醜悪な恋人

紫陽_凛

第1話

 私は醜女しこめです。そう呼ばれています。

 本当は私にもアンナという名があります。しかし今、その名で呼んでくださる人は一人もいません。両親が流行病で他界していらい、皆その名前を忘れてしまったかのようでした。

 ほれそこの、醜女、醜女とあだ名のように呼ばれ続けて、私はいつしか、醜女と呼ばれることに慣れてしまいました。

 これが、遺伝であるとか、生まれついた顔だったのならかえって諦めがついたのですが、「そう」ではないのです。ですから、毎日のようにかすみきりになる夢想をしています。死にたいとは申しませんが、ただただ、己の顔が恥ずかしくいやです。いつも、俯いて、できるだけ目立たぬよう地味な色のブラウスを着て、足早に街を歩きます。


 私の仕事は、掃除婦です。宿の清掃をし、次のお客のための部屋をこしらえる仕事です。ですから、ほんとうは、俯いてさえいれば、路傍の石と同じくらい目立たぬものなのですが、うっかり仕事中にお客と鉢合わせてしまうと、お客を怖がらせてしまいます。今日も、やってしまいました。

 私がドアを拭いていた時のことです。

 連れ立ってお部屋を出てきたご夫婦の、ご婦人の方が悲鳴をあげました。旦那様の方が、私を睨みつけ、「なんなんだ、きみは」と怒鳴りつけました。

「掃除婦です。申し訳ございません」

 怖がらせてしまった時は、謝罪する他ありません。奇異の目で見られた時には、仕事中ですので、と言って振り切ります。とにかく、こうしたトラブルを避けるためには、他人の目をとにかく避けるほかないのです。


 私の右目の瞼から、鼻を横切り、左頬に至るまで、大きな斜めの傷を入れたのは、近所の悪ガキのハンスでした。ハンスは大きな太い木の棒、幹と言っても差し支えないものをふりまわして、それを私の顔に振りおろしたのでした。遊び半分で、私の頭を殴りつけようとしたらしかったのですが、私が中途半端に後ずさったせいで、私の顔の皮は、薄くぺろんと剥げてしまいました。お医者様からは一生消えない傷だ、と言われました。

 でもハンスはこのことを悪いと思っていないし、ハンスの両親もお咎めなしだったので、悲しんでくれたのも怒ってくれたのも両親だけでした。アンナ、アンナ。私たちの可愛いアンナ。なんてことに……けれど今は遠い記憶で、私は醜悪な「醜女」です。

 


 特に今日の私は、慎重に仕事を行わなければなりませんでした。ベッドメイキングを施し、あちこちの埃を取り除き、バスルームを磨きあげ、ランプの傘を拭きあげます。蜘蛛の巣は毎日どこからか湧いて出て来ますが、それも取り除いて。机に残った飲みこぼしや、冷蔵庫の中の食べ物のしみなども、見逃さずにきれいにします。


 その部屋は、ある青年が長期滞在のために買い上げているスイート・ルームでした。何かと神経質なお客らしいので、仕事だけはテキパキとこなす私が専任することになっていました。もう既に4回もクレームが入ったということなので、「わかっているな」という雇い主の言葉に、私はすなおに頷きました。


「顔を見られないよう努めます」


 そうして、部屋中を拭き掃除している最中でした。内線の電話で、「予定にないお戻りがあったから今すぐ掃除を終わらせて引き揚げろ」というのです。「不可能です」と私は答えました。

「とにかく5分以内に全てを終わらせろ」と支配人は言い捨てて電話をがちゃんと切ってしまいました。仕方なく私は、優先順位をつけて、きっちり掃除を仕上げました。仕上げに掃除用具を入れたバケツを持って、スイート・ルームじゅうを見渡します。これならクレームは免れる、そう思って部屋を出ようとした矢先に──



 私は彼と出会ったのです。

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