文化祭カルテット
新森恵
一日目
一日目 ♤ーA
電車のドアが開くと同時に、冷たい風が首元を撫でた。
皆、同じように感じているのだろう。先ほどから、紺色のブレザーを着た桜日高等学校の生徒たちが、身を震わせつつ構内へと向かっている。
しかし、その震えはこれから始まる文化祭に対しての興奮にも思えるのも、また事実だ。
改札口を通り抜けると、相棒は既に到着していた。
彼女の黄金の髪はポニーテールにまとめられており、西洋人形のような端正な顔立ちと同世代の女子にしてはかなり高い背丈もあいまって、外見だけはモデルといっても差し支えない。
また、格好もスカートではなく男女共用の制服であるチェックのズボンを履いていることから、どことなく王子様然とした印象を受ける。
……ただし、目つきが悪くなければ。
彼女は、ぼくの到着に気がつくと、それこそ狐を思わせる鋭い目つきで睨む。
「ああ。
「家にいても兄さんがうるさいからな。早々に出てきた」
「ああ。恒枝大学、今日休みなんだっけ」
「いつまでもシスコンなんだよ兄さんは」
ぼやく剣。
「――そもそもトーマが待ち合わせ時間を指定したのに、当の本人が遅れてどうする」
「ごめんごめん」
「オレが遅れたら文句をいうくせに、自分には甘いんだな」
呆れたように剣はため息を吐いた。
『オレ』だなんて、随分と格好つけた一人称だが、剣の場合、それが当然のように思えるから不思議だ。
剣の隣をみると、そこにはボブカットが印象的な小柄な女子生徒がいた。背丈だけ見ると中学生と間違えてしまいそうだ。剣とは異なりスカートをはいている。名はたしか。
「
「おはよう、
ちいさくえくぼをつくりながら石波さんは、ぼくに笑いかける。
石波だいやさん。隣の二年四組の生徒だ。文化祭の打ち合わせの際に幾度か顔を合わせたことがあった。
童顔な彼女が笑みを浮かべると、より幼い印象が強まった。
「石波さんと剣って、知り合いだったの?」
「うん。家が近所なんだ」
ね、と確認するように、剣の方を向く石波さん。剣は小さくうなずくことで肯定を表した。
「ところで、理音(りおん)ちゃんのクラスは何やるの?」
どうやら、先ほどまで二人で歓談していたところをぼくが邪魔してしまったらしい。
石波さんの問いに剣は、どことなく不機嫌そうに答えた。
「不思議の国のアリスをテーマにしたカフェ」
「……あれのどこにアリス要素があるのかな」
ぼくは、思わず横から口を挟む。
「
「トーマは知らないだろうが、あれ借りるのも結構大変だったんだからな。演劇部と調整するのだってかなり面倒だったし」
頭を押さえる剣。剣はこの数か月間、我がクラスの文化祭実行委員として、盾屋さんと共に活動していたのだった。
「えーっと。つまりは、どういうこと?」
話を掴めていない石波さんは小首をかしげる。
「衣装を借りられなかったんだよ」剣が呆れた口ぶりで続ける。
「専門の業者から衣装を借りる予定だったんだが、演劇部も同じ業者にレンタルを頼んでいたらしくてな。学校や業者を交えて色々と相談した結果、演劇部に衣装のほとんどをとられた」
「で、ぎりぎり借りられたのがウサギとチェシャ猫の着ぐるみだったと」と、ぼく。
「なるほど。そっか。学校としては演劇部の方に期待しているんだもんね」
何ともいえない微妙な顔をしながらも、石波さんは納得した。
「今年なんか、ミステリ作家の珠之宝賀(たまのほうが)先生に脚本を書いてもらってるくらいだしね。そっか。舞台の裏にはそんな大人の事情があったんだ。楽しみにしてただけにちょっと複雑」
珠之宝賀の名が出ると、剣は少し意外そうに、
「へえ。珠之宝賀を知ってるんだ」と、呟く。その言葉に石波さんは目ざとく反応して、
「理音ちゃんも読んだことある?『離れ行く季節に』って本」
「まあ読んだことはあるが……」
「じゃあさじゃあさ。『飛び散った青はいらない』は? 新シリーズの『貝ヶ森絵画の審美眼』も読んだ?」
「一応、な」
剣がそういうと、石波さんは明るい声をあげた。
「え、わたし珠之宝賀先生の本を全部読んでる人に初めて会ったよ! 理音ちゃん読んでたなら教えてよ!」
石波さんの口調が興奮気味になる一方で、剣はぼくをからかうように、にやついた視線をよこす。石波さんがぼくの様子に気づいていないのが幸運と言えば幸運か。
「珠之先生、出版のペースが遅いのが残念だけど、いままでに出た作品全部が、なんていうのかな。登場人物にすごく共感できて。それに、これまでミステリって難しいイメージがあったんだけど、珠之先生の本を読んで初めてミステリの面白さが分かった気がするし」
熱っぽく話す石波さんの様子にこらえきれず、剣は笑い出した。
「わ、わたし何か変なこといったかな?」
「悪い悪い。こっちの話だ。だいやがそんな風に熱く語るのが珍しくて」
剣が笑ったのは、それだけが理由じゃないだろう。そんな言葉をぐっと飲みこむ。
一方で石波さんは、我に返ったのか、顔を真っ赤に染め上げている。
石波さんは一度、コホンと咳払いをしてから、
「でも、びっくりしたなー。珠之先生の新作がこんな形で楽しめるなんて」
「オレとしては、珠之宝賀が不思議の国のアリスモチーフの脚本を書かなければ、衣装周りでこんなに苦労しなかったんだがな」
「そんな意地悪なこといわないでよ。理音ちゃんは楽しみじゃないの?」
「それとこれとは話が別だ。珠之のせいでうちのクラスの模擬店の計画が大幅に狂ったんだ。トーマもそう思うだろ?」
どこか怨嗟のこもった視線で、ぼくを睨みつける剣。思わず背筋が伸びる。これには、渇いた笑いで返すしかなかった。
「じゃあ、理音ちゃんもコスプレするの?」
「オレはウサギの着ぐるみを着る。盾屋の趣味に付き合うつもりはない」
「そんな。もったいない。盾屋さんの衣装で理音ちゃんがコスプレした姿、見たかったのに」
「それが嫌だったから、着ぐるみを借りたんだ」
その時だった。
ぼくと剣のスマホが、同時に振動した。
お互いに顔を見合わせてから、スマホを確認する。
噂をすればなんとやら。盾屋さんからメッセージが届いていた。
「……剣、どうやらその予定は崩れたようだよ」
盾屋さんからのメッセージは、実にシンプルな一言だった。
盾屋『ウサギの着ぐるみが逃げた!』
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