サタデー・ナイト・フィーバー
振矢瑠以洲
第1話
会社から帰るとすぐ、崎島鱗三は下宿の押し入れから手鏡と櫛とドライヤーとヘアリキッドを取り出した。鱗三はそれらの化粧道具を反対側の壁の前にドサッと乱暴に置いた。壁の下側には釘が一本打ってある。鱗三は手鏡の柄の先端に開けてある穴を釘に差し込んだ。微かに動く鏡には鱗三の不動の顔が映っていた。七三に分けられた鱗三の髪に雨のようにヘアリキッドが注がれた。端正な髪の処女性は不器用な左手によって凌辱された。鏡には髪の毛の雑木林が髪油でツヤツヤと輝いて映っていた。ドライヤーの音が鳴りはじめ、櫛が頭の上をうねり始めると鏡の中の目は奇妙な真剣さをちらつかせた。ドライヤーの蠅の羽音のような音と櫛の髪を撫でつける音は延々と続くように思えた。やがて鱗三の髪型は別種のものに変貌した。その髪型は壁に張られたポスターの青年の髪型を目指したものであった。その青年は『理由なき反抗』のヒーローであった。
下宿を出ると鱗三は駅に向かって歩いて行った。その歩きぶりはポスターの青年を真似ても全く似つかないような歩きぶりであった。駅前には田中寿夫と上村尋が鱗三を待っていた。寿夫は自転車修理工だが、仕事が終わると派手な柄のスーツに着替え、自慢の口髭にオーデコロンを軽く擦り付ける。その様は女狂いの大学教授としか思えぬ。寿夫の脇では尋が不気味そうに煙草を吹かしている。彼は喫茶店のウエイターの仕事を終えると長い足にぴったりと吸い付くようなジーンズとツヤツヤした革ジャンを身に着け、目には真っ黒なサングラスをかける。尋は鱗三の姿が目に入ると大きな声で彼の名前を呼んだ。近くを歩いていた女子大生らしき二人連れは、軽蔑的な眼差しを彼に向けた。
「オイ、リン、今日は馬鹿に決まっているじゃねえか」
尋は煙草の火をスニーカーで揉消しながら言った。
「なに、自棄になったのさ」
鱗三は苦笑いしながら言った。
「自棄になるとそんなにビチッと決めるのか」
鱗三の目に沈鬱な悲しみを認めると、尋は話題を変えようと寿夫の方へ目配せした。女の子が前を通る度に物欲しげな目つきをしている寿夫の思いは尋のそれとは懸け離れていた。
「そうさ、ビチッと決めてあのコを見返してやるのさ」
鱗三は髪の毛を撫でながら言った。
「それじゃお前、あの女に振られたのか」
いつの間にか寿夫が鱗三の沈んだ目を見つめながら口を大儀そうに動かし始めたが、尋の厳つい目つきに気づくと尤もらしい咳をひとつした。
「へへェ、図星さ。もうあんな女の後ろ姿も見たくないよ」
鱗三はコンクリートの上に唾を吐き捨てながら言った。
「でもあの女、中々いかしていたじゃねえか」
尋の目を気にしながらか細い声で言った。
「チェッ、あんな女十人並以下だよ。今度あの女見かけたら、鼻の辺りをよく見てみろよ。まるで化け物だぜ、エエエ」
鱗三は笑いたくもないのに無理やり笑いながら言った。
「おいちょっと聞けよ。俺今日友達からディスコの会員券借りて来たんだ」
尋はズボンのポケットから数枚のプラスチックの札を取り出した。
「ヘエー、ジン、なかなか気が利くじゃねえか。どうだい、今夜はリンの振られた祝いに軟派と行こうじゃねえか」
寿夫の声の調子はもはや尋の目の色を物ともしなかった。
「そりゃーいい」
尋は愉快そうに鱗三を見つめた。
鱗三は作り笑いを浮かべながら沈んだ目を尋の手の平の方へ向けた。尋の手の平の上ではプラスチックの板が暮れようとする陽光を反射させていた。
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