懲りないアサヒのトリセツ
あさひ
第1話
遅い、遅すぎる。
朝イチの新幹線で戻るって言っていたから、一度家に帰って荷物をかたづけたり着替えたり、少し休憩してからなら午後のほうがいいかと思ってこの時間の待ち合わせにしたのに。
土曜日の午後、遅いランチを済ませた人たちは帰り、早めのティータイムなのか、仕事をサボっているのか、ビジネススタイルでおひとり様の客が多い、大通りに面したカフェの一角で姉を待っていた。
わたしより2年早く社会人になった姉は、後輩の指導などもまかされるようになり、ときどき出張もあったり、忙しく過ごしているようだ。
関西の大学を出て、就職を機に地元に戻ったわたしのことも何かと気にかけてくれて、たまの休日に二人で美味しいスイーツを食べたり、ときには一人では入りにくい、ちょっと高級なお店で食事をしたりして、定期的に近況報告をしている。
姉には、こっちが付き合ってあげている風をよそおっているが、わたしも姉と会うのは数少ない楽しみの一つだ。本人には言わないけど。
今日は、わたしも休みで、昨日の夜まで隣のI県に仕事で行っていた姉と午後からお茶をしようという約束。なのに、遅い。遅すぎる。
一度家に戻って、シャワーを浴びて、着替えてメイクしたとしても、朝イチの新幹線で戻っているなら、午前中には外出の準備は整うはず。クリーニング屋さんに行ったり、出張中のデータの整理をしたりして、予想外に時間がかかっているとしても、メッセージに一切反応がないのはおかしい。
スマホで鉄道の事故がないか調べてみるが、そういうこともないようで「通常運行」と表示されている。実家住みの姉が、ここに来るなら地下鉄を使うだろう。そう思って調べてみるが、東西線、南北線ともに通常運行である。
もしかしてタクシーを使って事故にでも? とも考えたが、市内で被害者が連絡すらつかなくなるような大きな事故は起きていないようだ。
時間に余裕があるからと、徒歩で向かって迷子になったか? という考えは、住みなれたこの街ではあり得ないとすぐに否定した。
休日の午前中、惰眠を貪り過ごすというわたしの壮大な計画は、それをあざ笑うかのような「新幹線乗ったよー!」という無邪気なメッセージであえなく潰された。おざなりなスタンプを返して二度寝しようとしたが、ウトウトする度に、わんこそばやら手焼き煎餅やら瓶に詰め込まれた海産物やら、意味のわからないスタンプが狙いすましたように飛んでくるので諦めた。おかげで掃除と洗濯が捗ったから許してやろう。
母にもメッセージで聞いてみたが、朝から外出しているので会っていない、メッセージも来ていないと誤入力・誤変換だらけの「おかんメッセージ」が返ってきた。こうして書くと、ふつうに通じているみたいだが、わたしのおかん語翻訳能力はTOEIC 990点レベルだ。
遅い、遅すぎる!
年の数ほどのメッセージに既読がつかないまま、そろそろ一度お店を出ようかと思ったところでスマホから、ポン、ポン、ポポン、ポンと全然リズミカルじゃない通知音がしばし鳴り続けた。
「ごめん」
「出張で食べ過ぎたから一駅前で降りて歩こうとしたんだけど」
「思ったより遠くて」
「通知に気がつかなくて」
etc……
「もうすぐ着く」
いらっしゃいませー!
店員さんの声が響く。
入り口を方を見たわたしの目に、スポカジでキメた? いや、むしろスポーツしてそのまま来ました、みたいな姿の姉が飛び込んできた。
短めのボブをなんとか一つに束ね、上気した顔にはうっすら光る汗。身につけているのは吸湿力と素早い乾燥が売りのランニングウェア、揺れにくいと評判のリュックに、腕には世界中どこでもGPSで正確な位置を把握し適切なペース管理をしてくれるGarmin 、着地衝撃から足腰を守り下肢の疲労を軽減してくれるCW-Xのレーシングタイツに、世界中で記録更新に一役買っている例の厚底レーシングシューズ。
カフェよりもマラソン大会のゴール会場にいそうなこの女。残念なことに、まごうことなき我が姉である。
無事であったことに安堵しつつも、そんな表情はもちろん見せない。
「一駅歩くだけでその格好? 東西線降りたら南北線乗らずに歩くだけじゃない」
「いやー、ごめんごめん。I県の人たち、いい人ばかりで、新米とか海の幸とか短角牛とか羊羹とかお煎餅とか色々いただいた上に、おみやげもたくさん下さったのよ~」
悪びれる様子もないな。それに、あんたの食べた量を聞いてるわけじゃない。
「それで、カロリー消費に歩いたわけね?」
「うん。荷物はホテルから宅配便で送って、F川で降りて走ってきたんだけど、フルマラソンくらいの距離だったみたい。さすがGarminは正確なラップを刻んでくれるね~」
ん?
F川?
「新幹線の一駅かよ!」
とりあえずシャワー浴びろ。いや、その前に水分補給が正しいのか。運動後だから糖質やタンパク質、ミネラルもだな。カリウムは大事だ、うん。
ふと見ると、姉が手にしているのは、バナナがたっぷり乗った、なんかカロリーの高そうなスイーツとソイラテ。痩せたいんだよな?
「これで、大豆のタンパク質と糖質とカリウムが補給できるでしょ? ところで、この後はなにを食べに行こうか?」
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