第3話 狼狽の気
傍に近づいてくる気配を感じて、少年と少女は話すのをやめた。二人揃って顔を上げる。二人の動きが呼応するのは、そう珍しいことではない。日頃から活動をともにしていれば、共鳴するプログラムが形成されることもあるだろう。人々はそれを絆などと呼ぶらしい。あまり良いネーミングセンスとはいえない。
灰色の空をバックに、背の高い人物のシルエットが見えた。
逆光になっているため、俯きがちな顔はよく見えない。
身につけている制服と、肩まで届く長い髪から、女性であるらしいことは分かった。
目の前に座る二人ではなく、その先の地面に焦点を合わせているのではないか、と疑ってしまいそうなほど、下を向いていた頭を持ち上げて、女性がこちらを向く。それでも、目もとにかかった髪が長すぎて、どこを見ているのか分からなかった。
「少し、いいですか?」
女性が声を発する。背丈に合わせるように声も高かった。高くて、澄んでいる。物のサイズと、音の波形を、どちらも「高い」という言葉で表すことができるのは、どうしてだろうと、少年はふと考えた。
「何がですか?」少年は応答する。
「あ、この子だよ」隣に座る少女が、目の前の女性を指さして言った。「この子が、その、転校生」
少女に指を指されて、女性は彼女を一瞥する。何のコメントもなかったから、それが彼女の反応の仕方なのだと理解するしかなさそうだった。
「何か用事?」少女が尋ねる。
「いいえ、貴女にはではなく、こちらの方に」そう言って、女性は少年を指し示す。
「何ですか?」
少年が問い直すと、女性はまた静かに目を伏せた。風が吹いて、彼女の長い髪を浚う。遠くの方で、自動車のクラクションが微かに聞こえた。意識すれば、周囲は様々な音で溢れている。静かであってほしいという願望が、一時的にそれらを消失させているにすぎない。
女性は再び顔を上げると、今度は明確に少年に焦点を合わせて、口を開いた。
「私と、お付き合いしていただけませんか?」
午後五時を告げるチャイムの音。
始めから終わりまで鳴り響く。
それくらいの時間。
誰も口を開かなかった。
「どういう意味ですか?」少年は首を傾げる。
「そのままの意味です」女性は答えた。「この学校に転校してきて、貴方が学校一の秀才だと聞き、是非一度お目にかかりたいと思いました。実際に会ってみると、容姿も申し分なさそうです。したがって、私と連れ添うのに適切であると判断しました。そういうわけで、お付き合いしていただけないかと、お願いしに参りました」
強くなりつつある風のせいで、女性の声がよく聞こえない、と少年は思う。
「つまり、端的に言うと、どういうことですか?」少年はもう一度質問する。
女性は顎を引き、彼をじっと見つめた。
「ええ、ですから、最初に申しました通り、私とお付き合いいただきたいのです」
少年はリュックから水筒を取り出し、蓋を開いてお茶を口に含んだ。その際に、少女に触れられている手を一度解く必要があった。それで、彼の意識は自然と彼女の方へと向けられた。たった今生じたこの一連の事象に関して、彼女に意見を求めてみようと考えた。
「どう思う?」少年は少女に尋ねる。
少女は二人が話している間も一人でクッキーを食べていたが、少年に問われると口を利いた。
「いいんじゃない?」彼女は応える。
「何が?」
「だから、お付き合いしても」
少女がクッキーを差し出してきたから、少年はそれを受け取る。少女は目の前に立つ相手にもクッキーを差し出す。女性はそれを黙って受け取った。二人が食べているのを見て、彼女も立ったままそれを口にする。毒が入っていないことを確かめたかったのかもしれない。
「付き合って、どうするつもり?」クッキーを食べながら、少年は女性に尋ねる。
「色々と、試してみたいと思います」口の中のクッキーを飲み込んで、女性は答えた。「たとえば、動物園に行ってみたいと考えています。カラオケで一緒に歌うのもいいでしょう。そうやって、関係が次第に深まれば、やがては結婚なども視野に入れています」
「なるほど」少年は頷く。「それで?」
「結婚してしまえば、それまでです。二人の間に、幸せな時間が訪れることでしょう」
「うん」
「お付き合い願えますか?」
沈黙。
三人で、クッキーを食べる。
クッキーはまだいくつも残っているから、喧嘩になることはなさそうだ。
少年の頭の中では、今日出題された物理学の計算が展開されていた。式はすでに立ててあるが、それをどのような手順で計算するのが最も合理的か考えている。本当は、そんなことをしないで、考えられる解き方を片っ端から試した方が早いことは分かっていた。ただ、今はそれができる状況ではない。
「うん、まあ、そうだね」少年は答えた。
彼の返答を聞いて、女性は一歩前に歩み出る。
「お付き合いしていただける、ということですか?」
「そう」
沈黙。
女性はその場で一回転した。
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