6.
「違うんだよ、虫が逃げてたから……! 中に帰してあげなきゃって思って!」
「僕は中見てない! 本当だよ、信じてベゼッセンハイトさん!」
「でも開けちゃいけないんですよ、そもそも」
「ね、響さん」
* * *
「何故開けてはダメかといえば、発狂する危険があるからです」
彼がゆっくりと語り出す。
「発狂……?」
「前任運命神は人智を超えた存在、名のある神でした。何者かに殺されるまではこの家で『運命の書』の記述をしていた」
「そして本にはなくてはならない虫に命を宿して、小部屋の中に閉じたのです」
「彼女の著す運命には一寸の狂いもなかった……」
恍惚たる表情でうっとり言いながら彼は先程逃げたという小さな羽虫を手の動きだけで引き寄せた。止まり木のようなその手に器用にその虫を招き寄せ――
「狂いが一点でもあるならば」
指の腹をよちよち歩く小さな虫を愛し気に眺め
「抹消され、なかったことになる」
一息にぶっ潰した。
指の腹ですり潰し、クリーム色の臓物を舌で絡めとる。その舌のぬめりに何故だかドギマギした。
いつもの、彼じゃない。
「だからこの部屋を扱うためには『ちから』がいる」
ずんずん歩み寄ってくる彼。それを自分は椅子に座りながら凝視するしか能がなかった。
過呼吸を起こす体。緊張でおかしくなりそうな頭。
そんな自分を抱え込むように先程虫を食べた男は僕の背後に立ち、頭上からその豊かな髪を垂らした。
「でもこの『ちから』さえあればあなたの抱える苦みも全部取ることができるよ」
「ね? ひびき」
* * *
「君、お外ではひとりぼっちなんだって?」
突然耳に甘ったるく囁いてきた言葉が胸を深く刺し貫いてきた。
何か身の危険を感じ、慌てて椅子から離れる。
「優しいお母さんもお父さんも帰りが遅くって」
「家族で食卓を囲んだ覚えがあまりない」
「おまけに学校では友達とも先生とも馴染めない」
「『こんな問題もわからないのか!?』」
「『ちょっとまずいなぁ、響』」
――担任の声だ。
「指導」の名目でしつっこく僕を追いかけてくる奴……。
アイツのせいで町中に逃げ場がない。だからここに来たのに。
反射的に耳を塞ごうとしたけど彼が許さなかった。
ベゼッセンハイトさん、が。
背後から絡みつくようにきつく腕を胴に回して、両手を縛るように掴んできた。
恐怖が初めてこの場を支配する。
首筋を口先が滑らかに滑った。
「『水くれてやるよ』」
「『飲めよ、響。飲めるよなぁ』」
一気にあらゆる物事がフラッシュバックしてくる。
「約一か月前。髪を引っ掴まれた君は」
「雑巾を絞ったほこりとゴミだらけのバケツの汚水の中に」
「顔を突っ込まされた」
「もうやめて!」
「ちょっと焦がれていたあの子の髪の毛。初めて食べたけど不味かった」
「もう聞きたくない!!」
「その舌に覚え込まされたでしょう、細かい糸くず、髪の毛が絡みつく感触。菌が口腔内を這うようなイメージ」
どんどんあの頃のことを思い出してしまって、本当に気分が悪くなってきた。
立っているのもやっとで、頭がぐらぐらする。
そのまま二人あっちこっち彷徨った挙句、揃って倒れ込むように例の「小部屋」に転がり込んだ。
床に散らばる無数の虫の死骸、元気よく飛んでは彼の口に飛び込んでいくもの、歩くたびに押し潰されるもの、肌の上を歩くもの。
背中が、背中が数多の命で気持ち悪い!
しかし馬乗りになった彼はまるで後光を背負った、その狂った空間内の神か何かのような神々しさで僕のことなんか構わずうっとりと言った。
「でも『ちから』を得ればそんなもの、全て過去になる」
「ね、響。見てしまった以上はお前に幸せをあげる」
「――受け入れろ」
至近距離で小さくそう呟いて転瞬――何も経験したことのない口に一息に吸い付いてきた。
直後、へどろのようなきつい臭いのねばねばした何かが大量に口腔内に侵入してくる。
――!
胸から込み上げてくる変な感じと、気道と食道を塞ぐ「何か」の這いまわる気配が苦しくて、何度も暴れた。
でも誰も助けてくれない……!
助けて!
苦しい!
苦しい!
助けて!
お母さん!!
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