丈夫だった。
僕の弓矢に射抜かれたウサギは、近づいて見ると存外大きかった。手を合わせて、僕は獲物を担いだ。
帰り道、呑気なメロディーの口笛を一人吹く。風が心地よい。平和である。どこを見たって緑がある。エレナから聞いた夢のことを考えて、僕の見た夢を思い出す。神話によれば、勇者は夢で見たのと同じ剣を振るっていたそうだ。どうして僕は、そんな剣の夢なんか見るのだろう。まさか、僕は勇者になりたいのかな。いや、思わない。第一、世界はこんなに平和なのだ。小さな世界の小さな日常に、最大限に幸せを求めたって、罰はあたるまい。
二又の道まで折り返した僕は、市場へ至る右側の道を振り返った。エレナの姿は見えない。少し、待ってみようか。ほんの五分ぐらい。あるいは、もう先に行っているかも。そう思って、僕はやっぱり歩くことにした。
丘の麓を、エレナが一人歩いている。大声を張らなければ会話できないほど、僕と彼女の距離は空いている。
「おーい」と声を掛けてみる。
エレナはすぐ振り返って、わざわざ合流するために来た道を引き返してきてくれた。
「早かったわね。ウサさんまで」
「運が良かった」目の閉じられたウサギ。今日のごちそうだ。
二人並んで、丘を登る。
「今度服屋に連れてってよ」
「服屋? 僕は要るのかい」
「要るわよ。バカ」
「バカって……ひどいな」
「酷くないわ。今の状況、全ての女性があなたにバカって言うわ」
「よく覚えておくよ」
よく覚えておこう。
頂上まで登って、慣れた景色を……。家の扉が、乱暴に破壊されたように、庭の上に落ちている。じいさんが倒れている。胸のあたりが赤い。じいさんはそんな柄の服を持っていない。そばに、男が立って居る。
考えのまとまらないまま、丘をほとんど転げるように下りた。急いで立ち上がり走る。男が僕を見た。片手に持たれた剣の切っ先が、まるで血塗れたように。
「お前が、やったのか」膝から下が、がくがく震える。
男はどんよりとした、精気のない瞳を僕に向けた。そうして薄く笑い「そうだ」と言った。
体の震えが、武者震いであったらどんなによかっただろう。後方から、慌てた足音が聞こえる。まずいと思った。顧みると、エレナが荷物を放り出して、体勢を崩しながら、もうそこまで来ている。
「に、逃げろ」自分の声が、震えているのがわかる。
「逃げられない」と男は言った。「運命なのだ。貴様らは運命という籠に囚われた小鳥に過ぎない」
男は黒い剣の切っ先を僕に向けた。心臓が、どくんと鳴る。体中に響いて、息がし辛くなる。「小僧、貴様はこれから私に殺される。そこの女の体は、私のものになる」
いつの間にか吹き出ていた冷や汗が、眉間を伝って頬に垂れた。見えなかった、気付くと男が目の前に。真っ黒な甲冑。虚ろな目。殺されると思った。逃げたいと思った。
僕のお腹に、鋭い衝撃が入った。殴られたのだ。その場でうずくまる。痛みが、腹部から、足先、指先にまで拡がっていく。顔を、玉のように蹴られ掴まれる。「貴様、それでも……」
「やめて!」エレナが叫んでいる。「殺さないで、お願いだから」
声でわかる。彼女は泣いている。でも、どうにもできない。起き上がることすらできない。
男の手が僕から離れた。男が、エレナの元へ歩いて行く。エレナは一歩後ずさったが、逃げはしなかった。その顔には、諦めがあった。手が、エレナの髪に触れ、恋人にするように撫でられた。そして顎に触れ、くいと持ち上げ、自分と目を合わさせた。
「私のものになると誓うなら、小僧を生かそう。その勇気に免じて」と男は言った。
エレナの視線が、ほんの一瞬僕に注がれた。「わかったわ。だから彼を殺さないで」
「賢明な判断だ」
体に力が入らない。ただ、鼓動の音のみが響いている。
「諦めるのですか」と誰かが僕の心に言った。
だって、無理じゃないか。勝てっこない。
「勇者が聞いてあきれますね」
勇者? 僕が。そんなわけない。
エレナに向けて、何とか手を伸ばす。彼女の悲痛な瞬きのあと、僅かに僕とエレナの視線が交差する。しかし、男が立ちはだかる。
「貴様は殺さん。魂が、心が穢れては困るからな。それに殺す価値もない。くだらない」
黒い靄のような楕円が現れた。楕円は球体になり、男とエレナを包み込んだ。包まれる直前、エレナの「必ず向かいに来て」という声が聞こえた。僕は無意識に頷いた。エレナに、見えていただろうか。
それからも体の痺れがなかなか取れず、僕は動けなかった。動けるようになったのは、夜になってからだった。墓を、掘ってやらないと。家に戻って、シャベルを取り、庭に穴を掘り、じいさんを埋めた。夜通し、シャベルと土の音以外が、世界から消えてしまったように思えた。
気づけば朝だ。壊れた扉を修理して、開閉具合を確認する。前に一度嵐で壊れた時に、直し方をじいさんに教えてもらった。ちょっと具合が悪い。じいさんがいたら、もっとよくなっただろう。
家のそばの桜の木を眺める。この木の下で、春になると毎年三人で花見をした。僕らは家族なのだ。血の繋がりはないけれど、家族なのだ。朝昼晩、皆でご飯を食べなきゃあいけない。
両頬が、勝手に濡れている。拭っても拭っても濡れる。どうにもしようがない。
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