本の虫
星 太一
1.
それは秋の癖に変にうだる真昼間。午後一時。
「何か、良い本は、ありません、か」
「凄く凄く、時間を潰さなくっちゃいけなくなるような、本……」
少年が町外れの古書店にやってきた。
* * *
しぱしぱとまばたきをした眼鏡の店主が後ろにかかっているカレンダーを意味ありげにちらりと見た。
「あれ、学校は?」
それに汗だくの少年の肩が震える。
「……ただの、おつかいです」
「誰から?」
「図書館の先生の。来週企画展示やるから各自おすすめ本持ってこいって」
「ふぅん。それでここに?」
こくんと頷く。
「……図書館の企画展示なら図書館の本を選ぶってもんじゃない? 本当にここので良いの」
ゆっくりと噛みしめるように頷いた。汗の雫が一粒、床に落ちる。
「用事が済んだらとっとと帰りますので」
「そう。……ご所望は」
「分厚い本が良いです。簡単には読み終わらないような、それでいて『なり上がり』だとか『ちっぽけな勇者がドラゴンを倒す』だなんだって話だとかそういうのを」
「そんな本ウチにあるかなー」
* * *
案の定なかった。
店主の趣味的にラインナップが偏っていたことと、ここが古書店だったことが一番の要因だ。ここはまだ明治やら大正やら昭和の中にいる。
でも「分厚い本」自体は幾つかあった。
「『三国志演義』とか、まだ近いんじゃないの。それか『はてしない物語』とか」
いざ開けば油とり紙みたいに薄いパリパリの紙に物凄く難しい漢字が沢山並んでいる。くらくらしてしまって、一気に読む気が失せてしまった。
一方『はてしない物語』の方は児童書というだけあってまだ読み易そうだが自分の中のリズムと文体が微妙に合わない。
でもそういうのは敢えて伏せておいた。
自分にとってぴんとくる物じゃなくても、長ければそれでいい。
寧ろそれが良い。
「じゃあ、これにします」
「満面の笑み」を浮かべ、店主と二人でレジまで歩いていくところで、
ふと、異様な空間を目にした。
壁越しに何かが見える。
奥の奥の奥までずっと続く暗い空間に錯視みたいにずっと続いていく本棚。
ぎっちり詰め込まれた革の本たち。
そこに綺麗なひとがいる。
瞳は思わず吸い込まれた。足がくっついたまま動かない。
息が出来なくなりそうな黒い豊かな髪を三つ編みでまとめ、直ぐに見えなくなりそうな小さな顔は雪の色。大きな本棚にもたれかかる線の細い体は羽のように白いゆったりとした服に包まれ、手元の赤い革の本に落とされる視線はどこまでも凪のように静かだった。
綺麗だなぁって思うんじゃ足りない。
そこにあったのは天使の相貌。人間の手に届くものではない。
だから吸い寄せられたまま息ができなくなるんだ。
嗚呼、もっと近くで見れるなら。
もっとこの足で近寄って、その神秘性に酔えるなら――。
「おーいどうしたんだい? 大丈夫?」
「あ、いや。何でもないです」
後ろ髪をひかれる思いでその場を後にした。
今、一瞬こちらを見たような気もして。
* * *
「ただいまぁ」
ひんやりとした暗い家に母親が帰ってきた。
「響? まだ起きてるの?」
灯りが漏れる子供部屋をそっと開ければむつかしい本を読むわが子がそこにいる。
「ごめんね、今大きなプロジェクトやってるから……帰りが遅くって」
「もう聞き飽きたよ。大丈夫だってば」
後ろから柔らかく子どもを抱き、頬をすり寄せる。それを子どもはちょっと邪険に突き放そうとする。思春期になってもう結構経った。最初は大ショックだったけれどもう今では慣れっこ。
「ごはんは美味しかった?」
「美味しかったよ」
「良かった。学校は?」
「勿論楽しかったよ。友達と昼休みにドッジボールした」
「中学生は元気だなぁ」
「満面の笑み」を浮かべた子どもに、にこにこ母親が笑いかけた。そしていつものように頭を撫でようとしてまた払われる。
恥ずかしいだなんて言われながら。
「響は偉い。学校も頑張って、家でもこんなに勉強してる」
「……」
「中国のお話? ……へえ、今の中学生は凄いや。もうこんな大学の専門書みたいなの読むんだね」
「先生が薦めてくれたんだよ」
「へえ、そうなの! お母さんますます誇らしいな!」
「僕も嬉しいよ。母さんに喜んでもらえて」
「まあ。また大人びたこと言ってるよ」
「でも無理しないで早く寝てね。お母さん、まだお仕事残ってるから」
「うん」
「それじゃあね。……愛してるよ、響」
そう言ってちっちゃく手をふりふり。静かに扉が閉められる。
そんな母親を見送ってから、子どもはスケッチブックに手を伸ばした。
あの綺麗な人を頑張って描き起こしてみる。
……すぐにやめた。思い出の中のあのひとが汚れてしまう。
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